第三章 再来する神隠し
瞼を上げても、そこは変わらず闇だった。閉鎖された空間に風はなく、閉じた世界に音はない。色のないこの部屋には、だが闇に慣れた目には輪郭と影を映す。
無言で、彼女は首を右に捻る。
時計の針が巻戻るように、首を持ち上げ、正面を向いて、左に落ちる。無音が、彼女の耳の中で木霊する。
無秩序な部屋。
鹿の首、仮面、中世の甲冑、騎士の剣、絵画、あらゆるモノがこの部屋には詰め込まれている。床には絨毯、机は洋風の上等品、戸棚にも凝った模様が施されている。あらゆる調度品が、遠く、異世界めいている。あらゆる土地、あらゆる時代からかき集められて、ここは一つの祭壇のよう。
――朝。
心の内で呟いて、彼女は上半身を起こす。
彼女の上にのしかかっていた厚みの布団が、音もなく折れる。夏も間近だというのに、真冬のような厳重さ。
――いつから起きていたのだろう。
この部屋には昼も夜もない。カーテンを閉ざしてしまえば、ここは完全な闇。朝の気配すら、感じさせない。
呆、と。
彼女は首だけを動かして周囲を眺め見る。時計の針が進むように、左から、正面、そして右へ。見えるものは、変わらずこの部屋の無秩序。
ここは停滞し、停止している。あらゆる年月と気風を凝縮し、押し固めたように、ここは年代が濃い。――その、乗り越えた時間だけで、それは魔を宿す。
――起きなきゃ。
彼女はベッドから降りた。
彼女はカーテンを開けずに、タンスから制服を出す。慣れた手つきで部屋着を脱ぎ、制服へと着替えていく。
あらゆるモノを詰め込んだこの部屋に、しかし鏡は存在しない。
鏡は、視るモノを惑わす、魔だ。実像も虚像も、等しく、その入り口から降り注ぐ。
それは、あるいは異界へと通ずる門となり、あるいは真を映す瞳となり、あるいは虚を浮かべる口となる。
しかも、鏡は〝視る〟だけでそれらの魔を成立させる。
無知で身に寄せれば暴発し、破壊と不幸を振りまく災厄となりかねないため、未熟者が不用意に頼るものではない。
彼女は着替えを完了する。
鏡などなくとも、彼女は完璧に、いつも通り。すでに定められた、その流れ作業を完遂し、彼女は扉へと向かった。
この部屋を塞ぐ、扉。あちらとこちらを隔てる壁。
それを、難なく開けて、彼女は外へと出る。
――そして、息を吸う。
水鏡言の意識が覚醒する。
「いけない。いま何時?」
小さく、水鏡は叫び声を上げる。
手にした鞄から携帯電話を取り出す。時刻を見ると、あと数分で六時になろうとしているところだ。
「…………良かった。今日は早起きのほうだ」
一安心と、水鏡は息を吐いて、携帯電話を鞄に戻す。水鏡は一階の食堂へと向かって、階段を下りる。
――水鏡言は、自分が寝るまでの記憶と起きた直後の記憶がない。
――いつものことなので、別段、彼女はそのことを気に留めない。
一階に下りても、人の姿はない。一階の奥には両親の寝室があり、食堂とは反対方向。
顔を洗い終えると、水鏡は食堂へ向かった。水鏡は食堂の、自分の席の隣に鞄を置いて、台所へと向かう。エプロンを身につけると、水鏡は手を洗って朝食の準備にとりかかる。
「今朝はなにを作ろう」
冷蔵庫をざっと見回して、必要な食材を外へ出す。まずは焼き魚を人数分作ろう。それから、味噌汁を作る。ご飯は両親が起きる時間に炊けるから、問題ない。野菜は、昨日作った浅漬けと、生野菜のサラダをいまから作ろう。それで、きっと十分だ。
水鏡は鼻歌交じりに、朝食の支度にとりかかる。水鏡が料理をするようになったのは、雪火夏弥の影響だ。夏弥は高校生で、男の身でありながら自炊をしている。幼い頃に両親を亡くして、一人暮らしをしているのだという。
水鏡には両親がいて、それまで自炊などしたことがなかった。料理の手伝いなどもしたことがなかったから、夏弥の生活力に水鏡は憧れた。それから、水鏡は料理をするようになった。まだまだ夏弥ほどではないかもしれないけど、それなりに上達してきている自信がある。最近は学校の料理部にも顔を出して、料理を学んでいる。最初こそ、包丁を持つのにも心構えが必要だったが、いまでは肉も魚も等しく扱える。
「今度こそ、雪火くんに美味しい、って言ってもらえるようにがんばらなきゃ」
とりあえずの、いまの目標。
まだ親の食事で養われている身だが、時々両親よりも早く起きたときなどは、水鏡が率先して料理をしている。夜の食事だって、小さなお手伝いを始めている。
少しずつ、少しずつでも上達している。上達していると、信じている。
水鏡は何度も何度も味噌を継ぎ足して、味噌汁の味見をする。
……いまいち、塩加減がわからない。
こんなものかと入れてみて、多すぎたと水を足す。そうやって繰り返しているうちに、具よりも汁のほうが多くなってしまった。
「……でも、きっと美味しいよね」
そう、信じて。水鏡は朝食の支度を続ける。あと少しで、両親も起きてくる。それまでに、完璧な朝食を作ろうと、水鏡は意気込む。
今日もまた、夏弥は早朝に起こされた。急いで身支度を済ませて、なんとか五時に栖鳳楼の部屋に向かうことができた。
「遅い」
なんて言われるのも、いつも通り。夏弥は五時ちょうどに来たつもりが、三分遅れているらしい。……三分くらいで、そんなに目を吊り上げないでほしい。
「また姉さんの手を煩わせて。次こそは自力で起きてよ」
普段は七時起きの夏弥が、栖鳳楼邸に連れてこられてからは五時に日常が始められるように、時間を早められている。一人暮らしで自炊をこなす夏弥でも、早起きの習慣はない。むしろ、朝はギリギリまでゆっくりしていたい。
眠気を引きずりながら、夏弥は消えてしまいそうな声で呟く。
「…………はい」
栖鳳楼の機嫌が、いっそう悪くなる。
だが、いつでも睡眠体勢の夏弥に、彼女の機嫌はどうすることもできないし、する活力も湧かない。いますぐにでも、夏弥は布団の中に戻りたい。
そんな夏弥にはおかまいなしと、栖鳳楼は自分の席から立ち上がる。
「じゃあ、昨日の続き」
夏弥の手に透明な水晶玉を押しつけて、栖鳳楼は自分の椅子に戻る。
「剣の代わりに、今日からは魔術の特訓をします。当面の目標は、夏弥の魔術の素質を見るため、珀になんらかの変化を出してもらう。……言っておくけど、これは今後の魔術の特訓を決めるための、準備みたいなものだからね。こんなものに時間を費やしていられないんだから、そのつもりで励むように」
はい、と空返事して、夏弥は珀を握る。
これから朝の修行の時間だと理性に命じつつ、しかし夏弥の人間らしい本能が消極的な弱音を吐き続けている。
――正直、眠い。
夢も見ないような快い熟睡中に叩き起こされたものだから、起きる瞬間、墜落のような夢を垣間見た。
起きたばかりで、血が回らない。血流が悪いと、人間、だらける方向にしか進まない。栖鳳楼にすぐ近くで睨まれてなお、夏弥は瞼も上げられない。それでも、珀を落とさなかったのはいいほうだと思う。
