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第一章 これから

 白い空にどこからともなく鳥の鳴き声が聞こえる。朝に敏感な鳥たちは、まだ布団(ふとん)の中にいる人間を笑うように、姿なく空を飛ぶ。

 広々とした敷地の中に、古い時代の日本家屋が何件も並んでいる。その一つで現代の家として十分機能するが、公家(くげ)の時代のようにそれぞれに住む人間は異なっている。

 その整然(せいぜん)とした家々から離れるように、竹林の中に道場がある。道場には細い廊下(ろうか)が一本伸びているだけで、その全容(ぜんよう)は緑に隠されて見通せない。

 突き抜けるような軽快な音に、林がざわめく。とまっていた鳥たちが驚いて、まだ冷たい朝の空気に舞う。

 雪火夏弥(ゆきびかや)は吹っ飛ばされた勢いで、竹刀(しない)を落した。背中の強烈な衝撃に、壁際まで追い詰められていたことを知った。

「ほら、立ちなさい」

 竹刀を向けて命じるのは、この家の当主、栖鳳楼礼(せいほうろうあや)。夏弥と同い年の高校生だが、栖鳳楼はここ、栖鳳楼家におけるあらゆる権限を持っている。とても、同じ高校生とは思えない。

「くそっ」

 なんて憎まれ口を叩きつつ、素直に竹刀を取り直す。

 途端、夏弥が構えるより先に栖鳳楼が竹刀を叩きこむ。何度も、そんな不意打ちを食らっているから、夏弥の体は反射的に栖鳳楼の攻撃を受ける。これは試合ではない、殺し合いの練習だ。だから、不意打ちを入れられたからといって、文句は言えない。不意打ちを入れられるような隙を見せ、油断したものが悪い。

 何発か受けて、再度夏弥の体は床を転がる。今度は竹刀を手放さなかったから、栖鳳楼も容赦(ようしゃ)がない。

「そのていどなの。そんなんで、この戦いに勝ち残れると思ってるの?」

「……るせェ!」

 夏弥は転がりながら、その勢いで立ち上がる。夏弥が立ちあがったところに、栖鳳楼が思い切り体当たりを決める。

 男の夏弥と女の栖鳳楼では、体格差がある。それなのに、夏弥の体は勢いに押されてよろめく。

 栖鳳楼の言う『この戦い』とは、魔術師たちから楽園(エデン)争奪戦と呼ばれている戦いのことだ。

 楽園(エデン)争奪戦――。

 それはここ白見町で密かに行われている、魔術師同士の戦い。六人の魔術師たちがお互いの全てを()して、戦う。ただ一人、勝ち残ったもののみ、楽園(エデン)への(かぎ)を手に入れられる。

 この世界には魔術師と呼ばれる人たちが存在する。魔術は科学が発展するより以前から存在し、彼ら魔術師はその魔術を使ってこの世界の真理を追究すべく、研究を続けている。科学が発展した現代では、魔術師の存在は表舞台から消えた。それは、魔術よりも科学のほうが安定した結果を引き出せるからだ。魔術は個人差が大きく影響して、常に安定、誰が使っても同じ結果、というわけにはいかない。

 そんな現代でも、魔術師たちは存在している。魔術師たちの最初に生まれた目的、世界への到達が、科学をもってしても達成できていないからだ。

 楽園(エデン)は、世界に最も近い場所だとされている。世界に到達しようとする魔術師たちにとって、楽園(エデン)争奪戦は重要な戦いなのだ。

 ただし、楽園(エデン)争奪戦に参加できるのは、たった六人の魔術師のみ。参加者は楽園から選ばれ、選ばれた証として、参加者には〝刻印〟と呼ばれる印が手に刻まれる。その刻印を持つ、楽園(エデン)争奪戦に選ばれた魔術師を〝神託者〟と呼ぶ。

 雪火夏弥は、神託者の一人だ。つまり、夏弥は魔術師なのだが、自分が魔術師であるということを、夏弥はこの戦いに関わるまで知らなかった。

 魔術師は、代々(つちか)ってきた魔術を子孫に継承(けいしょう)する。だから、魔術師は一代限りではなく、何代にもわたって続くものであり、魔術師同士、家の名がわかればどんな魔術の家系かということもすぐにわかる。

 雪火家の最後の魔術継承者である夏弥の父親、雪火玄果(げんか)は、夏弥に魔術を教えなかった。それどころか、雪火家が魔術の家系であるということを、夏弥に伝えなかった。だから、夏弥はいまだに魔術も使えない、半端者(はんぱもの)だ。

 そんな夏弥が、魔術師最高峰の戦いである楽園(エデン)争奪戦に参加している。そして、すでに何人かの神託者と戦い、勝ち残っている。

 いままで、どういう(めぐ)り合わせか、夏弥は楽園(エデン)争奪戦に生き残っている。だが、次も戦って勝てるかは、保証できない。だから、代々魔術師の家系である栖鳳楼に、勝ち残るための特訓をしてもらっている。

 そう、これはあくまで、特訓――。

「……ごォ!」

 バランスを崩した夏弥に、栖鳳楼は竹刀を(さば)いて懐に飛び込み、その勢いのまま夏弥の胸を(つか)で突いた。

 もう、何度目になるかわからないくらい、夏弥は栖鳳楼に倒されている。胸を突かれたため、しばらく呼吸ができず、()き込む夏弥。

「ほら、さっさと立つ!」

 栖鳳楼が怒声を上げる。

 竹刀を構える栖鳳楼は、彼女には珍しい道着姿、ポニーテールに髪を()っているのは変わらない。対する夏弥も、道着を着せられている。

 慣れない道着だからといって、勝てない言い訳にはならない。早朝に叩き起こされてまだ眠いからといって、負ける言い訳にはならない。

「……のォ!」

 もう、声も出ない。

 少しでも体を起こした夏弥に、栖鳳楼は容赦しない。軽快に、夏弥の手から竹刀が叩き落とされる。……正直、そろそろ勘弁してほしい。


 夏弥は道場の壁にもたれかかって荒い呼吸を繰り返している。夏弥の今日の戦績は、零勝完敗。そもそも一本を取る、なんて生温い試合じゃないからそれも正しくないが、だが夏弥が栖鳳楼に勝つことは一度もなく、全て惨敗(ざんぱい)だ。

