地上へ
R層から声がする。とても楽し気な声だった。
「まーまーのおっぱいは大きいなぁー! まーまーのおっぱいは大きいなぁー!」
「…………」
「おいおいあゆみん、そんなきつい目でわしを見ないでくれよなぁー! 何かに目覚めちまうだろう?」
「酔っ払いもここまでくると呆れるわね。警察がいたら即刻逮捕よ……ていうか、そのあゆみんって呼ぶのいい加減やめてくださいよ。私もうおばさんなんだから」
「は! ここは自由の国R層だぞ! わしがどう呼ぼうと、何をしようとわしの勝手だ!」
「……ほんと、自由でいいわね、ドルクさんは」
「がはははは!」
そこは小さなバーのようなお店だった。とはいえ、ところどころが傷んでいて、見るに堪えない有様になっている。かろうじてカウンターはまだ綺麗だった。そこに頭頂部が禿げ、前歯が何本か無くなった爺さんが座って酒を飲んでいた。顔が真っ赤で明らかに酔っているのがわかる。それもかなり。
アユミはそれをわかっていながらも出せるだけのお酒を出していた。なのでどんどんドルクの周りには小瓶やグラスが溜まっていく。
彼はアユミが経営するバーの常連客だった。いつも決まった時間にここにやって来ては酒を飲み、いつしか潰れてやっかんでくる迷惑な客でもあった。
だが彼には金があった。どれもぼろぼろではあったが、金だけは持っていた。それが不思議ではあったが、余計な詮索はしなかった。ここではそれが暗黙のルールだ。
「それで、キセキはどうなんだ? まだ出て来ないのか?」
だがドルクはその暗黙のルールをずけずけと破ってきた。酔ってるから、と言いたいところだが、ドルクは素面でもそのルールをことごとく破る。まさに常識破りの男だった。
「えぇ。まだ」
アユミは困ったような笑みを浮かべた。それは笑っているようで笑っていなかった。
けれどそれはあのときと比べれば途方もない進歩だった。
「もう二年だぞ。そろそろ立ち直ってもいい頃だろう。たしかにここは地獄だが、少なくとも閻魔大王がいない地獄だ。そこに秩序はない」
分かりにくい例え方だった。そもそも地獄なんて行ったこともないので想像できないし、ましてや秩序がない地獄なんてもっと想像できないし、というより秩序がないのが地獄なのではないかと、アユミは思考を巡らせたが、堂々巡りだということに気づき止めた。
「まぁとにかく、死なないでくれればそれで今はいいんですよ。あの子は強いから」
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「パパの子、ですからね」
アユミがこのように身の上話をするようになったのは、ドルクがここに通い始めて一年ほど経ったときだった。
ぽつりぽつり、彼女は語った。
アユミはこのR層に来た当初、何をするにも頑なだった。ここではまず、自分で家を見つけなければならなかったし、自分で何かを始めなければ金なんてまったく入ってこなかった。食料も自分で外壁を削って加工しなければならなかったし、服も自分で編まなければならなかった。
その際、必ず出てくるのは親切そうな男だった。彼はアユミとキセキの二人を助けようとしてくれた。だが、アユミはそのすべてを断り続け、そのすべてを自分一人でやってのけた。彼が本当に良い人だったのか、それとも悪い人だったのかは、もう今になってはわからない。
アユミははおんぼろの一軒家にキセキと転がり込んだ。
最初それを見た時はすべてが腐り果てていた。黒ずんでいて、虫が蠢いて、腐敗した匂いが立ち込めていた。
そのすべてを、アユミは一人で撃退し、かろうじて原型を保っていたカウンターを上手く使いバーを建てた。ちなみに二階はキセキとアユミの寝床だ。
まだバーができたてほやほやの頃、バーは今よりも賑わいを見せていた。きっと、アユミというママに話し相手になってもらおうという魂胆だったのだろうが、アユミは無愛想にただ粛々とお酒をつくっていた。
いくらちょっかいをかけても、罵詈雑言を吐いても、アユミは相手にしなかった。やがてこのバーには人が来なくなっていった。
ドルクはなぜかそれでも通っていた。口説こうとか相手をしてもらおうとか、なにかしら魂胆があったわけではない。ただ、気になった――彼女のなにかを慈しむようなその表情が。
こんな一寸先は闇のような場所でも、彼女は何かを信じていた。
そしてその正体がわかった――キセキだ。彼女はキセキのために生きているのだ。だから彼女は慈愛に満ち溢れているのだ。
