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第二章 鬼ノ道

 栖鳳楼礼(せいほうろうあや)夏弥(かや)よりも先に栖鳳楼邸に戻っていた。自室に戻ってすぐに着替えてから、栖鳳楼は自分に当てられた屋敷へと向かった。

 栖鳳楼のためだけの屋敷、その地下へ――。

 地下へ続く階段は、一つだけ。その階段は、普段は周囲の床板と、大差がない。栖鳳楼は目を閉じ、床下に眠る術式を手繰(たぐ)り寄せる。そして、(おの)が内の術式と繋げて、魔力を込める。

 ――ガコン。

 ギアが()み合ったように、扉が動く。

 その瞬間、その場は外界と隔絶(かくぜつ)して、床下は空白のように地下への階段を示す。

「……」

 栖鳳楼は階段を下る。

 彼女の姿が床下に隠れると、同時に穴の開いた床は元のように板で(ふさ)がれ、隔絶されていた空間は元のように周囲に溶け込む。

 ――そこから、異常は消失する。

 ――(いな)、異常が存在したなど、痕跡も残さない。

 魔術師が魔術的な実験をするとき、魔術が社会に漏洩(ろうえい)しないよう、魔術師は異界を作る。結界を張り、他者が異界に入らないよう(へだ)てる方法が多いが、栖鳳楼がやったのは、少し違う。

 異界へ通じる道を、魔術的に構築する。この道は、普段は存在しない。特定の魔術を(かぎ)として、その魔術が行使されたときのみ、異界への道が開く。

 アラビアンナイトの、洞窟(どうくつ)を開けるときに呪文を唱えるのと同じ原理。普段は魔術の存在を(にお)わせず、必要なときだけ魔術を使って異界への扉を開く。

 栖鳳楼邸には、そういった異界への扉が何箇所か用意されている。その異界に入れる者は、栖鳳楼家の中でも限られた者だけ。場所に応じて、入れる者も限定されている。全ての場所に入れるのは、栖鳳楼家当主のみ。

 単純な呪文を唱える方法ではなく、鍵となる術式を構築するため、そう簡単には入れない。

「……」

 栖鳳楼は階段を下り、その異界へと到達する。

 栖鳳楼の魔力に反応して、異界の中に灯かりが(とも)る。

 異界の広さは、学校の教室ていど。床も壁も天井も、地面がそのままむき出しになっている。床と壁には、歴代の魔術師の実験のためと思われる魔方陣が描かれている。広さのわりに、モノが少ない、殺風景な空間。それでも、壁には鎖、釘、斧、手枷、足枷、首輪、猿轡、様々な拘束具、拷問具の類が転がっている。

 そして、この部屋の奥。

 左右にそれぞれ一つずつ、(ほの)かな灯かりを揺らしている。

 ――その中央に。

 男が一人、()るされている。

 白い布切れを体に巻かれ、その有様は死装束のよう。両の手首・足首を固定され、首にも鉄の輪が()められている。

 一歩近づき、栖鳳楼はその男を見上げる。

「兄さん……」

 男は目を(つむ)り、なにも(こた)えない。

 ――男はもう、息をしていない。

「…………」

 沈黙が、この閉じた空間に広がる。

 男の名は、水鏡竜次(みかがみりゅうじ)。――旧姓は、栖鳳楼。

 竜次が栖鳳楼の姓を失ったのは、彼が小学校に上がって三月(みつき)ほどのこと。それは同時に、栖鳳楼礼が栖鳳楼家次期当主に決まった日――。

 竜次は、その上の兄弟と違い、魔術師としての才能はあった。しかし、次期当主になるほどの才能はなかった。

 栖鳳楼家において、当主の器は栖鳳楼家に代々伝わる神具(しんぐ)獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)〟によって決まる。神具とは、魔具(まぐ)の中でもさらに上等なもの、複雑な術式、何十年、何百年と蓄積された魔力を内包(ないほう)する、魔具の最終形。獄楽閻魏は、栖鳳楼家が白見(しらみ)町の血族となった、千年も前に作られた魔具であり、栖鳳楼家の家宝。

 普段は一振りの日本刀の形をしているが、内部の術式を紐解(ひもと)くことで、大剣へと姿を変える。その姿に解放できるものが、栖鳳楼家の当主に選ばれる。

 もっとも、歴代の栖鳳楼家の当主の中で、獄楽閻魏を扱えなかったものがいないわけではない。魔術師としての才能がなく、ただ跡取りが他にいないという理由から当主に選ばれた者も少なくない。

 だから、栖鳳楼礼が獄楽閻魏を解放できなければ、竜次が次の栖鳳楼家当主になるはずだった。それが、栖鳳楼礼が獄楽閻魏の魔術を解いたために、竜次は水鏡家に養子に出された。一つの家に魔術師が複数いれば、のちの跡継ぎ問題に影響が出る。魔術師としての才能がありながら、栖鳳楼家に邪魔者扱いされ捨てられた。

 (しかばね)となって、いま竜次は栖鳳楼家に戻って来た。彼を手にかけたのは、栖鳳楼礼だ。竜次は、白見町で行われている楽園(エデン)争奪戦に選ばれた魔術師の一人だった。竜次は丘ノ上高校の生徒から魔力を得ようと結界を張り、魔術師見習いの雪火(ゆきび)夏弥に敗北し、栖鳳楼礼によって命を落とした。

 栖鳳楼の前にいるのは、一般人に魔術を使った、魔術師としての禁を犯した罪人。

 同時に、栖鳳楼とは年の近い兄。

 栖鳳楼さえ獄楽閻魏を解放できなければ、竜次は栖鳳楼家にいたはずだった、というのは考えても仕方がない。そのときには、礼が水鏡の名をもつことになったかもしれないのだから。

 ただ、それでも竜次は死なずにすんだかもしれない。竜次が学校全体に結界を張れるような優秀な魔術師でなければ。あるいは、一般人から魔力を得ようとなどしなければ。

 ――それも、また無意味。

 だって、竜次は栖鳳楼礼の存在を知っていたから――。

 竜次が神託者に選ばれるということは、それ以上の魔術師としての才がある栖鳳楼礼は、まず楽園(エデン)に選ばれている。そして竜次の使える魔術では、栖鳳楼家の神具〝獄楽閻魏〟を超えられない。

 だから、一般人から魔力を得るという最低のことでもしなければ、竜次に楽園(エデン)争奪戦で優勝することはできなかった。

 だから、竜次の結末は最初から決まっていたようなもの。

 ――だから、栖鳳楼礼が()やんでも、それは仕方のないこと。

 栖鳳楼は静かに黙祷(もくとう)を捧げ、目を開けて(つぶや)く。

「…………わかってる」

 水鏡竜次の死を、栖鳳楼はまだ世間に公開していない。竜次は行方不明のまま、一カ月近く()っていることになる。

 ――それは、あまり都合が良くない。

 栖鳳楼の殺人が、公になることを恐れていままで隠していたわけではない。魔術師の間で、禁を犯した者の暗殺は、頻繁に行われてきた。その手の隠蔽工作は、白見の町の血族なら容易(たやす)い。