 あちこち痛めつけられているはずなのに、火照(ほて)った体は麻酔にでもかかっているように、なにも感じない。あと数時間休んだ頃にとんでもないことになっているだろうと予想できたが、いまの夏弥には荒い呼吸を繰り返すしかできることはない。心臓が熱湯(ねっとう)に放り込まれたみたいに、ばくばく跳ねている。その騒々しい呼吸音も気にならないくらい、夏弥は疲弊(ひへい)(きわ)みだ。

「二人ともお疲れ様」

 道場に一人の女性が入ってきた。彼女は栖鳳楼と夏弥にスポーツドリンクの入ったボトルを差し出す。疲れている夏弥も、なんとか手を伸ばして受け取った。

「ありがとうございます。落葉(おちは)さん」

 その女性、栖鳳楼落葉はにっこりと微笑する。

 落葉は栖鳳楼礼の姉で、大学生だという。ダークグリーンのズボンに、淡いオレンジのトップ、腕には指先に穴の開いた黒のロンググローブをはめている。右目の下に泣き黒子(ぼくろ)があり、微笑(わら)うとつりこまれそうになる。

 突っ立ったままの栖鳳楼はムスッとした表情でボトルから伸びたストローに口をつける。

「あたしは疲れてない」

 まだやれるとばかりに、栖鳳楼は背筋を伸ばす。

 夏弥は心の底で、そこは疲れたと言ってくれ、と願う。決して口にはしない。怖いからではない。疲れて口も動かせないからだ。

 そんな栖鳳楼に、さすが姉というか、落葉はにこやかに返した。

「礼。また魔術使ったでしょ」

 栖鳳楼の目に暗い影がよぎる。栖鳳楼は落葉から目を逸らす。

「これは魔術師との戦いを想定しているの。相手が魔術を使ってくることを念頭におけないようじゃ、ダメなの」

「魔術にばかり頼っていると上手く体を動かせない。大振りになって隙をつくるし、攻撃が単調になりやすい。接近戦のときは相手の呼吸を読みながら自分のペースに持ち込まないと、自分自身に足を(すく)われるわ」

 真剣な眼差しで忠告する落葉。そこには直前までの笑みはなく、大人の、子どもをたしなめる厳しさがある。

 栖鳳楼は口からストローを離して、落葉を睨む。

「…………うるさい。これは、普通の戦いとは、違う。姉さんには、関係、ない」

 言って、栖鳳楼は再び目を()らす。

 口にしてから、激しく後悔しているようにも見える。けれど、言ってしまったものは、もう取り返すことができない。

 そんな栖鳳楼に、落葉は優しく微笑む。

「お風呂入ってきなさい。時間なくなるから」

 無言で、栖鳳楼は道場を後にする。

 足音も遠く、もう聞こえなくなった頃、落葉は夏弥に微笑みかける。

「ごめんなさい。変なトコ見せちゃって」

「あ、いや……」

 それだけ口にして、それ以上続かない。落葉はやはり優しそうな顔のまま続ける。

「礼の言うとおり、関わっている世界が違うから、あたしが口出すことじゃないのかもしれない。悪い(くせ)だね」

 苦笑もせず、落葉は優しく夏弥に伝える。

 大人だ、と高校生の夏弥は理解する。大学生だから、なんてそんな簡単な距離じゃない。人間としての度量の違いに、夏弥はつい見とれてしまう。

「あの、聞いてもいいですか?」

 (ひか)えめに、口を開く夏弥。

 うん、と落葉は無言で(うなず)く。

「どうして栖鳳楼……礼、が当主なんですか?」

 夏弥の疑問。

 夏弥がここ栖鳳楼家に来て、今日が二泊三日目だ。それは、栖鳳楼からの要求だった。

 楽園(エデン)争奪戦に、栖鳳楼礼も神託者として参加していた。それをつい先日、夏弥は勝負の末に、栖鳳楼を倒した。いや、倒したなんて、とても胸を張って言えるようなものじゃない。

 栖鳳楼家は、生粋(きっすい)の魔術師の家系だ。しかも、白見(しらみ)町の魔術師を管理・監督する血族(けつぞく)と呼ばれる一族で、栖鳳楼はその次期当主だった。

 魔術師同士の戦いは、命を賭ける。魔術師は魔術を次の代へと引き継いで魔術を発展させるから、家の歴史を重んじる。そのため、魔術師の戦いにおいて、敗北はその魔術師一人の敗北ではなく、その家全体の敗北を意味する。

 だから、魔術師は敗北を許さない。敗北するときは、その命をもって(あがな)うしかない。ゆえに、魔術師の戦いにおいて勝者は敵を殺し、敗者は無様に生き残ることを望まない。

 だが、夏弥はそんな魔術師たちの考え方を知らない。夏弥が知っているのは、人を傷つけるようなことはしたくない、人殺しは悪いことだという、平和な世界の人間の考え方だけだ。

 ――楽園(エデン)争奪戦で勝ち残り、そして誰も殺さず、みんなを守ってみせる。

 夏弥の決意が、魔術師として生きている栖鳳楼にどのように映ったかはわからない。栖鳳楼は楽園(エデン)争奪戦を棄権し、彼女の刻印は夏弥のものと一つになった。栖鳳楼はすでに、神託者ではない。

 それからしばらくして、栖鳳楼は夏弥の家を訪れた。そして栖鳳楼は夏弥に栖鳳楼の家に泊まり込むことを命じた。血族の(おさ)である栖鳳楼を倒したのだから、夏弥はこの楽園(エデン)争奪戦で優勝してもらわないと困るらしい。

 ――栖鳳楼家当主としての命令です。

 なんて言われて、夏弥はこうして栖鳳楼家に寝泊まりし、早朝の特訓を強制されている。人の頼みを断れない性格が(わざわ)いしている。

 ここまでは、いいだろう。

 だが、栖鳳楼家を訪れて()いた、夏弥の疑問。

 栖鳳楼家には、栖鳳楼礼以外にお姉さんがいる。当面、夏弥の面倒はお姉さんである落葉が見てくれるらしいのだが、お姉さんのほうが下働きをさせられてるなんて、にわかに信じがたい。妹の栖鳳楼礼のほうが栖鳳楼家の当主になるなんて、とても信じられない。