けれどその当のキセキは今、死んでいるといっても過言ではなかった。もう少し突っ込んだ言い方をするならば引きこもっている。動かず、ただ窓の外を眺めているだけ。
それでもアユミは待ち続けている。彼が立ち直るまで。
まるで恋人のような関係だなと、ドルクは話を聞いたとき思った。それはとても儚かったが、とても心が温まった。
だが、それから一年の月日が今流れている。なのにそのキセキとやらはいまだ顔を見せない(ドルクはまだキセキを見たことがない)。
いくらなんでも引きこもりすぎだと、ドルクは自分勝手に思う。そのままおちょこをくいっと呷った。
そのとき、からんからんと音が鳴った。誰かが入ってきたようだ。
まったく二人きりの邪魔をしおってと、内心ムカッとしながらドルクは後方を振り返った――そして瞠目する。
「汚ねぇ場所だな。まぁいいか」
一人の紅い髪の少年が入ってきた。彼は赤銅色の鎧を身に着け、腰に剣を携えていた。そのすべてが綺麗で、清潔で、一目でR層の人間ではないとわかった。
彼はそのまま真っすぐ歩き、正面の椅子に腰かけた。ドルクの真隣だった。そしてそのままお酒を一杯注文する。
グラスが運ばれ、彼はそれを手に取り、匂いを一瞬嗅いだ後、それをくいっと飲み干した。
「あ、なんだこれ。まず」
彼は半分くらい飲んだところで――グラスから手を離した。グラスが宙に浮かび、やがて床に落下した。パリンと、グラスが割れた音だけが木霊する。
「な、何してるんだお前! せっかくあゆみんがつくってくれたお酒を!」
「あ? 誰だよおっさん」
少年の真っ赤でおぞましい目がドルクの方を向いた――その瞬間、ドルクはなにかを感じて仰け反った。立ち上がり、腰を曲げて臨戦態勢を取る。
「は。俺の殺気が伝わってくれて助かるよ」
せせら笑う少年に対して、ドルクは眉を吊り上げた。そして生唾をごくりと呑み込んだ。額から汗が吹き出し、微かに呼吸が荒れる。
――今、確実にこの少年は自分を殺そうとした。陽炎のようなほの暗い殺気を放って。
それはとても無遠慮で、けれどわかるものにしかわからないものだった。まるでそれは、透明な液体で形作られているような。
「こんなちっぽけな酒場に何の用だ? お前、ここの人間じゃないだろう」
「あぁ――そのことなんだけどさ」
少年の目線が逸れた。その不躾な瞳が、カウンターを挟んで目の前にいるアユミへと向けられる。
――そして彼は不気味な笑みを浮かべてこう言った。
「ここ、ぶっ壊そうかと思って」
今日が何月何日で、何曜日の何時頃なのか、もうキセキには見当が付かなかった。
あまりにも長い時間ここにいるようで、と思えばここに居たのはもっと刹那的な時間のようで――つまるところ、今自分が何歳の自分なのかもわからない状態だった。
髪が鬱陶しいくらい伸びた。背は測ってないからわからないが、体重は増えたように感じる。手も、ごつごつしてきた。確実に成長している気はする。
――だが、彼の中の時間は永遠と止まり続けていた。まるで壊れた時計のように、長針も短針も静寂している。針はあそこから動いていない。
ここはいつも薄暗かった。A層(ここの人間は上の世界をそう呼ぶ)から木漏れ日のようにミリオネアやトランプ塔から光が降り注いではくるが、それはA層の比ではないほど心許ない。だから薄暗い。
そんな世界を、キセキはじっと窓の外から見つめていた。いつまでこうしてればいいのかわからなかった。わからないからこそ動けなかった。
――だから一階から爆発音のような物凄い音が鳴り響いたときには、流石にキセキもその身を震わせた。けれどまた元の定位置に戻った。
騒音は、日常茶飯事だった。ここの連中はとにかく酔うとよく暴れるので、そういう音に関してはもうキセキは慣れっこだった。
また、破砕音が響いた。今度は何か重い物が何かに叩きつけられる音。そしてまた破砕音。グラスがこれでもかと割れる音。
キセキは嫌な予感がした。思わず布団を被って現実逃避したくなった。けれどさせてくれなかった。誰が、というなら己自身が。そしてその後浮かぶ、母の顔――心臓が跳ねた。
キセキは布団からゆっくりと出た。両足を軋む床に乗せて、立ち上がった。この動作がなぜか久しく感じて不思議だった。
破砕音は今も鳴り続けている――それどころか物凄い地響きや呻き声、壁に何か重たい物が叩きつけられたような轟音も響く。