 栖鳳楼が竜次の死を公言しないのは、単に栖鳳楼礼個人の問題だ。

 ――まだ、気持ちに整理がついていないだけ。

 栖鳳楼家当主となるために非情に振る舞ってきたが、根幹のところで感情に弱いところがある。竜次を手にかけて、その死を前にしてなお、栖鳳楼は兄の死を宣言することに、躊躇(ためら)いがある。

 ――でも、いつかは伝えなくてはならない。

 水鏡竜次は、いまは水鏡家の跡取りになっている。将来の水鏡家の(にな)い手がいつまでも行方不明では、水鏡家が安定しない。だだでさえ、水鏡家は人手不足で問題が多い。

 すぐにでも、栖鳳楼は竜次の死を認めないといけない。認めようと、決心しようとこの場にやって来て、しかし栖鳳楼はまた決意が揺らぐ。

 ――その迷い(それ)も、これで最後にしないと。

 もう一度決意を口にしようとして、代わりに目を閉じた。同じことを繰り返すなんて、あまりにも情けないから。

 外の気配を感じたのは、ちょうどそのとき。

『アーちゃん』

 空洞(くうどう)に響く、音。

 栖鳳楼家の中でも限られた者しか入れないこの場所に、聞こえる、声。

「……なに、潤々(うるる)

 目を開き、栖鳳楼は近くの壁を見る。

 栖鳳楼家の式神である潤々が、そこにいる。実際に潤々が存在しているわけではない。本体は、栖鳳楼家内の別の場所にいる。栖鳳楼の目の前にいる潤々は、スクリーンに映された映像のように、()き通っている。

『ここにいたんだ?』

 服の上からエプロンを身につけた潤々が柔和(にゅうわ)に笑う。頭には猫のような帽子を被っている。柔和な潤々の顔に、苦いものがわずかに浮かぶ。

『嫌な言い方になるかもしれないけど、早めに処分したほうがいいよ』

 竜次のことだと、栖鳳楼もすぐに理解する。

 潤々は栖鳳楼家の式神であり、栖鳳楼家のために千年以上も働いてきた、栖鳳楼家そのものに近い存在。栖鳳楼家にとって何が一番重要で、何をすべきなのかを知っている。見た目は人だが、式神という魔術的に作られた存在だから、人間のような感情が足りない。それでも、最近は潤々なりに人の気持ち(それ)を理解しようとしている。だから、厳しいながらも、遠慮がちに潤々は栖鳳楼に何度も竜次の件を忠告している。

「わかってる。そのうちに」

 潤々の優しくなった態度に、栖鳳楼もそろそろ応えなければとそう思う。夏休みに入る前に終わらせようと、そう決心する。

「……で、なにか用?」

 問い返す栖鳳楼。

 潤々がわざわざそんなことを言うためだけに、この場所に姿を映しているわけではないと、栖鳳楼も理解している。何か急な用事ができたのだろう。

 そうそう、と潤々が口を開く。

『アーちゃんに、お客さん』

「誰?」

鬼道(きどう)の人。小さい子どもが二人』

 にこやかに答える潤々。

 栖鳳楼は簡潔に問い返す。

「用件は?」

 潤々は困ったように(まゆ)を寄せる。

『それが、栖鳳楼の当主に会わせてほしい、としか言ってくれないの』

 潤々の困惑が、栖鳳楼にも理解できた。

 用件がある、でも本人にしか話すつもりはない。そう言って、その小さな客は来たわけだ。

 用件を先に話してしまえば、内容によっては門前払いもありうる。だから、栖鳳楼家当主の前でしか口にしないとそういうわけだ。

『どうする?』

 話も聞かずに追い払うことも、もちろんできる。しかし、それでは相手の思惑(おもわく)が読めない。栖鳳楼にも急の用事がないので、栖鳳楼は承諾(しょうだく)した。

「いいわ。会ってあげる。あたしの屋敷の居間で待っててもらって」

 わかった、と(うなず)いて潤々の姿が消えた。

 一人に戻った栖鳳楼は竜次を一瞥(いちべつ)して呟く。

「鬼道、か……」

 栖鳳楼は竜次に背を向け、外へと向かう。死んでから一カ月近く経っていながら、竜次の体は腐敗(ふはい)せず、しかし冷えて白くなった顔だけがいつまでもその場に残っている。


 栖鳳楼が部屋に入ると、テーブルの前で二人の少女が正座していた。二人とも高校生の栖鳳楼より遥かに年下で、中学生になったばかりかまだ小学校高学年くらいだ。

 同い年くらいの二人は、しかし雰囲気は大分違っていた。

 一人は、栖鳳楼が部屋に入るなり、彼女を(にら)みつけてきた。もう一人の少女さえいなければ、すぐにでも飛びかかってきそうな、そんな獰猛(どうもう)さがある。敵意を隠さず、隠す(すべ)さえ知らない幼い少女。

 もう一人は、栖鳳楼が入った瞬間こそ顔を上げたが、いまは(つら)そうに顔を伏せている。子どもらしい幼さのせいで、その表情はいまにも泣きそうだ。けれど、その辛さに耐えている、どこか大人の雰囲気も持っている。

 そんな対称的な雰囲気さえ(のぞ)けば、この二人は驚くくらい似ている。

 同じ表情をされたら、きっと区別がつかない。同じような服装をしているせいで、さらにどちらかわからなくなりそうだ。

 ――本当に、小さなお客さんだこと。

 流し目で確認して、栖鳳楼は障子(しょうじ)を閉める。

「お待たせしました」

 栖鳳楼は座布団に正座して、目の前の小さな客に栖鳳楼家当主として慇懃(いんぎん)に礼をする。

「栖鳳楼家当主、栖鳳楼礼です」

 細めた目を開く。

 栖鳳楼の(おごそ)かな対応に、しかし目の前の少女たちは変わらない。一人は親の(かたき)でも見るように栖鳳楼を威嚇(いかく)し、もう一人は申し訳なさそうにいっそう頭を下げるばかり。

「二人とも、名前は?」

 栖鳳楼を睨みつけている少女が、その態度に相応しく、短く応える。

仙俐(せんり)

 対して、隣の少女はまたその少女の雰囲気に相応しく、しかし顔を上げてはっきりと応えた。

「鬼道、(ながれ)です……」

 そう、二人の少女は名乗る。

 ――鬼道仙俐。

 ――鬼道流。

 どちらの名も、確かに聞いたことがある。二人とも、鬼道家の子どもだ。

 栖鳳楼家には四家(しけ)と呼ばれる、栖鳳楼家を支援する家が四つある。そのうちの一つが、鬼道家。

 栖鳳楼は、この町の人たちの家族構成、生活等を把握している。栖鳳楼家の直下につく四家のことなら、なおさらだ。名前と年齢は、確かに栖鳳楼が聞き知っている情報と一致している。

 栖鳳楼は冷静に、大人の対応で彼女たちに問う。

「なんの用ですか?」

「お姉様を返して!」

 栖鳳楼を睨みつけていた少女――仙俐――が真っ先に声を上げた。

「お姉さん?」

 栖鳳楼は驚きもせず、少女に問い返す。

「そうよ!お姉様を返しなさい」

 なおも、仙俐が叫ぶ。

 仙俐ちゃん、と隣の少女――流――が仙俐を(なだ)める。流のほうは冷静に、はっきりと栖鳳楼に告げる。

「いまは水鏡家に養子となっている鬼道(あき)を、あたしたち鬼道家のもとに返してほしいのです」

 水鏡家は、四家の一つ。水鏡の一族は代々結界を得意とし、情報操作や隠蔽工作など、裏方の役を担っている。

 現在の水鏡には、後継者となる子どもが生まれていない。そのため、血族の間で水鏡家への養子の話が一〇年くらい前から出ていた。そして、養子に行かされたのは、栖鳳楼家から竜次、鬼道家から言の二名。