瞼の裏側で、黒い手が夏弥を誘っている。夢の入口が、すぐそこにあるようだ。夏弥は一〇分もせずに、意識を手放した。
夏休みになっても、雪火家では遠出することはない。夏弥の父親、雪火玄果が家を離れることを望まなかったからだ。
小学生の夏弥が行けるのは、学校のプールや近所の夏祭りくらい。それ以外はどこにも行かず、ただ家の中にいた。
玄果は自分の書斎を持っていた。机と本棚という、実にありきたりで、シンプルすぎるくらいの書斎。だが、普段の玄果は夏弥と一緒に生活し、寝起きも一階の客間で二人同じなので、その存在にそれほど意味があるわけではなかった。
夏弥も玄果の部屋の存在など、玄果に呼ばれて初めて入ったときに知ったくらいだ。玄果の部屋は玄関近くの階段を上った二階にある。
幼い夏弥は好奇心に駆られ、何度か玄果の部屋に侵入を試みようとした。だが、そのたびに玄果に止められた。
「行っても、夏弥が面白いと思うようなものはありません」
幼い夏弥は、しかし、そんなことで諦めたりはしなかった。
夏の日の夕方、夏弥は玄果の部屋に侵入した。その日はよく遊びに来る美琴が雪火家に訪ねていた。そして玄果は買い物に行ってくると言って、夏弥と美琴に留守番を任せた。
最初こそ夏弥にかまっていた美琴は、そのうちテレビの前で動かなくなった。興味が、子どもの夏弥からスポーツ観戦に移ったのだ。
その隙に、と夏弥は玄果の部屋に入った。狭い部屋、小さな机は子どもの夏弥からしても小さく見える。
その部屋の特徴といったら、本棚くらい。しかし、その本棚が一番印象的。
狭い部屋の中に、天井近くまで届く巨大な本棚が五つも並んでいる。その、全てに本が入っていて、隙間がない。本は、文庫本のような小さいものではなく、辞書みたいな分厚いものばかり。子どもの夏弥には、見上げるだけで目眩を起こしそうな圧迫感がある。
「うへー、なんだこれ」
そのうちの一冊を取り出し、床の上に広げた。中には、夏弥の見たこともないような文字が並んでいる。
その本に飽きて、次の本を取り出す。やはり、夏弥の知らない言語で記されている。次々と本棚から本を抜き出して、床に広げるとどれも見慣れない文字ばかり。
幼い夏弥は眉を寄せて、床に散らばったたくさんのページを眺める。
「親父のヤツ、よくこんなの読めるよな」
そもそも読めるのか、と夏弥は腕を組む。
そのとき夏弥はまだ玄果が昔、英語教師をやっていたということを知らなかった。
「――こぉらぁー、夏弥ぁ」
夏弥の視界が、急に塞がれた。
目の前が真っ暗になって、夏弥は恐怖に駆られて暴れた。しかし、子どもの夏弥がどんなにもがいても、夏弥の顔を覆っていた腕からは逃れられない。
「わ、わ。やめろやめろ!」
散々叫んで、ようやく夏弥は解放された。振り返ると、居間でテレビを見ていたはずの風上美琴がそこにいた。なんとも、人の悪そうな目をしていた。
「なにすんだよ、美琴!」
不平を口にする夏弥に、美琴はふんと腰に手を当てる。
「もー。かわいくないなー。美琴お姉ちゃんって呼びなさいよ」
そう、笑いかける美琴。
夏弥は、その作りものみたいな顔から目を逸らした。さもしっかり者のお姉さんを主張する美琴は、ほとんど同じ恰好でやって来る。しかも、ご飯どきを狙っているとしか思えないタイミングの良さだ。
「美琴は美琴だ。タダ飯食いに来てるくせに」
子どもの夏弥でも、美琴の怠惰な性格は見え見えだ。加えて、子どもだからこそ、容赦がない。
美琴の笑顔に、ぴしりとひびが入る。顔の面は笑顔なのに、額の辺りがぴくぴくと震えている。
「夏弥くん。目上の人は敬いなさい、って雪火先生に教わってないのかなぁ?」
子どもの夏弥は容赦がないが、大人の美琴は大人気ない。
小さな夏弥のこめかみを両手で押さえ、そのままギリギリとプレスする。気づけば宙に浮いているから、夏弥は両手両足をバタバタと揺らす。
「痛い痛い。やめろ、バカ力女っ」
幼い頃の夏弥は、まだ他人を気遣うことを知らなかった。剣道有段者の美琴相手だろうと、少しも譲らない。
ちっとも反省の色を見せない夏弥に、さすがの美琴も手を離した。
「もう、少しはかわいいところ見せてよ」
まったく、と溜め息を吐く美琴。夏弥は、頭を押さえて、それどころではない。
「夏弥くん。勝手に雪火先生のお部屋に入っちゃだめでしょ。こんなに散らかして」
夏弥が手の届く本を片っ端から引っ張り出したから、床の上には本が散乱していた。ようやく頭痛が治まって、夏弥はそれがどうしたとばかりに訴えた。
「だって気になるじゃんか」
子どもらしい、素直な返答に、美琴は注意するのを忘れた。
「まあねぇ。雪火先生のプライベートが丸ごと詰まってるんだもんねぇ」
その笑顔の意味を、しかし幼い夏弥にはまだ理解できない。どれどれ、と結局物色を開始する美琴。「なんだ、美琴も同じじゃんか」と夏弥が口にしても、もはや聞いてすらいない。
「っていっても、流石雪火先生というか……」
貼りつけたような喜色は、すぐに剥がれ落ちた。
「…………マジメねぇ。マジメすぎるわよ。少しは、男の人が隠してそうなものとか、出てこないの?」
机の引き出しを開けても、中にはなにも入っていない。あと部屋にあるものといったら、目の前でその存在を主張している本棚くらい。しかし、そのどれをとっても、分厚い書物ばかりで、なにか出てくる雰囲気はない。散らばった本の中にも、なにかいかがわしい写真が隠してあるとか、それもなさそうだ。
不思議そうに、夏弥は美琴を見上げる。
「美琴はなにを探してるんだ?」
「お子様には、まだ早いわ」
むす、と膨れる夏弥。
美琴にだけは言われたくない、と主張したかったが、美琴は夏弥など見てもいないから止めておいた。
「それにしても、雪火先生は勤勉ね」
床に散らばった本をパラパラめくりながら、美琴は呟く。
「これはヨーロッパの童話集ね。童話は楽しいんだけど、表現が特殊なのよね。こっちは神学かな。で、こっちは。ああ、これ嫌い。宇宙の始まりとか光の速さとかの話でしょ。数学とか物理とか、わけわかんないよぉ」
次々と本を引っ張って来ては、ふんふん、と頷く美琴。そんな美琴の横顔を見て、夏弥は少しだけ驚いた。
「美琴、これ読めるのか」
待ってましたとばかりに、美琴は胸を張る。
「これでも雪火先生に憧れて英語教師になったんですもの。これくらい読めなくてどうするんですか」
えっへん、とまんま声を上げる美琴。
幼い夏弥は、ちょっとだけ美琴を尊敬の眼差しで見上げた。
……ただのタダ飯食いの、暴力女じゃなかったのか。
あまりに感心して、つい声を出すのを夏弥は忘れた。
調子に乗った美琴は、次々と本を取っては夏弥に説明してあげる。そのたびに夏弥が感心しているふうだから、美琴はさらに調子に乗った。