もしかすると、複数の酔っ払いが無邪気に暴れ回っているのかもしれないと勘ぐったが、それにしては笑声が聞こえない。大抵酒を飲んで暴れるやつは笑うはずなのに。
キセキは穴開き階段をそろりそろりと下りていく。すると、キセキの耳に男の声が聞こえてきた。酷いだみ声で年寄りの匂いがした。
一階にたどり着き、キセキは窓ガラスのない窓の窓枠に隠れながら、そっと中の様子を見た。
「は……?」
店内はキセキが思っていた何十倍も荒れ果てていて、まるで台風でも通り過ぎたかのようだった(台風自体経験したことはないが、破壊力は知っている)。
「――――!」
男の声が聞こえてきて、キセキは咄嗟に蹲って身を隠した。今の声は驚きすぎて聞こえなかったが、こうして小さく丸まって音を聞こうとすると、彼らの声が聞こえてくる。
キセキは静かに耳を澄ました。
「ここをぶっ壊す……?」
予想外の言葉に、アユミは思わず聞き返した。
「そ、そんなのだめに決まってるだろうがぁ! ここはアユミとキセキ――家族の居場所だぞ! そんな所を壊そうだなんていかれてるぞ、お前!」
「いかれてるには賛成だ。だがな、俺にははっきりとした理由があるんだ。ここをぶっ壊す理由が」
「理由……?」
アユミはますます訳がわからなくなった。彼女はこの少年を見たことはない。なのに彼はここを壊す理由があるという。
「それは一体?」
「お前等を強くさせるためだ」
「強く、ですか?」
アユミの頭は疑問符だらけだ。彼の言っている理屈が理解できない。
――けれど、次の言葉は理解することができた。
「俺はお前等を買おうと思ってる。この意味、わかるか?」
「――!」
お前等を買う――ようはキセキとアユミの家族を買い上げる。金によって。
そうするのはなぜかなんて、理由は一つしかない。
「これでお前等はA層に戻ることができる」
アユミは声も出なかった。驚いたからではない――怖かったからだ。
「私達を買って、何をさせるおつもりですか?」
「決まってるだろ。ダンジョンだ」
「――――」
ダンジョン。
今のアユミにとって一番聞きたくなかった単語。家族をぶち壊し、奈落の底に突き落とした恐怖の象徴。
それが今、アユミの身に降り注いでいる――ここから這い上がる一本の糸のように。
「どうして私達なのですか……?」
「そんなのお前等が知ることじゃない。だが、これだけは言ってやる。よく聞け、一度しか言わねぇぞ?」
一拍置いて、
「俺はお前等を助けるためにここに来た」
そう言った。
「助けるために……?」
「そうだ。別にお前等を取って食おうってわけじゃないし、奴隷のようにして扱おうってわけでもない。そうだな、言うなら家族にするつもりだ」
「……はぁ」
アユミはもう頭がいっぱいいっぱいで付いていくのに必死で声が思うように出て来なくて気の抜けた曖昧な返事になった。
「なんだ、ちゃんと聞いてたか? もう一度言うか?」
「あ、いや、結構です」
「……そうか」
一拍間を置き、
「で、だ。俺がお前等を買うために当たって、お前等には強くなってもらわなきゃならない。だから、俺がこの家をぶっ壊す。そうすりゃ強くなるだろ」
それはまごうことなき横暴理論だった。理屈もへったくれもあったものじゃない。
「そうだろ?」
「――ありません」
「あ?」
「行きたくありません。私は――いえ、私達は、A層に帰ってダンジョンに入るくらいならここで一生暮らし続けます」
アユミはきっぱりはっきりと言った。これは本心だ。ダンジョンになんて潜りたくないし、家を手放すつもりもない(もちろん壊されるつもりも)。
それになにより、もうこれ以上家族をダンジョンで失いたくない。
「…………」
少年はすっと黙り込んだ。何かを考えているようだった。
アユミは生唾をごくりと呑み込んだ。いきなり怒り出すかもしれないので、気は抜けない。
「なら、仕方ねぇな」
少年は静かにそう言った。そこには諦念した雰囲気があった。彼はそのまま椅子から立ち上がった。
そして。
「殺そう――お前等もろとも」
悪意が、狂乱する。眩暈を覚えるほどの殺意が渦を巻く――それはさながら台風のようで。
咄嗟に動いたのは、ドルクだった。
素早い動きで短刀を鞘から抜いて少年に斬りかかる。
「うらぁ!」
「あぁ?」
少年は口角を思い切り吊り上げて、笑う。
「俺に勝てるわけねぇだろうがぁ!」