 はて、と栖鳳楼は胸の内で首を傾げる。

 ――養子の話が、こんな小さな子どもに伝わっているのは、妙だ。

 言が水鏡家に養子に行ったのは、彼女が小学校に入る前のはず。目の前の少女たちは、栖鳳楼の記憶が正しければ、二人とも小学六年生。四つも年が違うなら、言が鬼道家を出たときに、この少女たちは二歳くらいでしかない。言のことなど、知りようもない。

 どこでこの話を知ったのか、それは後で調べようと、栖鳳楼は簡潔に返答する。

「それは水鏡家と鬼道家の問題です。栖鳳楼家に申し出ることではないはずです」

 流が、小学生とは思えないほどしっかりした調子で口を開く。

「栖鳳楼家に対して申し出ているわけではありません。あたしたちは、栖鳳楼家当主様にお願い申しあげているのです」

 へえ、と栖鳳楼も内心で感心する。

 隣でまだ威嚇を続けている仙俐とは違って、流は随分落ちついている。それに、子どもなりによく考えている。

 養子の問題は、養子を提供した側と受けた側の両家で話し合うべき事項だろう。そこに、栖鳳楼家という外部が関わるのは過ぎた行為になる。だが、栖鳳楼家当主なら、栖鳳楼家を含め、四家、果てには、その下に従う魔術師全体に影響することも可能だ。流は、その影響力がほしいのだ。

 しかし、そう簡単に栖鳳楼の当主が動いてしまえば、他の家に余計な不安を抱かせかねない。だから、当主がそう簡単に動くのは良くないと、栖鳳楼は判断した。

「それでも、まずは両家の話し合いから入るのが筋でしょう。こちらには、そのような話し合いがもたれたという報告は聞いていませんが」

 言葉は栖鳳楼家当主としてのものだが、相手が子どもなので口調は(やわ)らげている。

 流も、栖鳳楼の口にした意味を理解して、口を閉ざす。利口そうだから、栖鳳楼の言っていることも、理解しているだろう。しかし、彼女は利口で、子どもだからこそ、ここで引き下がるわけにはいかない。

「――あたしたち子どもには、家の都合はわかりません」

 そう、流は口を開く。

「あたしたちの両親に、話もしました。けれど、これは家の決定だと言われ、それ以上は取り合ってもらえません。あたしたちのような子どもでは、鬼道家の全ての人にお話しを聞くことも、水鏡家に直接訪ねることもできません。ですから、栖鳳楼家当主様にお願いしに参りました」

 顔には出さず、なるほどと栖鳳楼は理解する。

 子どもの彼女たちには、まず親に申し出るのが普通だろう。しかし、ことが家の問題だから、両親たちも簡単に了解はできない。そして、両親たちにとって、それはすでに終わった問題だ。いまさら、親戚を集めて話し合うことではない。

 ならば、家の意見をまとめるのは彼女たちの役目になるが、子どもの身で鬼道の一族全ての意見を聞いて回り、かつ養子の話を撤回(てっかい)するようにするのは、ほとんど不可能だ。

 さらに、水鏡家にその話をするのも、容易ではない。まだ幼く、鬼道の家のことにすら関われない彼女たちでは、水鏡なんて他人の家の問題には、口出しできない。

 しかし、だからといって、栖鳳楼が動く理由にはならない。

「ご両親からお話しされたのでしょう。このことは鬼道家、水鏡家、両家の話し合いのもと、決定したことです。末端の者では、(くつがえ)りません」

 それが、現実。家同士の問題は、たかが子どもが我がままを言ったていどでは、揺るぎもしない。

 でも、と栖鳳楼は優しく告げる。

「それでもなおと思うのなら、まずは家の人たちにあなたがたの意思を伝えることです。ご両親に、もう一度話してみてはいかが?」

「そんなの、もう何回もしたよ!」

 抑えが外れたように、仙俐が叫んだ。

「それでも、お父様もお母様も、もう決めたことだからどうしようもないって、そればっかり。だから、あなたにお願いしに来ているんじゃない!」

 隣で、流が仙俐の肩に手をおいて仙俐を宥める。半分立ち上がっている仙俐は、流が止めなければ本当に栖鳳楼に飛びかかっていただろう。

 流は仙俐を抑えようと、必死だ。仙俐がもし栖鳳楼に手を出せば、その場でこの会合が破綻(はたん)する。

 仙俐が落ちついて、正座に戻ると、流は言葉に(きゅう)したように、しかし訴えるように栖鳳楼を見る。

「…………お姉様は、泣いていました」

 それが、この幼くも利口な彼女のできる、最後の説得なのだろう。

 幼い少女たちは、まだ他人(ひと)を信じている。誰もが、同情と憐憫(れんびん)(ゆう)し、その訴えに動いてくれると、信じている。裏切られるという痛みを、まだ実感として知らない。

 子どもの流は、本当に辛そうに、そう栖鳳楼に訴える。

 だが、栖鳳楼は冷たく少女たちを見下ろした。

「――あなたがたの申し出は、水鏡言の意思だとでも(おっしゃ)るのですか?」

 あまりの冷めた口調に、流だけでなく仙俐までも肩を震わせる。

「なら、この件については、水鏡言本人から申し出るべきです。余所(よそ)の人がとやかく言うことではありません」

 情に流されるなど、栖鳳楼家当主にはあってはならないことだ。

 一人の人間の涙で一〇〇人が死んだら、その責任は誰が負うのか。

 一人の人間を救うのに一〇〇人の血が犠牲になったら、なんて説明すればいいのか。

 栖鳳楼家当主は、だから人間であってはならない。魔術のこと、魔術師のこと、家系のこと、凡人(ひと)のこと、社会(まち)のこと。その全てに、平等で、冷静で。冷酷で、残酷で。

 だから栖鳳楼家当主に情など無駄だと、彼女たちに(きざ)まなければいけない。これは人間ではないのだと、認識させなければいけない。

「よそもの、ですって…………!」

 仙俐が、怒りに立ち上がった。

「あたしたちは家族なんだ。お姉様の心配をして、なにがいけないの?お姉様が苦しんでいて、それを助けたいって思って、なにがわるいの?」

 流も仙俐を止めようとするが、もう仙俐は止まらない。怒りに震えて、恐怖に震えて、いまにも泣きそうな、泣きだしてしまいそうな()で、栖鳳楼を睨みつける。

 その目に、しかし栖鳳楼は同情しない。そんなことは、栖鳳楼家当主には、許されない。

「魔術師の背にあるのは、他人(ひと)の命ではありません。魔術師が背負うのは、(おのれ)の意思と家の名だけです」

 それは、家族だからという理由が意味を()さないということ。

 魔術師として生を受けた以上、その身が為すのは世界への到達。そのために、魔術を習い、研鑽(けんさん)し、次の世代に引き継ぐ血の贄となる。そのために貫くのは、魔術師としての矜持(きょうじ)と、家の歴史だ。