 夏弥の問いに、簡単なことだよ、と落葉は答える。

「礼に一番才能があった。それだけのこと」

 落葉は柔和(にゅうわ)な瞳で続ける。

「あたしの他にも兄弟はいる。でも、みんな独立したか、他の家に(とつ)いだか、養子に行かされたかのどれか。魔術師の家だと、長男・長女というだけでは家を継げない。魔術師としての、才能が優先される。礼はあたしたちの中で一番末っ子だけど、魔術師としての才能は誰よりも抜き出ていた。だから小さい頃から当主になるための辛い仕事もさせられた。そして、当主になった」

 それだけ、と落葉は笑う。

「いまどき、古臭いって思うよね。養子とかって」

 いえ、と夏弥は控えめに首を振る。

「…………辛いんだな、ってのは、わかります」

 栖鳳楼と戦っていたときの、彼女の見せた表情を思い出す。

 ――殺す。

 栖鳳楼は、夏弥に告げた。魔術師同士の戦いでは、敗北は死を意味する。だから、勝つとは殺すこと。

 ――そう口にした栖鳳楼は、泣いていた。

 きっと小さい頃から、栖鳳楼はこの町の魔術師を治める、魔術師のトップとして、色々なことをしてきたんだろう。魔術師の中で、魔術師以外に魔術を見られる、あるいは使うことは禁じられている。その禁を破った魔術師の処分を、栖鳳楼家は昔からやってきた。

 勝つことは、殺すこと。

 そう教わり続けた栖鳳楼は、本当に辛かっただろう。でも、それを栖鳳楼本人の前で、口にしてはいけない。それを本当に理解したとしても、きっと口にしてはいけないことだ。栖鳳楼の前でそんなことを話してしまったら、彼女は立てなくなってしまう、と夏弥は予感する。

 だから、夏弥はもう口にしない。

 折角、栖鳳楼があれだけ元気になったのに、これ以上彼女を泣かせるわけにはいかない。夏弥は男だから、なんて、こっちのほうがよっぽど古臭い気がする。

 優しく、落葉が微笑む。

「これからも、礼の相手になってあげて」

 はい、と夏弥は頷く。栖鳳楼がいなくてよかった、なんてことをいまさら思う。

 でも、と落葉が意地悪く笑う。

「夏弥くんが辛くなったら、そしたら文句の一つくらい言っていいからね。礼って、結構意地っ張りだから。押されっぱなしだと、辛いよ」

 それは、確かにそう思う。

 昨日の早朝、最初の栖鳳楼との特訓で。夏弥との戦いを()て、栖鳳楼はなにかが吹っ切れたようだ。眠い夏弥に、栖鳳楼は容赦がなかった。本気で、殺す気じゃなかろうかと、そんな気さえした。おかげで、夏弥は気絶してしばらく動けなくなって、午後から学校に行けるようになった。今日も今日とて、気絶は勘弁してもらったが、やっぱり体中が痛い。胸を突かれたときは、また殺されるかと思った。

「…………………………可能な限りで」

 精一杯笑おうとして、どうして口元が引きつるのだろう。体中から、嫌な汗が噴き出してくる。これからしばらく、栖鳳楼との特訓は続く。夏弥は生き残れるのか、これからが心配になってきた。


 体中に痛みを引きずりながら、夏弥は丘ノ上高校へ向かう。

 栖鳳楼の家から学校に通うのは、これが二回目になる。まだ慣れないところはあるが、隣に栖鳳楼がいるからとりあえず道には迷わない。

「どう、こっちの生活には慣れそう?」

「……ああ、そのうち」

 低い声で、夏弥は返答する。

 朝から死と隣り合わせの毎日なんて、慣れる気がしない。そんな生活に慣れてしまったら、それもあまり快くない。

 夏弥は正直なところを口にした。

「できるなら、もう少しお手柔らかに頼むよ」

「無理ね」

 にっこり、栖鳳楼は笑って(こた)える。

「夏弥にはそれしか武器がないんだし、剣の腕だけでも上げておかなきゃ、楽園争奪戦(このたたかい)には勝ち残れないわよ」

 なんて、あっさりと言い切る栖鳳楼。

「いまから魔術を習っても、実戦で使えるようになるかわからないし、これが一番効率がいいの」

「はー、左様ですか……」

 溜め息を吐く夏弥に、栖鳳楼は(なぐさ)めるように続ける。

「いいじゃない。戦いにだけ専念できるんだから。家事とかそういうのしなくて済んで、楽になったでしょ」

 夏弥が小学五年生になったばかりの頃、夏弥は父親を亡くし、一人で生活している。もう長く一人暮らしをしているせいか、掃除、洗濯、料理など、家事一般は難なくこなす。

 もはや夏弥の生活の一部、半身にもなっていた家事は、栖鳳楼邸で寝起きするようになってからする必要がなくなった。楽になった、というのは正しいのかもしれないが、夏弥にとっては大きな穴が開いたように落ちつかない。

「あれはあれで、俺の気晴らしになってたんだ。そのささやかな楽しみを奪わないでほしいよ」

 口にしてから、夏弥はあることを思い出す。

「っつーか。ローズ大丈夫なのか?一人じゃ飯も食えないだろ」

 現在、夏弥の家には一人の少女が留守番をしている。

 名は、ローズマリー。夏弥は、彼女のことをローズと呼んでいる。彼女は、正確には人間ではなく、式神だ。式神とは、魔術によって構築された擬似生命体。魔術師の命令に従い、魔術師の魔術的補助や、魔術師同士の戦いの一戦力としての役を(にな)う。

 式神それ自体、高度な魔術に分類される。人間と同じように振る舞い、人と会話しても不自然さがないような式神は、さらに上級の式神だ。ローズはぱっと見て、人間の少女となんらかわらない。だから、彼女はかなり上級の式神だ。

 そんなローズも、普段は夏弥と一緒に食事をする。しかも、夏弥以上の量を一度に食べる。あれだけ大食らいなのに、いまは夏弥が家に帰らなくなって、食事がない。式神のローズは、しかし料理は作れない。

 夏弥の心配を、栖鳳楼は問題ないとばかりに跳ね返す。

「必要ないわ。あれは式神なんだから。魔力さえ供給できれば、食事なんていらないもの。その件については、感謝してほしいわ。あたしが夏弥の代わりに、ローズへの魔力提供をしているんだから」