「ん?」
美琴の手が、ぴたりと止まる。
その本は、他の本と同じくらいの厚さで、同じように床に広がっていた。ただ、違うところといえば、題名がないくらい。
「これ、なんだろう?」
床に広げて、美琴はその本を眺める。夏弥も横から中を覗き込んだ。
その本も、夏弥には理解できない文字で書かれていた。いや、描かれていたのかもしれない。文字と思われるインクのシミは、縦に、横に、斜めに、交差し、他の文字に絡まるように螺旋を描き、文字というよりは一つの絵画のようだ。
「見たことない言葉ね。っていうか、これ言語なの?」
その奇怪な本に、美琴は眉を寄せる。他のページをめくっても、同じようにぐちゃぐちゃとなにかが描かれている。
美琴はその本だけに集中しているが、夏弥はこれ以外にも同じような本がまだ何冊かあることを知っている。
「美琴でも読めないのか?」
「読めない。そもそも、これ言葉なの?こんなメチャクチャな言語、あたし知らないよ」
「――二人とも、こんなところにいたんですか」
びく、と夏弥と美琴の背筋が伸びる。二人以外の、声が聞こえた。その声を、夏弥も美琴も、良く知っている。
二人は、同時に振り返った。優しそうな面影、だがいまは苦笑が浮かんでいる。厳しい印象はないのに、二人は鬼にでも出くわしたように硬直している。
「親父……」
「雪火先生……」
この部屋の主、雪火玄果が二人の背後に気配なく立っている。
「下にいないから、もしやと思って来てみたんですけどね」
夕食の買い物から、どうやら帰って来たらしい。真下が玄関だというのに、二人は玄果の帰宅を全く関知できなかった。
「人の部屋に無断で入るのは、感心しませんね」
苦笑のまま、玄果はまず美琴を下に下ろした。
「夏弥」
続いて、夏弥も呼ばれた。
何を言われるのかと、夏弥は身構えた。目を閉じ、何かくるのをただ待った。しかし、夏弥が感じたのは、自分の頭を優しく撫でてくれる、玄果の手だった。
「夏弥。あなたはこんなものに、関わる必要はないのです」
恐る恐る目を開けると、玄果は哀しそうに笑っていた。
その表情が何を意味するのか、幼い夏弥にはわからなかった。それ以上に、夏弥は二度と、この部屋には立ち入らないと心に決めた。こんな哀しそうな顔をする玄果を、夏弥は初めて見た。
もう、玄果を哀しませたくなかった。
それだけで、夏弥は本当に悪いことをしたのだと、識った。
「さ、夕飯を作りましょう」
一階に戻ると、もう玄果はいつものように笑っていた。それだけで、夏弥はホッとした。いつもの玄果に、戻ってくれた。
「今日は二人に、お手伝いをお願いしようと思います」
優しく、玄果は夏弥と美琴を台所に案内した。今晩は予定を変更して、ハンバーグを作るらしい。本当は何を作るつもりだったのか、玄果は語らない。ただ、ハンバーグを作るために玉ねぎをみじん切りにしてほしいと、そう言うのだ。
夏弥と美琴は調理台の前に立った。二人の前にはまな板、包丁、そしてごろごろと玉ねぎが並んでいる。
……このくらいの罰で済むなら安いものだと、二人は心を決めた。
力の限り、玉ねぎを切り刻む。
こんなに玉ねぎを刻んでいるのに、どうしてこんなに涙が出てくるのだろう。三人分のハンバーグを作るのに、どうしてこんなに玉ねぎが要るのか。それは訊かない。とにかく、涙が止まらない。それだけが事実として、夏弥の中に残っている。
……遠くで、誰かの声がする。
遠く遠く、それは木霊のように広がっていく。
「夏弥!」
耳元で叫ばれて、夏弥は跳ね起きる。
反射的に、獣じみた奇声を上げる。そのことに気づかないほど、夏弥の心臓が跳ねている。目覚めは最悪だが、おかげで一気に覚醒した。もう眠ることもないくらい、体中が熱い。
辺りを確認するまでもなく、目の前に栖鳳楼の顔がある。顔と顔とが、距離にして一〇センチメートルを切っている。最初、あまりに暗すぎて誰だか認識できないくらいに。
「わあっ!」
思わず、再度奇声を上げる夏弥。
反射的にのけ反ったものだから、体を支え切れずに、そのまま後ろに倒れる。盛大に後頭部を打って、痛みに頭を押さえる。下が絨毯だったから、まだ被害が少なくてすんだ。
「……痛ぅー」
夏弥は身を起こした。目を開けると、モノ言わぬ栖鳳楼の顔が変わらずそこに張り付いている。頭の線が切れる、一歩手前の表情で。
「夏弥」
低い声で、夏弥の名を呼ぶ栖鳳楼。はい、と夏弥は思わず背を伸ばす。
「夏弥。あなた寝てたでしょ」
「はい。その通りです」
正直に、白状する夏弥。
栖鳳楼の冷たい視線が、夏弥には痛い。だが、目を逸らしてはいけないと、夏弥はびくびくしながら耐える。
栖鳳楼はなお、低い声で続ける。
「夏弥。珀を見なさい」
なにが待っているのか、夏弥は栖鳳楼の言葉に従って、手元の珀へと視線を落とす。
「あ」
つい、そんな声が漏れる。
夏弥の手の中にある珀から、白い光が放たれている。強烈な光ではないが、確かに白く輝いている。
その光に、夏弥は吸いこまれるように見入った。それが夏弥の魔術師としての才能だと、珀が告げている。いままでの緊張はもう消え失せていた。
栖鳳楼の目が、今度は不服そうに夏弥を見る。
「夏弥って、無我夢中になっているほうが力を発揮できるタイプ?」
夏弥は顔を上げて、訊く。
「なんだ、それ?」
「本人に自覚のないところで、魔力や術式のほうが、勝手に夏弥を助けてくれるみたいね」
ふう、と溜め息を吐く栖鳳楼。
栖鳳楼の言葉の意味を、夏弥は理解できない。半分冗談のようだ。
「でも、これで夏弥の魔術師としての素質がわかった。夏弥、『白』から連想するものを挙げてみて」
突然、栖鳳楼のからそんなことを言われる。
あまりに突然だったので、夏弥は言葉に困った。
「え、うーん……。何も、ない?」
思ったままを口にすると、すかさず栖鳳楼からダメだしをくらった。
「それは『空』の意。そう取る人は多いけど、ここではそっちじゃない」
そう指摘され、夏弥はしばらく考え込む。
白い光。そこから連想するもの。
美術部の夏弥は、白いキャンバスを思い浮かべた。太陽光がキャンバスの上を走り、白く輝いている。そのイメージを、夏弥は口にした。
「全ての色が、等しく混ざり合っている」
栖鳳楼は満足そうに頬を緩める。
「正解。それが『全』の意。あるいは、『白』を聖なるものと位置付ける人もいるけど、学問としての魔術ではそれは正しくない認識。神聖なもの、邪悪なもの、そういった観念は宗教的なもので十分。魔術の中では、聖も邪も等しく、力でしかない。まあ、物質的な性質ていどの優劣はあるでしょうけど。例えば、炎と水の関係。炎は水の前では消えてしまう。そのくらいの話かな。でも、改めて言っておくと、『白』には聖なる性質なんてものはないし、反対に『黒』には邪という性質はない。『白』にあるのは、全てを内包するということ。あらゆるものに通じる、その可能性があるということ」