少年は剣を抜いて体を捻りそのまま横に一閃。それをドルクは刃で受け止めるものの、そのまま衝撃波に体を奪われて後ろの壁に激突。剣の風圧で周りの家具や棚に置いてあったグラスやボトルが落ち、甲高い音を立てて割れていく。
アユミは袖を顔の前にやって踏ん張りなんとか耐え凌いだ。
剣を一振り振っただけでこの威力――アユミは全身が一気に寒くなった。
「あゆみん逃げろ! このままだと殺されるぞ!」
ドルクからそう言われても、アユミはその場から動けなかった。少年から発せられる禍々しい殺気に当てられて、体が金縛りにあったように言う事が聞かない。
「まだ、間に合うぜ、ばあさん。お前が頷けば、お前も、このじいさんも、そしてもう一人、確かキセキって言ったな。そいつも助かるんだぜ」
「――――!」
アユミは瞠目した。少年はここでアユミを殺しても止まらない。次に標的にするのはキセキだ。大事な大事な一人息子だ。彼のためなら死んでもいい。
――けれどここで死んだらただの犬死だ。
「なら、私だけA層に連れて行きなさい」
「そしたらキセキだけ殺す。言ったろ? 俺はお前等を絶対に助けたいんだ。そのために俺はここに来た。どちらか一方を助けないなんてそんなの俺の主義に反する」
この少年はおかしい――狂ってる。それも過剰なまでに。
「何が貴方をそうさせたの……?」
「この世界だ。この世界が俺をこんなひねくれた正義を掲げる男に育て上げたんだ」
「貴方は間違ってる」
「間違い続ければそれは正義だ」
「ねぇ、一つ聞いてもいいかしら?」
「あぁ?」
「貴方のお名前は?」
「……スレイド。スレイド=キット」
「そう。やっぱり貴方だったのね。お父さんが気にかけてた子」
「…………」
「わかった。私も覚悟を決めましょう。スレイド、」
「なんだ」
「私は――私の家族は、貴方に買われるつもりはない。私は、アユミ=オリジナルとしてここで生きていくわ」
「それが、答えか?」
「えぇ。これが私の答えよ!」
アユミは咄嗟に落ちて割れた瓶の破片をスレイドに投げつけた。そのままカウンターをよじ登り跳躍。転がるようにして床に着地する。
「危ねぇな。目に当たったらどうすんだよ」
スレイドは無傷だった。剣で弾いたか避けたのだろう。そんなのはどうでもいい。距離が開けばやりようはある。
アユミは先程破片と一緒に掴んだ割れたボトルの上半分を取っ手を握るようにして持つ。武器はこれしかない。
「それで勝てると思ってんのか? いい加減にしろよ、お前」
スレイドの怒気が高まった。目がぐわっと見開いて、全身が力み始める。
「いいか!? 俺はお前等を買ってここから連れ出してやるって言ってんだ! 助けてやるって言ってんだ! なのになぜ言う事を聞かねぇ! 大人しく助けられねぇ! ふざけてんのか! お前が俺に勝てるわけねぇだろ! 調子に乗るのも大概にしろ! 強くもない弱いお前は、俺に従っておけばいい! なぜそれができねぇ!」
スレイドは奥歯を噛みしめ全身を震わせてアユミをねめつける。怒りの感情をぶつける。けれどそれは純粋なものではなくて、色々なものがぐちゃぐちゃに混ざりこんでいて。
――きっとこの少年は悪くない。彼は強さしか知らない。彼にはそれしかない。だからひねくれた正義だってわかってても、それを掲げたがる。自分は間違ってないと、証明でもするかのように。
「スレイド。貴方はとても不器用ね」
アユミは言う。それはとても母性に溢れていて。
「私の自由は私が決める。家族の自由は家族で決める。キセキのことはわからないけど、あの子はきっとこう言うわ。俺も残るって」
「は! そんなのわかるわけねぇだろ! 人の考えてることなんて誰にも――」
「わかるわよ。だって家族だもの。それに、あの子はお父さんの子だから。私の愛した人の子供だから。今は閉じこもってるけど、必ず帰って来る。私はそれまで待つ。あの子が笑顔になるまで、一生傍に居続ける」
だから、とアユミは言う。
「強く在ろうとしなくていいのよ、スレイド」
「――――!!!」
スレイドの心が揺れ動く。怒りが沈み、冷静さを取り戻していく。体からは力が抜け、幾ばくが軽くなる。
――それでも、心は何か別のものに支配されたままだった。
「強くなきゃ、だめなんだ。そうしなきゃ俺は、価値がない」
澄んだ紅蓮の瞳が、まっすぐアユミを直視する。これだけは譲れない、とでも言うかのように。
「弱いまま生き続けたって、死に続けるだけだ。だから俺は強くなる――いや、強く在る」
「……そう。私じゃ貴方を変えられなかったのね」