 夏弥が栖鳳楼に連行されるとき、ローズは雪火家に残ることを希望した。その真意は、夏弥にもわからない。夏弥としては、ローズを一人きりにするのは気が引けたが、そのときばかりはローズも(ゆず)らなかった。

 食事とか、普段の生活に関する心配事を口にしたとき、栖鳳楼がその解決策を提案した。仕組はわからないが、栖鳳楼がローズへの魔力供給をしてくれると申し出た。栖鳳楼が言うように、ローズは式神だから、必要十分な魔力さえ満たされていれば食事も必要ない。というより、本来は魔力でエネルギーを満たしているから食事など必要ない。いままでは、夏弥がローズに必要な魔力を供給できなかったから、食事という代替方法でそれをカバーしていたにすぎない。

「…………ああ、さんきゅーな」

 とりあえず、お礼は言っておく。

 そうこうしているうちに、二人は丘ノ上高校に到着する。朝早い時間のせいか、人の姿はない。

「じゃあ、先に行ってて」

 校門から入るなり、栖鳳楼はそう告げる。栖鳳楼の足は自分の教室のある校舎には向いていなかった。

「どうした」

「見回り」

 夏弥の質問に、栖鳳楼は簡潔に答える。

 栖鳳楼の言葉に、夏弥はぴんときた。栖鳳楼の言う見回りとは、おそらく魔術師(あちら)側に関すること。栖鳳楼礼は栖鳳楼家当主だから、この町の警戒に余念がない。加えて、白見町で魔術師同士の戦いである楽園(エデン)争奪戦が起こっているから、その警戒意識は特に強い。

「俺も手伝うよ」

 夏弥の申し出に、栖鳳楼は軽く手を振って断った。

「いいわ。一人で十分だから」

 栖鳳楼はそのまま、購買部のある校舎へと消えた。夏弥も無理についていかず、自分の教室へと向かった。断られたら、それ以上のことはしない。夏弥はそういう性格だ。


 栖鳳楼と別れて、しばらく。

 いつもより早く学校に着いた夏弥は、することもなく、自分の机に座って窓の外をぼうと眺めていた。栖鳳楼とはクラスが違うため、彼女がいつくらいに教室に戻るのかは知らない。気がかりではあったが、深くは気にかけなかった。魔術が使えないとはいえ、一応夏弥にも魔術師としての素質はあるらしい。いまこの学校では、怪しい気配はない。

 ときが()てば、生徒たちもやってくる。そして時間になれば、担任がやって来てホームルームが始まる。そのホームルームが始まる、直前。

「よォ!夏弥」

 いきなり背後から、アームロックをかけられる。

 あまりのことに、ぼうっとしていた夏弥は反応に遅れた。見事に決まったものだから、本気で苦しい。

 こんなことをするやつを、夏弥はこのクラスで一人しか知らない。だから、顔など見えずとも自然に理解できてしまう。中学校からの腐れ縁、前の席の生徒、麻住幹也(あさずみみきや)だ。幹也は陸上部の所属だから、体力は夏弥の(はる)か上。幹也が本気を出したら、夏弥などひとたまりもない。

 一向に力を(ゆる)めない幹也が、夏弥の頭の上で気の抜けた声を出す。

「……あれ?」

「いいから、離せ……!」

 何度か幹也の腕を叩くと、ようやく幹也が力を緩めてくれた。解放された夏弥は、大きく息を吸う。

 まったく、なにをするんだ朝から。

 思い切り文句を言おうと、夏弥が幹也を睨みつけると。

「…………」

 幹也は夏弥のことを見ていなかった。

 教室の中、遠くでも見るように、幹也は不思議そうな顔をしている。

「なんだよ」

「いや、あー……、いいか」

 気の抜けた返事で、幹也は自分の席につく。(かばん)を机の(わき)にかけて、いつもの調子で夏弥のほうへと向き直った。

「で、昨日は遅くに来て、今日は偉い早い登校じゃねーか。いろいろと、理由(わけ)を聞かせろよ」

 にやにやと、ようやくいつもの調子で幹也は笑う。

 さっきの暴挙(ぼうきょ)に一発叩き込んでやりたい夏弥だが、自分は大人だと心を落ち着かせる。そして大きく胸を張って、幹也に返す。

「幹也。悪いが、当面黙秘権を発動させてもらう」

「おうおう、最近秘密が多いじゃねーかよォ。学祭のときといいさー」

 下卑(げび)た物言いに、夏弥は真面目に答える。

「今回のことと、彼女は関係ない。別の都合だよ」

「なんだぁ。別の女かぁ?」

「黙秘」

 あくまで冷静に跳ね返す夏弥。

 ここ最近、確かに夏弥は幹也に対して秘密が多い。

 ――話せるわけもない。

 夏弥がいま関わっているのは、魔術師同士の戦い、楽園(エデン)争奪戦なのだから。

 幹也は魔術師とは関係のない、一般人だ。そんな幹也を、この戦いに巻き込むわけにはいかない。

 ふん、と鼻を鳴らして、幹也は椅子にもたれる。

「まあ、いまはいいけどな。俺も、正直気が進まねーし」

 幹也は遠く、横目で窓のほうを見る。

 そんな幹也の態度に、夏弥は妙な感じを覚える。

「なんだ。珍しいな」

 いつもなら、この手の話には喜んで食いついてくるのに。健全な男子高校生らしく茶々を入れてくる幹也は、しかし今日はそれ以上のことをしない。

 ん、と幹也は黙って親指を教室内に向ける。

水鏡(みかがみ)……?」

 その先の生徒を目にして、夏弥は呟く。

 正解だったのか、幹也は手を下ろし、夏弥の顔も見ずに口を開く。

「二日も、彼女ほっぽいてんだぞ」

 どくん、と。

 夏弥の胸が締め付けられる。

 水鏡(あき)とは、ここ丘ノ上高校で知り合った女子生徒だ。クラスが一緒で、入学当初は席も近かった。話をしているうちに、夏弥と水鏡の家が近いことがわかり、それ以来登校時には待ち合わせをして学校に通っている。お昼も、幹也を含めた三人で一緒に食べている。

 毎日一緒に登校する水鏡のことを、夏弥は昨日今日と忘れていた。

 幹也は冷めた目でさらに続ける。

夏弥(おまえ)は、水鏡(かのじょ)になんて説明するんだ?」

 いま、夏弥は栖鳳楼の家に泊まり、彼女の家から丘ノ上高校に通っている。いつもの、夏弥の家から向かう水鏡との待ち合わせ場所は、通ることもない。だから、いまの生活では水鏡と一緒に学校に行くことはない。