そう、栖鳳楼は夏弥に説明する。
「どんな魔術系統も含んでいるから、『白』の魔術師は、極めればあらゆる魔術を差異なく使いこなせる。もっとも、使いこなすだけでも一生を使いこなすなんて、無理な話だけど。それだけ、魔術の種類は多いし、全てを得ようなんてすれば数も膨大。それに、夏弥にはそんな時間がないから、最低一つの魔術だけ特化できればそれで十分」
「一つの魔術……」
「そう。魔術、というよりはこれは学問全体に通じることだと思うけど、何事も学ぶには基礎を理解しなければならない。根底となる基礎を持って、初めて応用が可能になる。いま夏弥に必要なのは、短期間でその基礎をものにできて、かつ今後の楽園争奪戦で、つまり実戦でもっとも扱いやすい魔術。となれば、ほとんどの魔術を使う上で基盤となっているものの一つ『占有』その上での『強化』ね」
ここからが本番と、栖鳳楼は身を乗り出して説明する。
「『占有』というのは自分のものにする魔術。表現が大袈裟だけれど、簡単に言えばいま夏弥のやったこと、自分以外のものに魔力と術式を投じること。そうすることで、その物質、あるいは空間を自分の支配下におく。『占有』ができればどんな魔術でも使える。一番簡単なのが物質を魔術で『強化』すること。応用によっては相手の魔術を『占有』して逆作用の魔術を投じて破壊することもできるけど、それは高度な技だから、夏弥は『強化』までできれば良しとしましょう」
魔術をこの世界の上で発現する場合、術者の一部である術式を特定の魔術の型として術者と独立させる。そこに魔力を投じることで、魔術は成立する。術式と魔力が術者から離れ、独立した状態で存在するためには、その対象となる場所を術者の支配下におく必要がある。その基礎となる術が『占有』である。
『占有』さえできれば、あらゆる魔術に通じることができる。炎を生み出す魔術、物質を強化する魔術、結界、魔具の生成など、大概の魔術の基盤となる。
「じゃあ、まずは『占有』から」
栖鳳楼は新しい石を夏弥に手渡す。今度の石は漆黒で、透明さもない。教科書で見た黒曜石に似ている。珀と同様、掌ていどの石だ。
「最初は、これに魔力と術式の両方を注ぎ込む。今度は珀のときと違って、魔力・術式の両方だからね。そうすれば、また珀のときのように変化がわかるから。それが『占有』の練習」
さあ始めて、と栖鳳楼は椅子に深く腰掛ける。
説明は以上のようだ。だが、夏弥には訊いておきたいことがあった。
「ちょっと待て。魔術を使うには魔力と術式が必要なんだろう。それが同時にそろったら、勝手に魔術が発動するんじゃないのか?」
魔術の発現には、魔力と術式の両方がいる。逆に言えば、その二つの条件を同時に満たしさえすれば、魔術が発動するということだ。自分の意図しない魔術が発動したらどうなるのか、夏弥はそこが心配だった。
対して、栖鳳楼はなんでもないように答える。
「そういう場合もありうるけど、素人が初めてできたばかりで魔術が発動することはほとんどないと思うわ。魔術は繊細なものだから。魔術の型となる術式に適量の魔力が注入されて初めて魔術として成立する。加減も知らない見習いに、勝手に魔術が暴走する、ってことはよっぽとだと思う。それに、夏弥は『白』系の魔術師だから、魔力も術式も最初は『空白』よ。方向性のない状態なら、どんな魔術も発動しようがない。だから、気にしなくていいわ」
そうは言われても、やっぱり心配だ。
それこそ、炎を吐き出す魔術が成立して、もしも発動してしまったらどんな惨事になるのか。想像しただけで、手が止まる。
見かねて、栖鳳楼が椅子から離れる。
「まあ、例えば――」
そっと、夏弥の持つ黒い石に手を添える。
途端。
「…………!」
ずん、と重い衝撃。
夏弥は支えきれず、絨毯の上に手をつく。もう一つの手で持ち上げようとしたが、びくともしない。栖鳳楼の手は離れているのに、いまだ石は重たいままだ。これが魔術なのだと、夏弥はすぐに理解する。
そんな夏弥の様子を満足そうに眺めて、栖鳳楼は説明を続ける。
「こんな風に、魔術が暴発しちゃっても、魔力が切れれば魔術は解けるから、魔力の注入をやめれば問題ないわ」
ちなみに、と栖鳳楼は饒舌に続ける。
「これは『強化』の中でも、質量だけを強化しているタイプ。魔力というエネルギーを質量に変換しているわけ。だから、どんなに重く感じても硬度が増しているわけじゃない。また、高度だけを増して純粋な攻撃力だけを上げる方法が、魔術師同士の戦いでは普通かな。上級者になれば硬度は強化で上げつつ、質量とか使用者にとって不都合なものだけを軽減するなんてことも可能だけど、『強化』でそこまでするよりはそれ以外のもっと上等な魔術に努力を割くのが普通ね」
一体どれほどの重さに膨れ上がっているのか、夏弥が両手で持ち上げようとしても、びくともしない。
栖鳳楼は学校の先生にでもなったみたいにご機嫌だが、実際に魔術の練習台にされている夏弥にはそんな余裕などない。
「わかった。わかったから、これ退かしてくれ…………!」
石と絨毯に挟まれている手が、そろそろヤバい。本当に何十キロもの重りがのしかかっているようで、夏弥は必死に訴える。
あ、と栖鳳楼はようやく気づいたように声を上げる。右手を鳴らすと、黒い石から重圧が消失した。
「ごめん。つい、止まらなくって」
気づかなかった栖鳳楼は、ちょっとうっかりしていたていどに夏弥に謝る。
もう少し、人の身を労わってほしいと、夏弥は心の中で文句を言う。いまは痺れた手を労わるだけで、精一杯だ。
さて、と栖鳳楼は夏弥を無視して話を戻す。
「しばらくは『占有』の特訓。まあ、『占有』は基礎だから、そんなに時間をかけるものじゃないけど。次の『強化』は真剣だから、心しなさい。最低、これだけでも使いこなせないと、夏弥はこの先、生き残れないわ」
さらりと、栖鳳楼は夏弥を脅す。
その脅しが過ぎたものではないことを、夏弥も重々承知している。いまの夏弥では、本当に楽園争奪戦で戦い抜く術はない。魔術師である夏弥がようやく魔術を使えるようになるのに、それほど時間はない。夏弥は手が復活すると、特訓に取りかかった。
一日が終わるのは、早い。それでも、夏に向かいつつあるこの季節は、学校が終わったばかりではまだ明るい。
水鏡は一人、車が滅多に通らない細い道を歩いている。車は、ギリギリすれ違えるかていどだが、普通の車道ほどには舗装されていない。それに、周囲には民家しかない私道で、ここに住んでいるのは車を必要としない高齢者ばかりだから、ここはほとんど車が通らない。