 二人の幼い少女は、栖鳳楼の言葉に困惑している。まだ、彼女たちには早すぎる。それを自覚し、意識するには、彼女たちは、まだ未熟。

「お話は以上です。これ以上は、双方にとって有意義ではありません。次は水鏡言本人でも連れてくることです」

 それだけ残して、栖鳳楼は立ち上がる。栖鳳楼が去った背後、(ふすま)の向こうでは、仙俐の叫び声が聞こえる。きっと、隣で流が仙俐をまた宥めているのだろう。栖鳳楼は振り返らず、本家にある自室へと戻った。


「えぇ――――っ!魔具を返したぁ?」

 大声を上げる栖鳳楼。

 日は落ち、夕食の時間、目の前には雪火家とは比べようもない豪華(ごうか)な料理が並んでいる。一般家庭の雪火家では、とにかく量で勝負する。一つ一つの料理に時間はかけていられないし、種類を増やしても食材を(いた)めてしまう。だが、栖鳳楼家では違う。旅館のような広さを持ち、大勢の人たちがこの敷地内で暮らしている。お(かか)えの料理人は、日々料理のことに専念していていい。出てくる料理はどれもこれも珍しく、数も多い。量ではなく質が重要とばかりに、味も確かだ。小鉢(こばち)や皿の一枚一枚にまでこだわっているあたり、高校生主婦の夏弥では最初から勝負にならない。

 (いろ)取り取りの料理を前に、今後の雪火家の食卓の参考にしようという夏弥のささやかな楽しみは、栖鳳楼の前では無視される。食事場所は栖鳳楼礼専用の建物で、食事の席には夏弥と栖鳳楼の二人だけ。二人しかいないから、栖鳳楼はちっとも遠慮しない。

 あまりの声量(せいりょう)に、しかし夏弥は耳を塞ぐタイミングを失った。身を縮めて、不平を口にするのがやっとだ。

「………………なにもそんなに大声出さなくても」

「馬鹿よ夏弥。あなたは馬鹿よ」

 続けざまに、栖鳳楼は夏弥を(ののし)る。

「……二度も言うことないだろ」

「じゃあ愚者(ぐしゃ)とでも言っておくわ。夏弥の唯一の武器だったのに。あの魔具がなくなったら、今日までの特訓が全く無意味になるのよ」

 わかってるの、と睨みつけてくる栖鳳楼。

 夕食中に、夏弥が路貴(ろき)奪帰(だっき)を返したことを栖鳳楼に話したことが、ことの発端(ほったん)。夏弥も、まあなにか言われるだろうなくらいには思っていたが、ここまで言われるとはさすがに予想外だ。

 でも、と夏弥も言い返す。

「いつまでも、あいつのモノを使っているわけにはいかない。人のモノにばっかり頼っていたら、俺の戦いじゃなくなる」

 自分で口にしながら、路貴の言っていた台詞(セリフ)のパクリだな、と我ながら思う夏弥。

 自分の言葉ではないから、無責任に響く。栖鳳楼はあっさり切り捨てる。

「そう思うんだったら、最初から魔具なんて借りない。あたしとの特訓もそうだし。頼らない、って言うなら、頼らなくても済むくらいになりなさい」

 反論の余地がないから、夏弥は黙り込む。夏弥の中途半端な行動が、栖鳳楼を巻き込み、彼女に迷惑をかけている。彼女に頼っておいてこういう状態だから、夏弥は栖鳳楼に何も言えない。

「まったく。あの男も、余計なことをする」

 小鉢に(はし)を伸ばし、栖鳳楼は料理を口にして無言で噛み(つぶ)す。

「…………」

 夏弥も、黙って料理を口に運ぶ。モノを食べている間は、会話が止まる。しかし、栖鳳楼は永久に話を忘れてくれるほど、甘くはない。早々にスープで口の中のものを()みこんで、すぐに会話を再開する。

「……で、夏弥はこれからどうするわけ?」

 じっ、と睨まれる夏弥。

「どうする、って…………」

 曖昧(あいまい)に訊かれても、曖昧な答えしか出てこない。

 ふう、と(あき)れるように栖鳳楼が口を開く。

楽園(エデン)争奪戦のこと。あなたの唯一の武器は、その路貴から借りていた魔具だけだった。その魔具を失って、夏弥はこれからどうやって他の神託者と戦うのか、ってこと」

 はっきり言われて、さらに夏弥は言葉に窮する。そんな夏弥を見透かして、栖鳳楼は手を上げる。

「いまの夏弥に、有力な方法は二つある。一つ目、式神のローズに今後の戦いの一切を任せる。二つ目、あたしから手に入れた欠片を使えるようにする」

 一、二と指を立てる栖鳳楼。

 夏弥はまず、一つ目について考える。

 ――ローズに、今後の戦いを全て任せる。

 しかし。

 それは――。

「一つ目は、まずない」

 夏弥は即答する。

 栖鳳楼の目が(するど)く光る。

「いまの夏弥で、一番可能性の高い方法よ。ローズは欠片から出した式神でしょ。その欠片、たぶん路貴の欠片(もの)よね。そっちを使うのは、オススメしないわ。魔力を対価として払うことで、無限に召喚するなんて、魔術としては優れているけど、戦いには不向きね。召喚は戦うときではなくて事前に準備するのが普通。召喚の構築に魔力を()いて、重要な戦力としてはそれほど価値がない。もっとも、楽園(エデン)の欠片だけあって、魔力の消費はそんなに多くないかもしれないけど。それでも、ローズほどではないでしょう。ローズは戦力としても優秀だし、自己修復能力まで持っている。式神一人に任せていたほうが、夏弥も安全だし、なによりローズにとっても好都合なはずよ」

 式神は魔術師の魔術の補助や、魔術師同士の戦いにおける重要な戦力として扱われる。魔術師として長く生きてきた栖鳳楼にとって、それは普通の選択。

 だが――。

「ダメだ。彼女を戦いに巻き込むようなことは、できるだけ避けたい」

 夏弥は、拒絶する。

 ローズは、式神だ。夏弥よりもずっと強いことも、知っている。

 ――でも。

 それ以上に。

 夏弥には彼女(ローズ)がただの女の子にしか見えない――。

 笑い、怒り、話して、一緒に生活していく中で、その感覚は大きくなる一方だ。

 ――魔術師同士の戦いにおける兵器ではなく。

 ――どこにでもいる、普通の女の子。

 だから、夏弥はできるだけ、ローズを戦いに巻き込みたくない。やるなら、夏弥の手でやらないと。それが、守ると決めた夏弥の決意のはずだ。

「――夏弥、勘違いしていない?」

 冷たく、栖鳳楼は口を開く。

「式神は人間じゃないのよ。どんなに人間らしく見えたって、根本のところで決定的に違う。式神(あれ)には、人間が持つような感情はない。人間らしく見えるのは、そういうふうに術式が組まれているだけ。人の機微(きび)なんて伝わらない、言葉にしたことしか理解できない。それに、身体(からだ)の構造だって、人間とは違う。痛みは感じない、ただ魔力の残存量に応じて反応を示すだけ。外見が半分以上消えたって、魔力さえあればすぐに再生できる。夏弥なんかより、ずっと丈夫よ」