 そのことを、夏弥はなんて水鏡に説明したらいいのか。夏弥はぽつぽつと、言葉を(つむ)ぐ。

「…………知り合いの家に泊まることになった。家には、しばらく帰らない」

「俺ん()、ってことにしなくていいか?」

「ああ……」

 夏弥は頷く。

 そうかい、と幹也は頭の後ろに手を組む。

「そんじゃ、そういうことで口裏合わせておく。この貸しはでけーぞ」

 いつものふざけた調子ではなく、幹也は真面目だ。

 幹也とは、中学からの腐れ縁。夏弥の家では、夏弥が小学五年生のときに父親が死んで、夏弥は広い家に一人で暮らしている。そういう事情を知っているから、普段はふざけている幹也も、いざというときには頼りになる。夏弥が詳しく説明しなくても、その事情を()んで、色々と助けてくれる。

 夏弥は、申し訳ないと思う。

 こんなに良くしてくれるのに、でも夏弥は幹也になにも話せない。話せないけど、幹也はそれ以上のことを聞かず、それでいて夏弥のために動いてくれる。

 夏弥は、静かに頭を下げる。

「…………恩に着る」

 いつか。

 いつかこの貸しを返そう。

 そのときになっても、夏弥は幹也になにも話せないだろうけど。それくらいしか、高校生の夏弥にはできることがない。


 朝の幹也との話もあって、夏弥は水鏡と話もできず、放課後は部活に逃げた。夏弥の所属する美術部は、夏弥たち学生が普段過ごす校舎ではなく、美術室や化学室など特別教室が集まる棟で活動が行われている。特別教室しかないから、用事がなければ、生徒たちは滅多にここにやって来ない。

「あれ?」

 美術室に入るなり、夏弥は声を上げた。

「誰も、いない……?」

 美術室の中を見渡しても、誰もいない。

 丘ノ上高校の美術部は、放任主義の北潮晴輝(きたしおはるき)部長のもと、活動が行われている。だから、元々部員の出席率は良くない。それでも、一年生と部長だけはいるはずだ。部長の晴輝は野外活動派だから仕方ないだろう。同級生の桜坂緋色(さくらざかひいろ)は学祭実行委員も兼任していて、いまは学祭後の後始末で忙しいのかもしれない。この二人は、まだ理由が浮かぶ。しかし、同じクラスの中間美帆(なかまみほ)までいないのは、どうしてだろう。

 このとき夏弥は、期末試験が近いという事実を失念していた。

 だから、真面目にもいつも通りに部活にやって来た。来た以上は、なにかしないわけにいかない。もっとも、夏弥も一人のほうが落ちつけるから、好都合かもしれない。夏弥は隣の物置と化している部屋からキャンバスを持ってきて、その前に座る。学祭というイベントが終わって、いまは特別急ぐ絵もない。さて、なにを描こうかと腕を組む。

 そこに――。

 ――ガラガラ。

 扉が開く。

 気づいて顔を上げると。

「…………」

 無言で美術室に入ってくる女子生徒が一人。

十宮(とみや)先輩」

 二年生で唯一の美術部員、十宮(はゆ)

 すらりと背が伸びて、髪は腰ほどもあるロングヘア。物静かな人、というよりは、全く口を()かない先輩。

「こんにちは」

 それでも、後輩である夏弥は義務感から先輩に挨拶(あいさつ)をする。

 しかし。

「…………」

 いつも通り、十宮は沈黙。

 話しかけても、返答が必要な(たぐい)のものでなければ口も開かない十宮。その沈黙ぶりはまるで一つの絵画のように、完成された美しさを放つが、先輩としては、いくらか苦手意識を夏弥は持っている。

 これ以上の会話は無駄だと判断して、夏弥は自分のキャンバスに戻る。十宮のほうも、黙々と筆を走らせ始める。

「…………」

 沈黙。

 いつもなら、静かに絵を描けると集中できるはずなのに、今日は変な緊張に夏弥の体は強張る。なにか描くものはないだろうか、と探すとき、夏弥は様々な題材に目を向ける。しかしいま美術室には十宮がいる。不意に目が合わないだろうかと、変なことばかり頭に浮かんで、思うように集中できない。

「……………………」

 息を(ひそ)めて、十宮の気配を(うかが)う。

 静かすぎて、十宮がなにを描いているのかわからない。

 十宮は、絵を描くときまで、静かだ。どんなに意識を()らしたって、紙の上に絵の具を乗せるのだから、音の一つくらいあってもおかしくない。しかし、十宮からはそういう気配は少しもない。

 十宮が絵を描くのを、夏弥も久しぶりに見る。普段は眼鏡をかけないのに、絵を描くときだけ、十宮は眼鏡をかける。彼女の眼には、なにが映っているのか、夏弥には読みとることができない。

 ――ここまで、なにもない人は、珍しい。

 なにも語らず。なにも発さず。

 けれど、そこに確かになにかは存在する。

 学祭で、十宮は部の展覧会で二位を()った。夏弥も学祭中に十宮の絵を見ているので、その腕前は理解している。

 ――その絵を見て、夏弥が感覚したもの。

 それは、十宮は(なか)を見ている、ということ――。

 この世界に溢れているものではなく、その内側。奥へ、奥へ、潜んでいるもの、あるいは眠っているもの。そうして、人が気づかないもの、あるいは忘れているものを、彼女は手繰(たぐ)り寄せる。

 それは、一つの才能だ。

 彼女は、題材というものを必要としない。彼女の(なか)に、イメージは十分に(そろ)っている。だから、彼女は外にそれを求めない。ただキャンバスに向かい、筆を走らせる。なにも語らず。なにも発さず。――なにも、伝えず。

 彼女の絵には、だから彼女の意思は存在しない。でもそれを触れた瞬間、触れた人間個々に、そのイメージが(あふ)れ出す。個人の(なか)、あるいは人間というものの(なか)。あるいは、それ以上のなにか。