水鏡はミラーの下を通り過ぎる。ミラーのすぐ後ろには、空白のように空が広がっている。以前は高くマンションが聳えていたが、もう誰も住んでおらず、老朽化も進んでいたため、最近になって取り壊された。石垣の上にさらに塀があるからわからないが、その裏にはコンクリートの瓦礫がまだ残っている。
水鏡の家はこのミラーの脇にあるさらに細い道を進んだ方向にある。なのに、水鏡は反対側の同じくらいの道幅のほうへと歩き続けた。
「今日、雪火くんは来なかった」
つい、水鏡の口から声が漏れる。
本当は、口にすべき内容ではないが、自分の声として認識しないと、不安が募った。車はおろか、人の姿も、この道の上にはない。お年寄りの多くは、自分の家に籠りっきり。狭い道なのに妙に広く感じてしまう。その広い道の上に、水鏡は一人。その寂しさを紛らわすように、水鏡は言葉を続ける。
「いま雪火くんは、家にいないから、雪火くんの家に行っても、誰もいないかもしれない」
その可能性に、水鏡の足は重くなる。
雪火夏弥の家に行っても、誰もいない。なら、水鏡がこうして夏弥の家に向かっていることは、意味がない。
それでも、水鏡はもしかしたらと、それだけで歩みを止められない。
今日、雪火夏弥は学校を休んだ。担任である風上美琴に確認したら、学校を休む連絡は受け取っているらしい。美琴は夏弥と親しいから、その理由も詳しく聞いていた。どうやら風邪ではなく、夏弥本人に学校を休むほどの急用ができたらしい。
――風邪ならば、様子を見に行かねばと、水鏡は思った。
――そうでないなら、そこまでしなければならない用事とはなんなのか問い質さねばと、水鏡は思った。
どちらにせよ、水鏡の中で夏弥に会いたいという気持ちは変わらない。
私道を抜けて、車の流れが割とある道へと出る。学校が終わった時間なのか、水鏡よりも背の低い子どもたちが走り去る。水鏡はただ重い足を引きずって、夏弥の家へと向かう。
夏弥の家は、私道を左に折れてすぐのところにある。近くに小さな酒屋がある。それ以外は、普通の住宅が並んでいる道。
その中に、夏弥の家も混じっている。造りは周囲の家に馴染むようにありきたりなものだが、そこに住んでいるのは夏弥一人。高校生一人には、大きすぎるくらいの、立派な家。
「どうしたんだろう。雪火くん」
その前で、水鏡は止まる。玄関の前に立ち、呼び鈴を押そうとして、しかし腕が上がらない。まるで石にでもなったように、彼女の腕はちっとも動いてくれない。
背後で、小学生の団体が声を上げて走り去る。車の走る音が、やけに騒がしい。呼吸を整えて、ようやく腕を上げることができた。
「なにか、変なことに巻き込まれていないよね?」
自分の言葉に、一瞬手を引っ込める。
……なにを考えているの?
ばかみたい、と水鏡は目を閉じる。
その言葉、そんな思考を追い出そうと、強く強く目を閉じる。瞼に圧がかかり、頬にじんわりと痛みが広がる。細かな呼吸が、だんだん荒くなる。
後ろを通り過ぎる車の音に耳を塞ぎながら、水鏡は手を伸ばす。震える指先に、それが触れる。
――チャイムを押した。
扉の向こうで、チャイムの音が聞こえる。長く、尾を引くように反響している。木霊の残響のように、それは次第に小さく、そして消える。
「…………」
水鏡は待った。それしか、いまの水鏡にできることはない。水鏡には、もう一度チャイムを押す勇気も、扉越しに声を上げる度胸も、ない。――その最初の一度きりが、彼女の全力。
「……………………」
沈黙は永遠のように感じられた。その間、水鏡は彫刻のように硬直したまま、玄関だけを見ていた。
背後には道がある。お年寄りばかりの最初の道よりは賑やかで、車の通りも多い。それに、この時間だと近くの小学校から子どもが家に向かって歩いていく。さっきまでの、誰もいない道とは違って、いまだって水鏡より背の低い子どもが何人かすぐ後ろを通り過ぎていく。
それだけ大勢の人がいるのに、しかし水鏡は動くことができない。普段なら、こんな挙動不審な自分自身が恥ずかしくてキョロキョロしてしまうのに、いまは動くこともできない。いや、そんな周囲の状況に気づけないほど、水鏡は一つしか見えていない。
「…………」
自分の鼓動さえも聞こえない。
あまりの緊張に、心臓は走った直後みたいに跳ねているのに。吐き出す息は、この夏以上の熱を帯びているのに。眼の奥で流れる血潮に、しかし瞳はそんなものも感じず、ただ閉じた扉ばかりを映している。
熱した身体。しかしなにも感じない自分。それは冷えていくみたいに。まるで人という形を模した器官のように。
「……はぁ」
その停止した永遠に耐えかねて、水鏡は息を漏らす。
途端、いままで張り詰めていた緊張も切れたように、体中で血が巡る。
ようやく、自分自身の鼓動の音を水鏡は聞く。肌の下、この薄皮一枚の下で温かいものが流れているのだと意識する。急に熱くなって、首筋、耳の下が汗ばんで蒸れる。
「やっぱり、出ないか」
呼吸を整えるように、水鏡は呟く。
――やっぱり出ない。
その事実に、不安を募らせる自分がいて。
同時に、その事実に安堵する自分がいて――。
もう一度息を吐こうとしたとき、目の前の玄関が気配なく開いた。
「……っ!」
引っ込めた息に、水鏡は喉を詰まらせる。
扉はあまりにもあっけなく、そして不意打ちのように開かれた。その奥にいるのは黒いドレスを身にまとった少女。水鏡より年上のような雰囲気を持っているのに、その印象は水鏡に近いようにも思わせる、不思議な雰囲気を持った女性。
ローズは、その女性らしい姿とはちぐはぐな、簡素な口調で呟く。
「なんだ、言か」
その声に、水鏡はようやく目の前の少女の存在を意識できた。
「ローズさん……」
ローズは一カ月前から夏弥の家にいる少女だ。だが、その存在を水鏡が知ったのは、二週間ほど前のこと。夏弥の父親の知り合いの娘だということで、水鏡は彼女を知っている。白に近い銀の髪から外国人というのは理解できるが、だがローズの顔は日本人に近い。
ローズとの初対面にはいろいろと問題があったが、その後はローズの人となりがわかったので、水鏡はローズと打ち解けている。
「ローズさん。雪火くんは?」
いないのかという水鏡の問いに、ローズは彼女らしく簡単に返した。
「夏弥か。いまは留守だ」
たったそれだけの返事。それだけの返答に、水鏡は胸の内が揺れているのを感じる。
「どうして……?」
つい、漏れたのはそんな言葉。
――どこ、ではなく。
ただ、どうして、と――。
水鏡の動揺などおかまいなく、ローズは淡々と応える。
「いまは礼の家にいる。しばらくは、帰らないそうだ」
「栖鳳楼さんの?」
その名前は、ローズにはなんでもないのかもしれないが、水鏡言には大きな意味を持っている。
――栖鳳楼。
――血族の長。
ここ白見町を裏で支える一族。
そして自分は。
――水鏡。
――栖鳳楼家に仕える、四家の一つ。