「人間そんな簡単に変わりはしねぇ」
確かにそうだ。アユミも同じだった。変わりたくない。だから自分もここに残ろうとしている。なら。ならばせめて――
「キセキだけは殺さないで」
それだけが心残りで、それだけが心配で、それだけが悔しい。彼はまだ上で寝ているのだろうか。それとも起きてぼうっとしているのだろうか。できれば逃げていて欲しい。どこか遠くへ。彼の目が及ばないところまで。
でも、そうしたら彼は本当に一人になる。孤独を背負って生きていくことになる。それを思うだけで心が張り裂けそうだ。
「キセキ、だけは……お願い」
スレイドはそんなアユミに最後の言葉を贈った。
「それはお前が決めることじゃない。そんでもって、俺が決めることでもねぇよ」
視界に刃がにゅるりと入り込んで来た。刃がうねっている。きっと涙のせいだ。
――突然、アユミの手が握り締められた。それは少し角ばった男の手だった。
「え――」
そのままアユミが持っていたボトルの上半身を優しく取り上げ、彼はアユミの前に立ちはだかった。
「母ちゃんは死なせねぇ」
まだうんと小さくて、手もぷにぷにで可愛かったはずなのに――いつのまにこんなに大きくなったのだろうか。
「おらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!」
キセキは目の前に迫りくる刃の横っ面を思い切りそのボトルで叩いた。ボトルの破片が割れて飛び散る。それはきらきらと光に照らされ反射しきらめく。
――まるで彼を飾り付けてるかのようだった。
「ぐッ――――!」
スレイドが体勢を崩して前かがみになる。剣の刃が床に思い切り突き刺さってすぐには抜けそうにない。ピンチがチャンスへと変わっていく。
キセキは足を思い切り踏み込んで拳をつくった。が。
「いけると思ったか、少年」
スレイドは剣を手放し、先に動いたキセキより早くその拳を振るう。
「がはッ――!」
キセキはそれをたやすく顔にもらい、そのまま激しく床に叩きつけられた。一瞬、息が出来なくなる。次いでけほけほと咳をした。
「この二年、お前は何もしてこなかった。そんな奴に何が出来るってんだ」
「――できる。俺はできる。守りたいものが在るから」
キセキはふらふらになりながらも無様に立ち上がる。それを、アユミは心配そうに見つめていた。
「だから死なない。お前を倒してここを守る。家族の居場所を、俺が必ず――」
「ばか言わないで!」
遮ったのはアユミだった。がばっとキセキを守るように抱きしめる。その体は震えていた。
「貴方はまだ九歳なの! 誰かを傷つけるのも、傷つけられるのも、私は許さない!」
それでも、アユミはキセキをぎゅっと体の内側に抱きしめたまま、スレイドを見る。
「それはお前のエゴだ、ばあさん。あんたはさながら鳥かごだな。鳥かごっていう――枷だ」
「私はキセキが傍にいてくれさえすればそれでいい。傍にいてくれさえすれば、私はもう何もいらない」
「母ちゃん……」
キセキの胸が、ずきりと痛む。それはとても苦しくて、思わず胸をかきまわしたくなるような痛みだった。痒みに近いかもしれない。
「だからそれは、お前が決めることじゃない。おい、少年。お前はそれでいいのか? それで満足か? それで生きてるって言えんのか。なぁ、おい! どうなんだよ!」
スレイドの言葉は段々荒くなった。イライラしているのがキセキにはわかる。きっと理解できないのだ、アユミの心が。愛情というものの、正体が。
「俺は――」
いつもいつも、考える。この二年間で、それらは頭から離れなかった。むしろそれはどんどん大きくなってキセキの心を支配した。それらは鎖のようにぐるぐる巻きついて、容易には取れそうにない。
謝りたい。彼に謝りたい。あのときのことを、謝りたい。
顔が見たい。彼女の笑った顔が見たい。屈託のないその笑顔が見たい。
会いたい。あの二人に会いたい。
だから――俺は。
「ここを出たい」
「それは、なんのためだ」
「あいつらに、会いたいんだ」
「なら俺がその夢を買ってやる。いや、夢どころじゃねぇ、お前等家族も丸ごと買ってやる」
「え?」
「その代わり、お前には自由を失ってもらう。といっても、別にずっと拘束してるとかそういうわけじゃねぇ。ダンジョンに入ってもらう」
「それが条件なのか?」
「あぁそうだ。どうする?」
「やるよ、俺の自由。だから、俺の家族を助けてくれ」