 それがなんなのか。

 夏弥には、まだわからない。

 雪火夏弥という人間には、まだそれがなんなのか――。

 不意に、十宮と視線が合う。

「…………」

「……!」

 慌てて、夏弥はキャンバスに隠れる。

「…………」

 十宮の気配が、夏弥から外れる。

 夏弥は慌てて呼吸を整える。

 それからほどなくして、十宮は片づけを始める。その気配に、夏弥もホッとする。元々、今日は集中できていなかった。すぐに帰りたかったが、十宮の存在が気になって、立ち上がることができなかった。

 変な緊張が解けて、夏弥は気が楽になった。十宮が美術室を出て、一〇分くらいしたら自分も帰ろう。

 十宮は片づけを終え、鞄を持って美術室を出ようとする。

 そこで――。

「信じないほうがいい」

 ぽつり、十宮が(つぶや)く。

 低く、消え入りそうな、声。

 それが夏弥(じぶん)()てたものだと理解するのに、少し時間がかかった。扉が閉まり、十宮の姿がなくなって一〇秒ほどして、夏弥の体にようやく理解と、緊張が走る。

「…………………」

 十宮の言葉。

 ――信じないほうがいい。

 それはなにを?

 それは、誰を?

 信じない、とはどういうことか。

 自分は、なにを信じているのか。誰を信じているのか。

 よくわからないまま、夏弥は帰り支度を始める。鞄を教室に置いてきたから、一回自分のクラスに寄らないといけない。

 まだ七月を少し過ぎたころだから、そんなに暗くない。けれど、校舎の中に入ると人気はなく、こうも広いのに誰もいないと、それだけでガランとしている。

 ――もう誰もいないのか……?

 自分の教室の前に、夏弥は立つ。

 明かりは落ちて、人がいないことを示している。そこに(いた)って、ようやく夏弥は期末試験が近いことを思い出す。熱心な生徒は図書館に行くか、職員室にでも行って先生から問題を引き出そうとしているに違いない。

 納得して、夏弥は教室の扉を開く。

 がらがら、と扉を開いて中に入ると、ぽつん、と人影が目に入った。

「……!水鏡」

 びくん、と背筋が伸び、その生徒が誰だかわかると、夏弥はばくばくいう心臓を押させながら電気を()ける。

「どうしたんだよ。電気も点けないで」

 夏弥の言葉に、しかし水鏡からは、しばらく反応がない。

 数間おいて、ようやく夏弥に気づいて水鏡は顔を赤くする。

「ごめんなさい。すぐ帰ろうとしたんだけど……」

 みんなが帰った後の教室で、水鏡は一人(たたず)んでいた。それだけならまだいいが、電気も点けず、暗い教室に黒い影だけ浮かぶさまは、少し不気味だった。

 水鏡は弁解するように早口に(しゃべ)る。

「料理室に行こうとしたら、途中で先輩に『期末が近いからしばらく部活はお休み』って言われちゃって」

 水鏡はよく料理部に顔を出しているらしい。夏弥が一人暮らしで、毎日自分の弁当を作っていることを話したら、水鏡も意識するようになったようだ。だが、家の事情で料理部には入っていない。正式な部員ではないから、水鏡には細かい連絡が回ってこない。夏弥から見れば、もう正式に料理部に入ればいいのにと思うのだが、それは水鏡の家の事情だから口出しできない。

「戻ったら誰もいなくて。あたしなにしてるんだろう、電気くらい点ければいいのにね」

 顔を赤くしたまま、水鏡は早口で続ける。

「早く帰らないと。帰って、夕飯の支度しなくちゃ。兄さん、戻ってるかもしれないし」

 そこまで口にして、途端、水鏡は黙り込む。

 その意味を理解して、夏弥もなにも言えなかった。

「…………」

 重い、沈黙。

 水鏡の兄、水鏡竜次(りゅうじ)は、夏弥にとっては一つ上の先輩で、水鏡との関係で知り合った。会えば話すていどの仲だった。

 その水鏡竜次は、現在、行方不明ということになっている。

 ――でも、それは表向きのこと。

 その実際を、夏弥は知っている。

 ――水鏡竜次は、死んだ。

 楽園(エデン)争奪戦に巻き込まれて、竜次は殺された――。

 竜次は、神託者の一人だった。夏弥は竜次と戦い、勝った。魔術師の戦いで、敗北は死を意味している。しかし、夏弥は竜次を殺さなかった。

 そのすぐ後、竜次は栖鳳楼の手によって殺された。

 竜次は、丘ノ上高校に結界を張り、中にいた無関係の生徒に魔術を行使した。魔術師の中で、一般人に魔術を使うこと、見られることは禁じられている。その禁を、竜次は破った。楽園(エデン)争奪戦の敗者であり、魔術師としての禁を犯した竜次は、魔術師の中では死に値している。だから、栖鳳楼は竜次を殺した。

 夏弥は、竜次の死を知っている。

 しかし、水鏡はそのことを、まだ知らない。

 いまは行方不明で、そのうち戻ってくると、水鏡は信じている。そんな彼女に、夏弥はなんと声をかけたらいいのか、わからない。

 いや、決まっている。

 ――早く見つかるといいね。

 なんて、偽善(ぎぜん)

 そんな優しい言葉に、なんの意味があるのか。

 事実を知っていながらそれを隠して、笑っていられるなんて、そっちのほうが悪ではないのか。

 だが、夏弥は水鏡に嘘を()いた。

 ――竜次の行方(こと)は知らない、と。

 一度吐いてしまった嘘は、取り返すことができない。結局、その嘘を真実にするために、さらに嘘を吐く。その嘘が破綻(はたん)してしまったら、夏弥は水鏡に何と言うつもりなのか。

 ――できるなら、それはまだ当分先のことであってほしい。

 そう、考えてしまう夏弥は、偽善者でしかない。

 水鏡を楽園(エデン)争奪戦に巻き込まないためとか、無関係な彼女には黙っておきたいからとか、そういう理由ではない。

 夏弥が竜次を見殺しにしたことを知られたくないという、そんな理由だ。

 だからまだ、夏弥は真実を語れない。

 幹也だけでなく、水鏡にも、夏弥は秘密がある。それを、いつか話せる日が来るのか、全くわからない。いまは、夏弥の目の前にある日常が平和なままであってほしいと、そう願うだけだ。