遠い昔、幼い頃にはそんな家の繋がりなど知らず、良く一緒に遊ぶ親戚の一つだった。年も同じ、同性の友達。良く遊びに行って、良く話をした。そのときは何の隔たりもなく、何も意識しなかった。
――でも、いまは違う。
水鏡は栖鳳楼に仕える身。魔術師の家系。主人と従者。自身は水鏡として生きて。栖鳳楼のために尽くす。
水鏡の家を継ぐのは、兄である竜次だろう。でも、家を支え、栖鳳楼のために尽くす自分は、やっぱり変わらない。
――それが。
「どうして?」
漏れる、言葉。
その栖鳳楼と、雪火夏弥が繋がらない。
どうして。
どうして、と――。
その問いばかりが、意思に反して漏れる。
栖鳳楼はこの町を裏から治める魔術師の一族。でも、夏弥はそんな世界とは、関係ない。
――栖鳳楼と雪火夏弥は繋がらない。
そして、水鏡言と雪火夏弥も、結ばれることはない――。
ローズは男性のような口調できっぱりと返した。
「俺は知らん。礼が言い出したことだ」
その言葉に、水鏡は驚いた。……その言葉は彼女にとって、どんな悪夢よりも魔的だった。
「栖鳳楼さんが……」
漏れる言葉は、そんなうわ言。
栖鳳楼礼が、雪火夏弥を自分の家に招き入れた。そして夏弥は、今日学校を休んで、栖鳳楼の家にいる。
――それが、今日だけではないことを、水鏡はすぐに気づく。
しばらく自分の家に戻らないと夏弥から言われたそのときから、つまりそういうこと――。
そのことに気づいて、水鏡は胸の内が疼いた。
……疼く。疼く。
それは、夏弥が留守だと告げられたときよりも、ずっと深く……。
「…………ローズさんは、それでいいんですか?」
同時に、目の前の少女を見上げた。
「一人で、一人ぼっちで待たされて……」
夏弥がここにいなくて、栖鳳楼の家にいるのなら。ローズがここにいて、玄関に立っているということは、ローズは夏弥のいない雪火家の留守番をしているということだ。
彼女は、いま、一人だ。
水鏡の問いかけに、ローズは男の人のような口調で言い切った。
「夏弥が決めたことだ。それに、俺も承知してここに残っている」
その言葉に、また水鏡の胸の内が揺れる。
「どうして……?」
自分の口が、壊れてしまったみたい。壊れた蛇口。止めどなく、水は漏れ、溢れて。同じ問いばかりを、繰り返す。
「――礼になら、夏弥を任せられるからな」
水鏡が見つめる先で、ローズは少しも揺らがずに告げた。
――ぎし。
と。
胸の奥で、なにかが揺れる。それは軋むような音。潰れるよりは、ひび割れるような、そんな不吉。
――ぎりぎり。
……ギリギリ。
絞められる。締められる。閉められる。――そして、占められる。
満ちる。身散る。
満たされる。身足される。
…………なにが、なにに?
麻痺していく、失っていく、感じない。これを表す言葉がみつからない。それを示す意味がわからない。
ただ、直感できること。
――それは。
己を消失することでなく――。
「……………………そう、なんだ」
漏れた声は、まるで自分のものではないかのよう。
小さくて、自分の耳にも届かないようなその音は。
涸れた薔薇のように。
割れた硝子のように。
――ぎし。
と。
胸が縮む。
「ローズさんは、それで、いいんだ…………」
やはり、その音は耳に届かない。
まるで他人のようなそれは、ひどく歪んでいる。
――ぎし。
と。
また沈む。
――そのたび、胸は痛み。
同時に、解放されたように軽くなる――。
顔を上げて、水鏡はローズに笑顔を向ける。
「わかりました」
ただ一礼して、水鏡はローズに背を向ける。
別れも言わない水鏡に、ローズは彼女の背中に声をかける。
「言。夏弥に会いたいなら、礼の家に行ってみろ。場所、わかるか?」
二人の距離は、すでに三メートル。その三メートルの距離から、水鏡は振り返って応えた。
「大丈夫です」
再び、水鏡は歩きだす。歩く速度は、常に変わらず。それほど速くないつもり。……だが、気づけば水鏡は車の通らない私道に入っていた。
確認するまでもなく、そこに人の姿はない。それを理解してか、彼女の口は勝手に言葉を漏らしていた。
「そう…………」
呟く。
その声は、やはり水鏡の耳に届かない。
彼女は口の端に笑みを浮かべ、静かに微笑する。
「――――あたしは、大丈夫だから」
胸が痛い。
体が軽い。
生まれることの苦しみ。
生まれ変わることの安らぎ。
自己を自己として観測できるままに。自身という境界からはみ出る。その崩壊は、壮絶な苦痛であると同時に、――――たまらない悦楽。
――ギシ。
また一つ、鼓動が啼いた。
今日一日の特訓を終え、夏弥は自分に当てられた部屋へ戻る。場所は栖鳳楼礼専用の屋敷の客間。廊下側に面した部屋ではなく、奥にあるもう一つの部屋だ。すでに布団が敷かれ、夏弥は旅館のように整った布団の上に倒れた。
「疲れたぁ……」
自然、声が漏れる。
見上げる天井は、夏弥の家なんかよりもずっと高い。部屋の広さも、雪火家の自分の部屋の四倍以上もある。柔らかい布団と立派なテーブルが置かれて、なおこの部屋には余裕がある。高校生の夏弥には贅沢すぎる環境だ。
「結局、学校休んじゃったなぁ……」
なんて呟く夏弥。これだけ広いと、独り言を言っても他人の言葉のよう。
今日は一日、栖鳳楼の言いつけで魔術の特訓をした。平日で、学校もあるのに、だ。
「期末、近いのになぁ」
あと一週間ほどで、丘ノ上高校では一学期の期末試験が始まる。別に夏弥は優秀な生徒ではなく、悪い点をとっても叱る親はいないが、それでも人なりの成績は修めたい。
夏弥は布団に寝転がったまま口を曲げる。
「ま、それはお互い、言いっこなし、てことで」
丸一日、夏弥が魔術の特訓をする間、栖鳳楼も夏弥の傍にいた。彼女だって、学校を休んだのだ。自分の不平ばかり言っているわけにもいかない。
少しは感謝しないといけないのかな、なんて考えていると、向こうの襖が開く気配がして、夏弥は上半身を起こす。部屋に入って来たのは、栖鳳楼礼の姉である、落葉だ。
「今日も一日、お疲れ様」
落葉は布団のすぐ隣のテーブルにお盆を置いた。緑茶の入った湯呑を勧められた。
「ありがとうございます。落葉さん」
一息ついてから、夏弥は礼を言う。
「すいません、わざわざ」
栖鳳楼の家に来てから、夏弥の面倒はずっと落葉がみている。こんなに良くしてもらうのは悪い気がするが、夏弥一人ではこの広い栖鳳楼邸では満足に生活もできないので甘えている。
あら、と落葉はなんでもなさそうに笑う。
「夏弥くんが良く眠れるように、ていうお呪いよ。ぐっすり眠れれば、早く起きられるでしょ」
「……毎朝、すいません。俺が早く起きないと、ですね」
父親が亡くなってから一人暮らしを続けている夏弥だが、別段早起きというわけではない。栖鳳楼基準の起床は、いまだ自力で達成したことはない。