「…………それでも、ダメだ」

 栖鳳楼の言葉が、わからないわけではない。

 でも、これは夏弥が決めたことだ。女の子に戦わせておいて、男の夏弥が後ろにいるなんて、情けない。自分が守ると決めたのだから、夏弥が前に立つのは道理だ。

 ふう、と栖鳳楼は息を吐く。

「じゃあ、二つ目、あたしから手に入れた欠片を使う、という方法」

 夏弥は自分の右腕に目を落とす。右手の甲に神託者の証である刻印が刻まれて、その上、腕を()うように二本の線が延びている。その線がそれぞれ楽園の欠片で、一つは路貴から引き継いだもの、もう一つは栖鳳楼からのものだ。

 栖鳳楼は上げていた手を下げて続ける。

「夏弥はその身で体験しているからなんとなくわかっていると思うけど、一応説明しておく。あれは〝儚キ人ノ夢(ファントム・ゴースト)〟発動空間内の人間を直接世界と結び、その人間の意識を人類の集合無意識と混合することで、精神を破壊する」

 栖鳳楼との戦いで、最後に栖鳳楼が使用したのがその欠片〝儚キ人ノ夢(ファントム・ゴースト)〟だ。

 栖鳳楼の説明は、専門的すぎて夏弥にはあまりぴんとこない。しかし、夏弥はその魔術を身をもって体験しているから、感覚として理解できる。

 栖鳳楼が続ける。

「つまり、あの魔術には表か裏しかない。成功すれば、相手は即死。失敗すれば、ノーダメージ。結界や対呪の魔術を張られないように攻撃しておくことで成功率を上げて、相手に防御できる間隔を与えず、的確に発動する、っていう戦法になるでしょうね。夏弥の場合、的確に発動する、ことに重点をおくことになる。あの欠片で対象を補足するのは、使用する術者がやらないといけないから」

 夏弥は儚キ人ノ夢(ファントム・ゴースト)を受けて生還(せいかん)しているから、その危険性をあまり認識していない。しかし栖鳳楼の説明でようやく、その欠片が拳銃並みの凶器であるということを、理解した。

「そんな危ないもの、使えるわけないだろ!」

 咄嗟(とっさ)に、夏弥は叫ぶ。

 夏弥は楽園(エデン)争奪戦に参加して、誰も死なせずに勝ち続けると決意した。だから、成功すれば一撃必殺になるような弾丸は、夏弥には使えない。

 夏弥の反応に、栖鳳楼があからさまに目を()らす。

「そうよねー。夏弥からすれば、あんな人殺しの道具、使えるわけないよねー」

 さもふて腐れているように、語尾を伸ばす栖鳳楼。

 儚キ人ノ夢そんなきけんなしろものを、栖鳳楼は夏弥に使った。夏弥は自分が殺されかけたということを理解してなお、他人を傷つけたくないあまりに、お人よしになった。

「…………ごめん」

 むしろ栖鳳楼のほうから()びの一言があっていいはずなのに、夏弥のほうが謝っている。内心複雑だが、頭を下げてしまった時点でどうしようもない。

 そんなちぐはぐは状況に、栖鳳楼はくすりと笑みを()らす。

「いいわ。あたしもオススメしないし」

 なんて、栖鳳楼は説明を続ける。

「新しい欠片を使えるようにするためには、封を切らないといけない。最初の欠片を使ったときもそうだったと思うけど、欠片を使うには、まず欠片を使える状態にしないといけない。欠片には最初、魔術的な封印が施されている。知恵の輪を解くような感覚で封印を解かないと、まず使えない。時間と、なにより魔力の消費が無視できない。解いたはいいけど、しばらく魔力が落ちるなんて、楽園(エデン)争奪戦の初期の頃ならまだしも、もう半分近く終わっている中で、それは大分勇気のいる冒険ね」

 一つ頷いて、栖鳳楼は腕を組む。

「でも、二つともダメじゃ、夏弥に今後戦う術はないわ。その上で、夏弥はこれからどうするつもり?」

 そう。これからどうするか。

 夏弥には、もう武器がない。栖鳳楼が提示した可能性も、全て夏弥には納得できない方法だ。なら、夏弥には後、何が残っているのか。

「……俺は」

 呟き、考える。

 夏弥は、いままでの自分の戦い方を振り返る。

 竜次と戦ったときを除いて、夏弥は路貴から受け取った魔具で戦ってきた。その魔具で十分戦えるように、美琴(みこと)に剣を習った。剣道五段の美琴から、戦うときの心構えを習った。

 夏弥は、自分の手で戦い抜くと、決めた。

 でも、夏弥はいままで戦いの世界で生きてきたわけではない。戦いの術など、知るわけもない。だから、少しでも自分が上達できるように、人の教えを受けた。

 夏弥はいま、戦いの中にいる。楽園(エデン)争奪戦という、魔術師同士の戦い。なら、夏弥に残された選択肢はあと――。

「――俺は」

 これしかない、と。夏弥は決意する。

 栖鳳楼は、腕を組んだまま夏弥を見ている。偉そうにはしているが、夏弥のことを見捨てているわけではない。こうして、いまも夏弥の今後を考えてくれている。

 夏弥は、(いさぎよ)く頭を下げた。

「頼む。俺に魔術を教えてくれ」

 元々、楽園(エデン)争奪戦は魔術師同士の戦いだ。

 魔術師としての知識も技術もない夏弥は、いままで路貴から借りた魔具の力に頼っていた。それで、少しは魔術師として戦えた。

 でも、これからはそれがない。

 なら、夏弥がちゃんと魔術師になるしかない。

「俺、魔術のこと、なにも知らないんだ。でも、この戦いを戦い抜くには、魔術のこと、知っておく必要があると思う。だから、栖鳳楼。俺に、魔術を教えてくれ」

 栖鳳楼からの無言の視線を、首の裏辺りに感じる。彼女がどんな表情をしているのか、下を向いた夏弥にはわからない。

 夏弥は真剣だ。それ以外に、夏弥に選択はないから。

 誰も死なせない。そのために、夏弥自身が戦いに身を(とう)じる。自分が勝ち残らなければ、他の魔術師は躊躇いなく敗者を殺す。だから、夏弥が強くならなければならない。

 ……どれくらい待ったか。

 栖鳳楼の声が、夏弥の耳に届く。

「うん。正解」

 軽やかに、栖鳳楼は頷いた。

「それが、夏弥の結論よね。いいわ。三日以内に戦いで使えるようにしてあげるから、覚悟しなさい」

 呆気(あっけ)ないくらい簡単な返答に、夏弥は顔を上げた。素早く食事を済ませると、栖鳳楼は立ち上がり、部屋を出ようとしていた。

 ついて来て、なんて残して、栖鳳楼は部屋を出た。遅れまいと、夏弥は急いで立ち上がった。新しい特訓が、始まろうとしていた。


 夕食の後、夏弥は栖鳳楼の部屋に連れて行かれた。栖鳳楼の部屋は、本家と呼ばれる大きな屋敷の一階。日本家屋が多い中、彼女の部屋は洋風の香りが漂う。ベッドも机も、雪火家にある夏弥の部屋のモノよりもずっと豪華。床にはこれまた立派な絨毯(じゅうたん)が敷かれているものだから、同じ高校生とはとても思えない。