「……ねえ、雪火くん」

 沈黙していた水鏡は、口を開く。

 その声は、か細く、震えている。(うつむ)いていた水鏡は、ゆっくりと夏弥の顔へと目を向ける。その目には、小さな恐怖が見えた。

「今朝も来なかったけど、どうしたの?」

 身構えていた夏弥は、少しだけ力を抜く。

「悪い、言うのが遅れた。しばらく、家には帰らない。知り合いのところに、お世話になることになって。本当に急で、伝えてなくて、ごめん。だから、当分あっちからは学校に行かない」

 夏弥は嘘を吐くのが下手だ。幹也からも指摘されている。こんな説明では、まだ水鏡にはわからないことだらけだ。

「しばらくは、幹也と二人で学校まで行ってよ」

 だから、後で幹也にフォローしてもらう。朝、幹也が訊いたのは、こういうため。そして、夏弥は幹也に話した筋書きしか話さない。これで、夏弥の嘘は少しは上等なものになる。

「うん、わかった」

 納得してくれるなんて、思っていなかった。だが、水鏡があっさり頷いてくれたから、夏弥はホッとした。

「……あの」

 再び、水鏡が口を開く。

 夏弥に、再度緊張が走る。

「理由、訊いちゃダメかな?」

 そう、水鏡が訊ねる。

 夏弥の手の中には、汗が(にじ)んでいる。正直、夏弥にはこういうやり取りは不向きだと思う。怪しまれないようにするには、秘密がばれないようにし、かつ相手を納得させることだ。けれど、夏弥にはそういう技量はない。

「ごめん」

 夏弥は、水鏡の申し出を拒否した。

「どこにいる、とかも?」

「…………ごめん。いまは、無理だ」

 拒否する、その言葉が痛い。(くちびる)がガラスでも()んだように、切れる。流れる血は、そのたびに心臓を締めつける。

 自ら吐いた毒に、自身が傷つく。

 でも、そんな苦しみは、目の前にいる彼女よりは、きっと軽い。

「ごめんなさい。変なこと聞いて」

 笑う、水鏡。その笑顔が、どこか痛々しい。

他人(ひと)には、言いたくないことって、あるものだよね。――だから、いまのことは忘れて」

 それだけ残して、水鏡はすぐに教室を出た。――さようなら、さえ、彼女は忘れていた。

「…………」

 一人、取り残された夏弥。

 自分が点けた明かりが、妙に薄っぺらい。

 水鏡の前で、さも普通のように取り(つくろ)う自分自身。水鏡が暗がりの中で何を見ていたのか、この白い空間の中ではもうわからない。

 兄の竜次が行方不明。いつも一緒に学校に通う雪火夏弥は彼女の前から消え、その理由も教えてはくれない。

 水鏡の心の内に、どれほどの不安があるのか、夏弥には()(はか)るしかできない。そんな行為さえ、軽薄だ。

「なにやってるんだろうな、俺」

 呟いた言葉は、やっぱり自嘲(じちょう)じみてる。

 罪悪感ばかり、胸に広がる。

 しかし、夏弥の決心は揺らがない。揺らいでは、いけない。

 では、決意を貫くことが本当に良いことなのか。そればかりは、さすがにわからない。自分の目的のために他人が傷ついている。それを知っていて、夏弥にはどうすることもできない。

 ――殺さない。死なせない。守る、と。

 その夏弥の決意に、でも傷ついている人がいる。迷惑をかけている友がいる。夏弥の決意だけは、間違っていないとそう断言しよう。でも、傷つく人たちを救えなかったのかという問いに、夏弥は答えを持たない。

 これからどうするか、なんてことはもう決まっている。

 ……でも、それで本当にいいのか、それが気がかり。

 夏弥は鞄を持って、教室を出る。答えは、いまのままでは決して出てこない。それ以上に、夏弥には解決しなければならない問題が残っている。結局、いまの夏弥には先送りにするしか、自分を保つ方法が見出せない。

 校門を出る。自分の家ではなく、栖鳳楼の家に、夏弥は向かう。

「――随分ゆっくりしてたじゃねーか」

 ぴた、と足が止まる。

 背後から、かけられた声。

 それが、自分に対してだと、すぐに理解する。

 夏弥はいままでの暗い考えも忘れて、振り返った。


 校門のすぐ隣の壁に背を預け、男は両手をズボンのポケットにつっこんだまま夏弥を見ている。夏弥の通う、丘ノ上高校の生徒ではない。この辺りでは見かけない学ランを身につけている。男なのに後ろで髪を縛るくらい伸ばしている。男はサングラスをしていたが、顔など見なくても、その雰囲気だけで誰だか夏弥にはわかる。

「おまえ……!」

 夏弥の反応に、ふんと男は気にくわないとばかりに壁から背を離す。

路貴(ろき)、だ。いいかげん、人の名前覚えろ」

 男の名は路貴。

 楽園(エデン)争奪戦の参加者、神託者の一人。つまり、魔術師だ。男の姓を、夏弥は知らない。魔術師にとって、家の名は魔術の全てを語る。ゆえに、路貴は姓を教えない。

 路貴は、もう神託者ではない。彼の刻印は、いま夏弥の手にある。路貴の刻印を引き継ぐことで、夏弥はこの楽園(エデン)争奪戦に参加することになった。

 初対面で、夏弥は路貴に殺されかけた。だから、いまでもこの男のことは快く思っていない。できるなら、会いたくない相手。

「なんの用だ?」

 露骨(ろこつ)に、夏弥は男を睨む。

 サングラスに隠れて、路貴の表情は見えない。だが、路貴が大袈裟(おおげさ)に肩を落とすから、目など見なくても、路貴の感情はわかった。

「折角この俺がテメーなんかに世辞(せじ)をやろーってのに、そんな態度じゃ白けるぜ」

 なんて、当てつけみたいに言うから、夏弥はいっそう反抗的に返す。

「いらない。用がないなら、俺は行く」

 普段の夏弥は、こんなふうに人に刺々(とげとげ)しくあたることはほとんどない。だが、路貴だけは別だ。路貴(こいつ)とは、一生上手くいきそうにない。

「――あの女に勝ったんだろ?血族の女に」

 出しかけた足が、ぴたりと止まる。

 路貴のいう『女』が誰のことか、夏弥にはすぐにぴんときた。

「栖鳳楼のことか」

 振り返って、夏弥は答える。

 路貴の口が喜色(きしょく)(ゆが)む。あまりにも嬉しそうだったから、夏弥には気色が悪い。

「おまえ、あの女と戦う(ヤる)ことになってただろ。そんで、あの女からは刻印がなくなってる。テメーは生きてる」

 夏弥を指差しながら、路貴は言った。口にしてから、ああ、と路貴はわざとらしく空を(あお)ぐ。

「それだけじゃ、テメーが勝ったとは限らねーか。じゃあ、()めてやる必要もないか」

 まどろっこしい、と夏弥は思った。

 そんなことで、路貴が夏弥の前に現れるとは、到底思えない。褒めるなんて、(はな)からそんなつもりはないに決まっている。だから、夏弥は路貴の言葉を独り言として無視した。