「仕方ないよ。急に早く起こされた、って感じでしょ」
夏弥は苦笑に留める。否定したいが、夏弥は生憎否定する要素を持たない。
もう一口だけ緑茶を啜って、夏弥は落葉に訊ねる。
「栖鳳楼……礼、ってもう寝ました?」
落葉は優しく微笑みを返す。
「まだお仕事中。最近は夜遅くに起きなきゃいけないことも多いみたい」
栖鳳楼礼は高校一年生にして栖鳳楼家の当主を任されている。同時に、ここ白見町の魔術師を管理・監督する重大な役目を負っている。平日は高校生として、夜になれば当主として、栖鳳楼は生きる。
その激務を想像して、夏弥も言葉に困った。
「大変なんだなぁ。……それって、ちゃんと眠れてるんですか?」
「そういう生活に、礼は慣れ過ぎちゃってるのよ。あまり寝なくても起きていられるみたい」
あたしには無理だけど、と落葉は付け足す。
夏弥にだって、そんな生活、できそうもない。代わってやる、なんて、とても言えないから、夏弥はそれ以上この話に深入りすることができなかった。
「あの……、訊いても、いいですか?」
話題を変えたくて、夏弥はそう切り出した。
「栖鳳楼の家には他に家族――あ、ここでは兄弟の意味ですけど――にはどんな人がいるんですか?」
以前、落葉から栖鳳楼には他に兄弟がいると聞いた。だが、どういう人がいるのかまでは聞いていない。ただ、栖鳳楼礼が一番下だということだけだ。
落葉は、ただ優しく笑みを返すだけだった。右目の下に泣き黒子があるせいか、彼女はどんなときでも優しい雰囲気がある。
「知りたい?」
しばらくおいてから、落葉は夏弥に訊ねる。
夏弥は踏み込んではいけないところに触れてしまったかと、一瞬迷った。だが、落葉は夏弥が返答するよりも先に話してくれた。
「ほとんどが嫁いだ、って話はしたかな。嫁ぎ先では、魔術師とは一切関係ない生活を送ってる。栖鳳楼家は魔術師の家系としては、かなり影響力があるから。夏弥くんは知っているかな、血族、なんて呼ばれているけど。この町全体を守ってる、なんて、大袈裟なことを実際にやっているから」
血族――。それは夏弥が初めて魔術師の世界に入って、最初に聞いた栖鳳楼の呼び名だ。
栖鳳楼の役目を、夏弥は言葉の上でしか知らない。けれど、魔術師の世界に関わるようになって、栖鳳楼に近づく中で、その役目の重さを夏弥なりに理解しているつもりだ。
もちろん、栖鳳楼の辛さを全て理解することは不可能だ。極力、栖鳳楼にはそのことで触れないつもりだ。言葉にはせず、きっと大変なんだろうと思うことくらいしか、夏弥にできることはない。
黙したまま、夏弥は首肯する。落葉は目を細めて続けた。
「……でも、一人だけ、魔術師の家に養子に出された兄弟がいるの」
落葉の目は、夏弥のほうを向いてはいるが、夏弥のことは見えていないかのようだった。呟いた声は、本当に消えてしまいそうなくらい小さい。
それで話は終わってしまったかのように、落葉はなにも言わない。静寂の間を壊すのは悪い気がしたが、夏弥は訊かずにはいられなかった。
「誰ですか?」
訊ねても、落葉は夏弥のことを見ていなかった。その瞳にわずかに切実な色が浮かんだ気がしたが、ほんの一瞬で、すぐに消えた。
「それは、まだ秘密」
人差し指を下唇にあてて、落葉は微笑む。
秘密と言われたら余計に聞きたくなるなんて、いまは不謹慎な気がした。そんなに優しそうに微笑んで、そんなに哀しい目をされたら、夏弥はそれ以上踏み込めない。衝動的に謝ろうとしたが、それは違う気がしたから押し黙る。
栖鳳楼家は代々続く魔術師の家系だ。栖鳳楼の話から、それは一千年以上続いているのかもしれない。そんな歴史ある魔術師の家系だから、他所には漏らすことのできないなにかがあるのだろう。それに触れることを、夏弥は躊躇った。
ごめんなさい、と落葉が笑う。
「色々、複雑よね、この家って。もっと、若い人が伸び伸びと生きていける環境があればいいんだけど」
落葉は栖鳳楼礼の姉だが、家の中では妹より立場が下だ。魔術師の家の中で魔術を継がない者は奉公人くらいの地位しかないかのようだ。妹の辛さを知っていて、でも自分は家のことに口出しする身分ではない。
大学生で、まだ若いはずなのに、落葉は人の心を思いやれるくらい、大人だ。
「…………でも、誰かと関わって生きていくって、そんな簡単なものじゃないと思います」
ぽつり、夏弥は漏らす。
「誰もが幸せになるように、みんな頑張っている。でも、人間にとっての幸せはそれぞれ違うし、誰かが幸せになるために他人が傷ついてしまう、ってこともあると思います。だから、誰かが幸せになるって、それだけで複雑だし、辛いことがそこら中にあるんだと思います」
夏弥は、いつか観た幻想を思い出す。
あそこには、きっと全ての人を救えるだけの幸せがある。けれど、用意された幸せなんて、夏弥はいらない。それは、ただ内に籠り、外を見ず、永遠に無意識を揺蕩う。
夏弥は応えた。一人の幸せなんて、いらない。ただ一人だけ、一人きりで幸せなんて、それは幸福しかない夢の獄。もしも夏弥がそれを許したら、夏弥の決意は嘘になる。
「――そうだね」
落葉の声で、夏弥は我に返った。我ながら馬鹿なことを口走ったことに気づき、顔を赤くする。
「ごめんなさい。生意気言って」
恥ずかしかった。自分なんかよりもずっと大人な人にこんなことを言うなんて。
ううん、と落葉は首を横に振った。
「それが君の考えたことなら、君は自分の意思に自信を持っていいんだよ」
なんて優しく言われて、夏弥はますます顔を赤らめる。
守ると決めた。それが、夏弥の決意。そのために、魔術を習う。この努力が、本当に報われるのか。この先に、夏弥はなにを得るのか。……それはまだわからない。
落葉が部屋を出てすぐ、夏弥は明かりを消して布団に潜り込んだ。疲れ切っていたはずなのに、その夜はなかなか寝付けなかった。
日はとうに落ち、魔の時間となる、丑三つ刻。
人々は眠りに墜ち、この刻もなお意識を持つものは魔の忍び寄る足音を聴くだろう。
栖鳳楼は潤々の背に乗り、夜闇を渡る。漆黒の空に、淡い光が一筋過ぎる。地上から遥かの高み、人の眼ではそれをとらえることもできない。
魔術師の中で、一般人に魔術を見られることは禁忌として禁じている。夜闇に隠れ、人の目ではとらえられないほどの高度で飛行していても、栖鳳楼のやっているのは危険な行為だ。それでも、栖鳳楼には構っていられるほどの余裕はない。
「アーちゃん、そろそろだよ」
足元から、潤々が栖鳳楼に告げる。
人の肉体を持たない式神だからこそ、この暗闇の中で潤々はその場所を視認できる。うん、と栖鳳楼は短く頷く。あっという間に降下して、着地の瞬間、潤々はふわりと減速する。着地すると、栖鳳楼はその家の玄関へと駆けた。
「ご苦労様」