 つい辺りを見回してしまう夏弥に、栖鳳楼は短く告げる。

「そこに座ってて」

 指示されたのは、ベッドの横の小さな椅子。簡素(かんそ)でありながら、()った模様が施されている。

 栖鳳楼は引き出しから何かを取り出す。それを夏弥へと差し出す。

「はい」

 渡されたものは、(てのひら)に収まるくらいの(たま)だった。手のひらサイズの水晶玉のように、透けて向こうが見える。

「なんだ、これ?」

「それは(はく)っていって、…………いまから説明するわ」

 栖鳳楼は自分の椅子に腰を下ろす。

「念のため確認するけど、夏弥はお父様から魔術のことはなにも教わっていないのよね」

「ああ」

 夏弥は頷く。

 栖鳳楼(いわ)く、夏弥の家は魔術師の家系らしいが、夏弥の父親である雪火玄果(げんか)は、夏弥に魔術のことを一切教えなかった。

 栖鳳楼は一つ頷いて、口を開く。

「じゃあ、まずは魔術の根本的なことを説明しないとね。魔術を使うには、魔力と術式の二つが()る。魔力がエネルギーで、術式が構造体だと思ってくれればいい。だから、魔術を発動するのにまず必要なのは魔術そのものの型となる術式で、そこに魔力というエネルギーを流しこむことはその次になる」

 そう、栖鳳楼は説明を続ける。

「魔力と術式のことについて、もう少し詳しく説明するわね。人間の体で(たと)えると、魔力は血液で、術式はその流れ道である血管のこと。そして術式は血管、あるいは神経のように、個人の体に決まった形で存在する。血管や神経と違うのは、術式は個人差の影響が大きいということ。だから、個人によって得意不得意があり、同じ魔術でも個々によって結果が変わってくる。一貫して、同じ結果が得られるとは、限らない。……と、これは余談(よだん)ね。魔術師が魔術を行使するとき、この既存の術式から新たに自分の使いたい魔術に適した術式を構築し、そこに必要量、バランスを満たすように、魔力を注ぐ。魔術師が魔術を最初に習うときは、まず自身の術式と魔力の質と量を把握し、その上で、その魔術師に合った修練や特訓をすることになる」

 あるいは家系によって多少違うでしょうけど、これは余談、と栖鳳楼は話を戻す。

「そこで、次はその珀の話。いま話したように、魔術の特訓を始める前に、個人の魔力と術式について知っておく必要がある。珀は流れ込んだ魔力や術式の種類によって、その色を変化させる。要するに、その人がどんな魔術に特化していて、どのくらい魔力を備えているのか、試験するための道具。――というわけで、早速やってみてちょうだい」

 栖鳳楼は椅子に深く腰掛ける。もう説明は終わりで、後は夏弥に任せるとばかりに。

「やってみる、て……?」

 夏弥が訊ねると、栖鳳楼は簡単に答える。

「魔力でも術式でも、どちらでもかまわない。その珀に流し込めばいいの。イメージは、自分の体の一部を注ぎ込む感じ。人によってイメージするものは色々だから、一概には言えないけど、夏弥はもう魔術師として実戦を踏んでいるから、あるていどはイメージできるんじゃない?」

 そう、言われても……。

 夏弥が(もっぱ)ら使っていた路貴の魔具、あれは夏弥の意思とは関係なしに魔力を奪っていったから、夏弥自身が意識して魔力を扱っていた気がしない。他に夏弥が魔力なりを扱ったときといえば、竜次との戦いで欠片を解放したときだが、あのときはどうして欠片を解けたのか、自分でもわからない。

 正直、夏弥はいままで、魔術というものがなんなのか感覚としてはわかるようになってきたが、自分で意識して使ったことは一度もない。

「んなこと言われてもなー……」

 ぼやいても、仕方がない。栖鳳楼はもう何も言わず、珀に結果が出るのを待っている。

 ……覚悟を決めるしかない。

 改めて、夏弥は手の中の珀を握る。とりあえず、魔力を流し込むイメージ。自分の血管が珀まで繋がって、そこから魔力が流れる感じ。夏弥は目を閉じ、一心に念じた。あるいは、魔力を込める。

 ――そして、一時間が過ぎ。

 夏弥は、相変わらず珀を握っている。珀に、なんとか魔力なり術式なりが流れ込むように、意識を集中しながら、だ。

 栖鳳楼のほうはというと。

「…………意味が、わからない」

 完全に、夏弥から目を離している。

 眉を寄せて、(なか)ば怒っているようにも見える。

 栖鳳楼は机の上に(ひじ)をつき、掌で自分の顎を支えている。余った手で、こつこつと自分の机を叩いている。

「欠片を解いた。魔具を制御できる。魔術師としての才能は、少なくともあるの。なのに、珀になんの変化もないなんて。才能があるのに、才能がないなんて。そんなことあるはずない。意味がわからない」

 栖鳳楼は、大分気がたっていた。

 夏弥が持ったままの珀は、何の変化も起こらない。透明なただの水晶玉のまま、それ以外に特徴はない。

「………………はぁ」

 集中の糸が切れて、夏弥は息を漏らす。奪帰で特訓をしていたときのような疲れではない。単なる気疲れだ。

 その声を耳にして、栖鳳楼は怒った顔のまま振り返った。

「ちょっと。真面目にやってるの?」

「真面目だよ。たぶん、剣の稽古(けいこ)のときよりも真面目」

「あのていど以上の真面目なんて、あてにならない」

 つれなく、栖鳳楼は切り捨てる。ふん、とまた外方(そっぽ)を向く。

 心中で、夏弥は溜め息を吐く。夏弥だって、もちろん真剣だ。真剣ではあるが、一時間近く経っても何も起こらないのでは、さすがに疑いたくもなる。

「これ、本当になにかしらの変化が起こるのか?」

 ぽつりと漏らした言葉に、栖鳳楼は耳聡(みみざと)く聞き(とが)める。

「モノを疑う前に、まず自分を疑う。その珀は確かに使える。だから珀に変化がないのは、夏弥が魔力も術式も珀に流せてない、ってこと」

 はっきり言われて、夏弥もムっとする。

「そこまで言うなら、栖鳳楼やってみろよ」

 珀を栖鳳楼に突き出す夏弥。

 しばらくその手を見てから、はあ、と息を漏らして、栖鳳楼は椅子から立った。

「本当は、あたしがお手本示しちゃったら、夏弥のイメージを固定する可能性があるから、あんまりやりたくなかったんだけど。ここまでおちこぼれの生徒を前に、先生がやってみせないと示しがつかないわよね」