 すっ、と。路貴の口元が鋭くなる。

 いままでのふざけていた調子を捨てて、路貴は低く告げる。

「俺の用件はただ一つ。貸してたモン、返しな」

 夏弥に向けて右手を差し出す路貴。

「貸していた、もの……」

 それがなんなのか、夏弥にはすぐにわかった。

 路貴の刻印が夏弥の手に渡り、夏弥が神託者として楽園(エデン)争奪戦に関わるようになってからすぐ、路貴は特訓と称して夏弥にあるモノを渡している。

 夏弥が肌身離さず隠しもっている武器、それが〝奪帰(だっき)〟。

 一見、鉄パイプにしか見えないそれは、周囲の魔力を無制限に吸収する魔具(まぐ)。魔術は、一度使ってしまえばそれきりだ。その一度きりの魔術を物質に固定して、半永久的に使えるようにしたものが、魔具と呼ばれるもの。

 夏弥は、その魔具の名を知らない。その特性も、直接路貴から聞いていない。けれど、特訓や戦いの中で、夏弥はそれがただの鉄パイプではないことを感覚として()っている。

 そして、これが夏弥にとって唯一、楽園(エデン)争奪戦で戦い抜くための武器だということも――。

 路貴は口の()を歪める。

「おいおい。人から借りたモンはちゃんと返さないとだろ。それが、テメーの正義ってやつじゃねーのか?」

 夏弥は、別に正義の味方というわけではない。

 けれど、路貴にはそう見えるのだろう。

 魔術師同士の戦いは、互いの命を賭ける。家の名前を背負っている以上、簡単には負けられない。敗北は、その瞬間に死を意味している。

 そんな魔術師の考え方を、しかし魔術師としての教育を受けていない夏弥は認められない。人が傷つくところは、見たくない。誰か(ひと)他人(ひと)を殺すなんて、そんなのは嫌だ。

 だから、夏弥は誰も殺さないと決めた。魔術師同士の戦いの中にあって、夏弥はそう決意した。

 そんな夏弥は、しかし魔術師として生きている路貴からすれば、社会という平和な枠にとらわれた、甘い人間なのだ。

 路貴はなお苛立(いらだ)ったように続ける。

「あれを渡したのは、おまえが少しはマシなってもらうためだ。カスみてーなおまえがカスみてーに負けたら、俺がカスみてーじゃねーか」

 路貴が刻印を失ったのは、栖鳳楼との戦いに負けたからだ。

 その刻印は、本来なら栖鳳楼のものと一つになるはずだった。しかし、刻印は勝者である栖鳳楼ではなく、敗者である路貴でもなく、ただ二人の戦いを傍観(ぼうかん)していただけの夏弥を選んだ。

 刻印は、それまで魔術とは縁のなかった、夏弥を選んだ。それは楽園(エデン)が、栖鳳楼よりも、路貴よりも、夏弥が世界に到達するに相応しいと認めたかのように――。

 一瞬、路貴は口元を緩める。

「ま、おまえはよくやってくれたよ。あの女から刻印が落ちるなんて思ってもいなかったからな。だから、おまえの役目はここまでだ。だから、返しな」

 さらに、路貴は腕を突き出す。

 路貴には、強引に夏弥から奪帰を奪うこともできただろう。だが、路貴はそれをしなかった。路貴はさらに言葉を続ける。

「まさか、最後まで持っていられると思ってたのか?誰も殺さないなんて偉そーなこと言っておいて、人の手借りないとそれもできねーのか?はっ。都合のいい偽善だな」

 その言葉に、さすがの夏弥もかちんときた。

 夏弥は、この魔術師同士の戦い、楽園(エデン)争奪戦を戦い抜くと、決めた。巻き込まれたから、ではない。自分の意思として、雪火夏弥の決意として、そう決めた。魔術師としてではなく、あくまで雪火夏弥という個人の意思だ。だから、夏弥は魔術師としてこの戦いに挑むわけではない。魔術師としての考え方や常識なんてものを、夏弥はこの戦いに持ち込まない。

 ――誰も死なせない。

 ――これ以上、人が傷つくなんて、見たくない。

 だから夏弥はこの戦いで勝ち続けなければいけない。誰も死なせないためには、夏弥が勝って、その敗者を生かすしか、方法がない。どんなに未熟でも、魔術師としての腕はなくても、夏弥はこの戦いに勝ち残らないといけない。

 その決意は、本物だ。――偽物とは、呼ばせない。

「……わかったよ」

 応えて、夏弥は隠していた鉄パイプを取り出す。触れるだけで、これが普通の代物ではないと、理解できる。魔手でも伸びているように、それは貪欲(どんよく)に夏弥の魔力を()らう。

「返す――」

 差し出した、夏弥の武器。受け取る、それは路貴の魔具。

 サングラスの奥で、路貴は愉快(ゆかい)そうに笑う。

「これでテメーに用はない。勝ち残るなり、無様に死ぬなり、好きにしな」

 夏弥の隣を、路貴が無遠慮に通り過ぎる。紫煙(しえん)鼻孔(びこう)をつく。同時に、魔術の気配を感じる。煙草(たばこ)を吸っていることを他人(ひと)に悟られないように、路貴は煙の上に魔術をかけている。

 そう、夏弥は理解した。

 そして、理解できる以上、夏弥は魔術師だ。

「――俺は、死なない」

 視線を落として、夏弥は呟く。誰に言っているわけではない。それは、自身への決意。

「――誰も、死なせない」

 そこに、もう路貴の姿はない。いや、夏弥はそんなこと、気づいてもいない。ただ、自分の決意を口にすることで精一杯。辺りは、ゆっくりと闇に近づいていた。


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