玄関の前に、一人の男性の姿があった。年は高校生の栖鳳楼よりも上で、大学生くらいだろうか。だが、こんな夜遅くに几帳面にスーツなど着ているから、どこかの会社の新入社員といった印象もある。
男性は栖鳳楼に気づき、頭を下げる。
「お勤めご苦労様です。御当主殿」
顔を上げた男性は、誠実そうに笑っている。
栖鳳楼は再度労いの言葉をかける。
「天蓋には、苦労かけるわね」
男は笑ったまま、栖鳳楼の言葉を軽く流す。
「仕方ありません。いまの水鏡は、家の問題でそれどころではありませんから」
天蓋は、栖鳳楼の下につく四家の一つ。その役割は栖鳳楼家そのものの守護を司る。元々裏の仕事が多い魔術師の家の中でもさらに姿を見せることが稀有な、常に栖鳳楼家の一歩後ろに従うような一族だ。
いまのように、問題があった家の前で門番の役目を果たすのは、本来水鏡の仕事だ。魔術師が関与したと思われる事件にいち早く駆けつけ、問題が社会に漏れないように隠蔽、その後の拡散を防ぎ、すでに社会に溢れた情報を抹消して周るのは、四家の一つである水鏡家の役割。
だが、現状、水鏡家は四家の一つとして機能しきれていない。水鏡家は人員不足で、ずっと悩まされている。白見町で開かれている楽園争奪戦のせいもあって、人手不足の水鏡家は完全に処理能力を超えている。そのため、周囲の手の開いている魔術師一族に、その代役が任されている。それを引き受けているのが、本来栖鳳楼家の守護を任されている天蓋家だ。
男性の名は、天蓋護、天蓋家の次期当主だ。
「中は?」
短く、栖鳳楼が問うと、天蓋はすぐに答える。
「もう入ってもよろしいです。……完全に、やられました」
栖鳳楼は、家の中へと土足で上がる。その後ろに、天蓋の次期当主が続いた。
深い緑に囲まれ、周囲に民家が見当たらないことを除けば、この家は大抵の家と変わりがない。住んでいるのは、無職の老夫婦だ。いままで稼いだお金と、わずかばかりの年金で余生を楽しんでいる、彼らに相応しい広さの日本家屋がそこにある。
先頭を行く栖鳳楼が、確認のため呟く。
「ここは、霧峰の家でしたね」
はい、と後ろから天蓋が頷く。
「といっても、魔術師側とは縁を切っています。残りわずかな余生を楽しんでいた、というところでしょうか」
二人は、奥にある老夫婦の寝室へと侵入した。
荒らされた形跡は、ない。老夫婦は、いまも布団の中で安らかな寝顔を浮かべている。しかし、その二人がすでに息をしていないことを、二人の若き魔術師は知っている。
苦笑交じりに、天蓋が漏らす。
「一体、どういう魔術なのか。苦しまずに逝けたのであれば、幸いでしょうが」
「それは、あたしたちには不幸と言うのよ、護」
栖鳳楼家当主、この町の全ての魔術師を束ねる長が、冷たく言い捨てる。
「なにもしないままこの世から消えるのは、魔術師として生まれた以上、苦痛でしかない。存在している限り、あたしたちはなにかしらの証を残さなければならない」
魔術師は代々、年長者から魔術を引き継ぎ、次の世代に魔術を継承する。常に魔術を研鑽し、魔術師の最大の目的である世界への到達のために、努力を惜しまない。
ゆえに、止まった魔術師は、魔術師として生きていない。さらなる高みへと魔術を伸ばしていくことを止めた魔術師は、すでに死んだも同然。次の魔術師に遺すものもないのでは、生きていた価値すら消失する。
それが古き魔術師の価値観だから、あらゆる魔術師の上に立つべき存在だから、栖鳳楼は厳しい。
「…………それが、彼らには重荷だったのでしょう」
天蓋は悲しそうに微笑する。
天蓋である以上、彼は栖鳳楼の言葉を否定することはできない。だが、魔術師としての苦労を、若き次期当主は知らないわけではない。そしてまだ若く、完全な当主を任されているわけではない彼は、まだ人の優しさを持っている。
「…………」
栖鳳楼は、ただ口を噤む。
少し前までの自分なら、そんな軽口、躊躇なく切り捨てていただろう。しかし、栖鳳楼はそれ以上この手の話を続ける気はなかった。
「今回も、手掛かりはありませんか?」
天蓋は軽く肩を竦める。
「ご覧の通り。痕跡も、気配も、きれいさっぱり。さっきまでなにかあったなんて、とても信じられない」
家の中は荒らされた様子もなく、この時間では老夫婦は安らかに眠っているようにしか見えない。こんな山奥に怪しい人物など目撃するものはいないし、二人が近づいたときには他に人の姿などない。
そうね、と呟いてから、栖鳳楼は目の奥を燃やす。
「――でも、遺体は残っている」
天蓋はやれやれといった感じで訊ねる。
「――――礼様は、〝神隠し〟を疑っているのですか?」
「一カ月以上前に起きていた神隠しと今回の神隠しでは、異なる点が多すぎます。あたしは、今回の犯人は別にいると考えます」
楽園争奪戦が始まったばかりのころ。まだ、誰が神託者なのかもはっきりしないような曖昧な時期に、〝神隠し〟は起こった。
その頃は、夜の町中で忽然と人が姿を消した。最初は証拠もなく、魔術師の間だけにしか知られなかったが、徐々に衣服やバッグなどを残すようになり、世間の中に神隠しの存在が知られるようになった。
今回のケースでは、神隠しの現場はどれも人目につかない山の中、肉体はそのままにまるで魂だけ抜き取られたように気配だけがごっそり消失している。
その点を、栖鳳楼は気にかけている。しかし、そのことを真剣に考えているのは、今のところ栖鳳楼だけ。天蓋も、その考えには積極的ではない。
「手口を変えただけ、という可能性もあると思いますが。以前のやり口では、危険が大きすぎました。加えて、失敗すれば証拠も残る。だが今回の手口では他に知られる可能性が低い。それに、純粋に魂だけなら体丸ごと消し去る以前のときと比べて時間もかからないでしょう。こっちのほうがよっぽど利口で、効率的です」
犯人を擁護するわけじゃありませんけど、と天蓋は付け足した。
栖鳳楼は最後にと改めて老夫婦の近辺を調べる。犯人になにかされたような形跡はないし、魔術の痕跡もない。本当に、魂だけ抜き取られたように、手掛かりがない。
「後はこちらにお任せください。御当主殿は、御自身の責務を全うしてください」
栖鳳楼の仕事は、これだけではない。
最近頻繁に起こっている同様の事件の処理がまだ終わっていない。
一族に事件の報告をするのが栖鳳楼の役目ではない。四家から受けた報告から今後の方針を全体に伝えるのが、当主としての栖鳳楼の役目だ。今後の対策から監視、犯人の特定、処分など、決めなければいけないことは山ほどある。そして、それらを実行し、事件が片づくまで、栖鳳楼は休めない。
「では、後をよろしく」
栖鳳楼はその場の簡単な現場確認だけ済ませて、潤々の上に乗って空を飛ぶ。今日も、一時間くらいしか眠れない。最近の栖鳳楼の願いは、ベッドで一日中寝ることだ。そんな願い、一生叶わないだろうけど。