 やれやれ、と偉そうな栖鳳楼。

 実際、栖鳳楼のほうが魔術師として長いのだから間違いではないが、同じ高校生でこうも下に見られるのは、夏弥も快くない。

「…………」

 すっ、と。

 栖鳳楼が目を細める。それだけで、空気が変わるよう。夏弥も、その雰囲気に思考が止まる。

 ――(あわ)く、珀が光り始める。

 それが七色に揺れながら、輝きを増す――。

 珀という小さな珠の中で、光は変化を繰り返す。その変化は、さも無限の輝きに似ている。

「ま、こんなもんでしょ」

 簡素な栖鳳楼の言葉さえ、夏弥の耳には遠くに聞こえる。

 栖鳳楼の手の内にあって、いまだ水晶の内部は七色に揺れている。その光、一つ一つが意思を持っているように、輝いている。

 その美しさに、つい、夏弥は声を漏らす。

「すごい――。これ、いまなにしてるんだ?」

「純粋に、あたしの術式と魔力を流してるだけ」

 それが、栖鳳楼の魔術師としての素質。

 どんな魔術師でも、得手不得手がある。珀の中で、色はその魔術師の得意分野を表し、現れない反対色は苦手な魔術になる。

 栖鳳楼の魔術は、全ての魔術に通じている。魔力も術式も、必要な魔術に応じて性質を変化させる。あらゆる魔術を難なくこなせるからこそ、栖鳳楼礼は栖鳳楼家当主の座に()いている。

 ふ、と珀から色が消える。栖鳳楼は色を失った珀を夏弥の手へと戻す。

「どちらでも、好きなほうをイメージしなさい。夏弥はどちらかというと魔力をイメージしたほうが楽かもしれない。あの魔具を振ってたくらいだし」

 それから、再び特訓が再開された。今度は倍の、二時間近く。栖鳳楼の見せた珀の輝きを見て、夏弥もやる気が出た。やる気は出たが、結果が出るとは限らない。集中力も、一時間で切れた。結局、夏弥はその日、珀に何の変化も与えられなかった。


 二人の少女はベッドを抜け出して夜闇に身を隠す。幼い少女たちには眠る時間だが、二人は等しく、眠る気になれない。

 鬼道の家を出て、裏の山に入っていく。元々山の中みたいなところに家があるから、山といっても木で覆われているくらいの小さな山、森といったほうがぴんとくる。近くには川も流れていて、幼い彼女たちには恰好(かっこう)の遊び場だった。

 ――そう、それも過去のこと。

 彼女たちは、もう、子どもではない――。

 周囲の大人たちは、二人のことをまだ幼い、なにも知らない子どもだと思っている。そう思い込んで、だから少女たちを子どものように扱う。

 その周囲の目が、少女たちは嫌いだ。

 もう、何も知らない子どもではない。

 もう、何も考えられない子どもではない。

 もう、何もしないわけにはいかない――。

 二人の少女は砂利道(じゃりみち)を進み、彼女たちの背の半分くらいしかない石の上に腰かける。二人の少女のうちの一人、鬼道仙俐は小石を拾って、目の前の池に放り投げる。暗い闇の中で漆黒の波紋(はもん)が広がる。辺りは木々が濃く、月があっても、ここは暗い。仙俐はまた、手頃な石を足元から探す。

「仙俐ちゃん、これからどうする?」

 仙俐の隣に腰かけた鬼道流が不安の色で仙俐を見る。うーん、と仙俐は気のない返事をして、小石を池に投げた。

「やっぱり、お父様以外にも、話したほうがいいのかな」

 それにも答えず、仙俐はまた小石を探す。

 仙俐と流は、双子の姉妹だ。着る服も、二人一緒。鏡の前で同じように立ったら、どちらがどちらか区別できない。

 外見は全く同じ二人も、しかし中身は驚くくらい違う。

 仙俐は姉で、活発で、気が強い。

 流は妹で、思慮深く、周囲のことを良く()ている。

 子どもの頃は、姉である仙俐の後ろを流が付き従い、仙俐の無鉄砲さに流がおっかなびっくり付いてくる。仙俐がなにかを言うとき、流は黙り、気がつけば仙俐ばかりが(しゃべ)っていることも良くある。

 自己主張の強い仙俐に、口数の少ない流。常に仙俐が前に立ち、流はその後ろからことのなりゆきを見守っている。そんな関係が、子どもの頃はあった。

 ――でも、現在(いま)は違う。

 流は仙俐なんかよりずっと頭が良く、他人(ひと)の心に敏感だ。仙俐では気づかない気持ちの変化が、流にはわかるようだ。相手の気持ち、思い、考えをすぐに察知して、(たく)みに言葉を選ぶ。もう、仙俐が入る余地はない。

 ――今回のことで、それがはっきりした。

 そもそも、仙俐と流にお姉様がいるというのを最初に知ったのは、流だ。どういうふうにして知ったかは、仙俐も知らない。しかし、流が言うには、彼女たちのお姉様は水鏡の家にいて、すごく悲しんでいるらしい。

 妹の言葉を、姉の仙俐はすぐに信じた。そして、なら水鏡の家にいって、お姉様に会いに行こうと提案した。しかし、流が言うには、それは難しいことらしい。その理由も、姉である仙俐は知らない。だが、利口な妹の言うことなので、仙俐は信じた。そして、流の言うままに、父親のところに行って、離れ離れのお姉様を取り戻してほしいと説得した。その間、仙俐はなにも言えず、流の隣にいただけだ。

 そして、今日だって――。

 ――ちゃぽん。

 と、暗い水が跳ねる。

 仙俐の隣で、また流が不安そうに声をかける。

「全員に話してまわるのは、むずかしいと思うの。鬼道の家で、一番権力のある人にお話しするのが、一番だと思うの」

 そう、流は難しい言葉を口にする。

 仙俐だって、離れ離れになったお姉様とは会いたい。けれど、流のやり方で本当に上手くいくのか、仙俐にはわからない。そもそも、流がなにをしようとしているのかすら、仙俐には見当もつかない。

 こうして外に飛び出して、流から色々と相談される。でも、子どもの頃みたいには、もう仙俐は答えられない。

 お父様にもう一度話してみよう、と言われたら、「それがいい」とか、「ダメ、やっぱり栖鳳楼のお(うち)にもう一度行こう」とでも返せただろう。

 でも、鬼道の親戚の人とか、果ては鬼道で一番力のある人とか、仙俐には想像もつかない世界だ。

 いままでの、お姉ちゃん、妹の関係が、いま、崩れつつある。

 流が仙俐に秘密を打ち明けるのは、昔と変わらない。一人で抱えた不安を、仙俐にだけ打ち明けるところは、流はちっとも変わっていない。

 ――でも。

 仙俐は小石を探すのを止めて、暗い水面を眺める。

 仙俐(あたし)がいなくても、流ちゃんは一人で先に行っちゃうんだろうな――。

 さっきまで、栖鳳楼の当主という女の人を前にして怒っていたのに、流に(さと)されてその気持ちがどこかへ消えてしまった。そして暗い水面の前にいて、自分を見ていると、ただ自分の幼さだけが見えてしまう。

 姉だという自信や義務感が、崩れていく。それは、(いもうと)の独り立ちなんだから、喜ぶべきだろう。

 ――だけど。

 こんなに、寂しいのは、なんでだろう――。

 それが、少しだけ不安。

 お姉ちゃんであるという仙俐(じぶん)が――。

 ――あたらしい〝お姉様〟に取られてしまうんじゃないか。

 だから、少しだけ気乗りしない。

 それでも、妹の味方でありたいという、自分。

 仙俐は、言葉が出てこなくて、水面ばかりを眺める。隣で流が、どんどんと仙俐の知らないことを提案する。

「そうなると『ごいんきょさま』になるのかな?鬼道家では、栖鳳楼家みたいに当主って名乗る人はいないし、お正月に『ごいんきょさま』にって挨拶(あいさつ)している人、見たことあるもの。でも『ごいんきょさま』ってどこにいらっしゃるのかしら?」

 仙俐がなにも言わなくても、流の中で計画は決まっていくようだ。まだ臆病(おくびょう)な流は仙俐の後ろに付いてくるけど、そのうち、流は仙俐さえ必要なくなる。

 その将来が、まだ仙俐には想像できない。

 でも、その漠然(ばくぜん)とした不安に、胸が痛む。

 仙俐は、次の流の言葉を待って、暗い水面を(ぼう)と眺めた。

「――こんなところに、(わっぱ)()

 不意に聞こえた声に、二人の少女は顔を上げた。

 振り返ると、そこに一つの人の形があった。暗がりの中、男だということを理解する。そして、薄明かりに、着物を着た男だとわかる。着物の男は、若者だった。少女たちの父親よりも、ずっと若い。二〇代前半ほどか。

「もう遅いで、屋敷に帰ったがえぇ」

 外見の若さとは対照的に、年寄りじみた言葉を使う。

 突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に、仙俐は警戒に身を固まらせる。流のほうも、不安そうに若者を見上げていた。

「どちら様ですか?あたしたちのこと、ご存じなのですか?」

 口を開いたのは、流だ。

 かかか、と若者は闊達(かったつ)に笑う。

「こりゃ、怪しませてしもうたか。すまんのう。儂は(わしゃ)鬼道喪叡(もえい)と申す。最も、馴染(なじ)みなかろうか。ええと、長兄(ちょうけい)の双葉であろう。どちらかまでは見分けがつかんが、姉が仙俐で、妹が流じゃったろう。父の名は祭師(さいし)、であってるか()

 二人は目を丸くして若者を見上げた。

 その通りだ。見ず知らずの人間が、自分たちのことを知っている。仙俐は驚きのあまり、警戒を忘れた。ここでも、驚きながらも理知的に言葉を発したのは、流だ。

「よく、ご存じですね」

 なに、と若者は優雅(ゆうが)に応える。

「隠居の身なれ、このくらいの(のう)がないとのう」

 少女たちは、さらに驚きをもって若者を見上げる。その言葉の意味を、少女たちはまだ理解できない。しかし、その言葉自体は、聞いたものがある。

御隠居様(ごいんきょさま)……!」

 思わず、声を漏らす流。

 魔術の家では、一族のまとめ役が存在する。それは当主という存在であり、家を継ぐものだ。代々の魔術を子孫に残すという考え方から、家を大切にし、跡継ぎを重要視する。

 不要な跡継ぎ問題を回避するため、魔術師の家では子どもは必要最低しか作らない。

 そんな中、鬼道家は例外的に、人が多い。それは、鬼道家の魔術の性質のせいだ。鬼道家は人に魔を降ろすことで、人では到達できないような力を得ようと研究している魔術の家系だ。人を超越した魔術を得られる代わりに、魔に心を()われて廃人になるものも少なくない。もとより寿命の短い一族だから、鬼道家は他の四家に比べて、親戚が多い。子どもを多く残すせいだ。

 そのため、鬼道家では普通の魔術師の家で行われるような世襲(せしゅう)はしない。跡取り問題が起こるというのもあるが、仮に当主の座に就いたとして、その人間が魔によって道を外れることもありうるからだ。

 鬼道では、長年魔に耐えた強い精神力を持つ年長者が、一族のまとめ役を担う。その最長老の者を、鬼道家では御隠居様と呼んでいる。

 だから、まだ幼い仙俐と流は驚愕(きょうがく)し、困惑したまま目の前の若者――鬼道喪叡――を見上げていた。

 流は驚きを抑えながら、落ちついて返した。

「御隠居様は、随分お若い方でいらっしゃったのですね」

 外見なら、少女たちの父親よりもずっと若い。だが、魔術師にとって、外見は少しもあてにならないと、幼い彼女たちでも知っている。特に、鬼道家では魔を宿すため、肉体の変化が人によって激しい。年齢以上に老けて見える人もいれば、その逆もいる。

 鬼道家の最長老は余裕をもって微笑する。

「外見に惑わされてはならんよ。化けの皮の下は、何百年と生きた鬼かも知らんぞ」

 着物を身につけ(たたず)む様は、なんの違和感もなく、若者の姿に合っている。はたして、どれほどの年月を生きた者か、そのたち振る舞いは江戸時代、あるいはそれ以上に古い人間の生き様を想像させる。

 鬼道家の最長老であり、最高権力者。幼いながらも利口な流は、一歩彼のもとに近づき、(うやうや)しく一礼する。

「御隠居様。どうかあたしたちのお願いを聞いてください」

「お願い、とな?」

 流は頷く。緊張のためか、一瞬言葉に迷う。頭の中で口上を()り、(つか)えないように意識を集中させる。

「水鏡家に養子に出された鬼道言を、鬼道家に戻してほしいのです」

 口にした、たったそれだけで、体が熱い。

 相手は、鬼道家の全てをまとめる、鬼道家の(おさ)だ。対して、自分たちは鬼道家の話し合いにも魔術師としても参加できない、幼い子ども。そんな小さな自分が、鬼道家そのものに対して口を()く。それだけで、心臓が早鐘を打ち、潰れてしまいそうだ。

「養子を取り止めよと、そういうことかいのぉ?」

 びく、と肩が震える。

 はい、と応えられただけで、流は精一杯。声を詰まらせなかっただけで、上出来。

 ふむ、と鬼道の御隠居は(あご)に手を()える。

「言は、そちらの長子(ちょうし)であったか……」

 はい、と思わず流は頷いていた。

 だが、喪叡はすでに少女たちのことを見ていなかった。彼女の返答も、別段期待していたわけではない。

 喪叡の言葉にどれだけかかったか。小さな少女たちには、さも永遠のように感じた。首の下で血潮(ちしお)()こえ、服の下にはどっと汗をかいている。

 ……長い間。

 ややあって。喪叡は一つ頷く。

「――よかろう。言を鬼道に戻そうぞ」

 その言葉を、実感として理解するのに、わずかばかり要した。彼の意を理解して、ようやく流が声を上げた。

「本当ですか!」

 そこには、もう利口な少女はいない。年相応の幼い少女の声で、彼女は叫んだ。

「一度口にしたことは(たが)えぬ。(よお)く他の者にも言い聞かせよう」

 流が本当に(うれ)しそうだったから、隣にいた仙俐はつい(ほお)(ゆる)めた。

 仙俐だって、信じられなかった。疑うことを知らなかったわけではない。ただ、流があまりにも嬉しそうだから、仙俐も心から喜んだ。こんなに簡単にコトが進むなんて、思ってもみなかった。流の期待通りになって、仙俐はただただ嬉しい。

「さあ、もう遅い。屋敷まで送って(しん)ぜよう」

 喪叡と一緒に、二人の少女は帰路(きろ)に着く。帰るまで、流はずっと嬉しそうだった。さっきまでずっと沈んだ顔をしていたから、それがいっそう際立つ。そんな彼女の顔が見れて、それだけで仙俐は安心した。

 仙俐と流は仲が良く、よく手を繋いでいた。だが、いまは手を繋ぐことも忘れていた。そんなことも、仙俐は気づかなかった。


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