01 落ちこぼれ side:日下部灯
日下部灯の朝は、遅い。
鳴り響く電子音は、微睡に落ちていた意識を強制的に現世へと引っ張ってくる。
寝ぼけ眼のまま自らの身体の掛かっている布団を蹴散らし、階段を降りる。千鳥足で窓の方へと向かいオレンジチェックのカーテンに手を掛ける。
隙間から零れる光は目に痛く、僅かながらに熱を帯びている。開けたくないという誘惑が襲ってくるが、それを理性で押し殺し、眉間に眉を寄せながら勢いよくカーテンを開いて朝日を一身に浴びる。
「……ぅぁ……」
圧縮されたため息が口から洩れる。光の刺激を受けた瞼が徐々に上へと昇り、眠気に覆われた思考を正常な形にしてくれる。完全に目覚めたら、今度はしっかりとした足取りで二段ベッドの下段に寝ているルームメイトを起こしに掛かる。
「ユキちゃーん、六時半ですよー……。おきーてー!」
布団の上から身体を揺すり、声を掛ける。灯自身も寝起き故に、掛ける声はあまり大きく無い。それに、蓑虫の如く布団に包まっているこの人物は、寝起き自体は悪くないのでこれくらいの声掛けで十分なのだ。
「……ぅー」
カエルが押しつぶされながら出したような声が、灯の耳に届く。それを合図として、怠惰的に動き出した布団を引っぺがす。寒さを通り越して熱さを感じることもある五月になれど、いきなり布団を剥がされるとなると違和感がその身を襲うのだ。
「ユキちゃーん。今起きないと、ユキちゃんの大好物の竜田揚げおかわりできなくなっちゃうよー?」
「起きたー! たった今起きた! おはようございます! Halo world! Good morning! 灯」
「おはよう」
食べ物に釣られて起きるところを見ると、普段大人っぽく見える雪音もまだ子供であることを認識させられて苦笑が漏れる。
テンションの高い雪音がベッドメイキングをしている間に、灯は備え付けの洗面台で顔を洗い、歯を磨き終わるとパジャマから制服へと着替える。
校章が入った白シャツに、明るい茶色チェックが印象的なワンピースタイプのスカートを重ねる。シャツに栄える赤いネクタイを締めて、上から黒いラインが入ったクリーム色のベストを被る。
足元を固めるのは、生地の薄い黒いタイツ。二人で共有している全身鏡の前でくるりと体を回転させて可笑しなところが無い事を確認すると、黒に近い紺色のジャケットに袖を通す。
不意に、後ろから羽交い絞めされるような抱擁を受けた。
「うん、今日も可愛いよ灯!」
「ひょわ!」
首を捻り、頭上にある雪音を見やる。自分の首筋に当たる雪音の胸は弾力性があり、背中からトランポリンにダイブしたような感覚が襲ってくる。首に回された腕から察するに、あとはジャケットを羽織るだけで身支度を終えるところだろうか。
「もー! びっくりするじゃんか!」
「えへへ……ごめんごめんって。灯の後ろ姿見ると、どうしても抱きしめたくなるのよねー。まあ、後姿じゃなくても、可愛い灯を見かけるごとに抱き締めるんですけどね!」
気配無く後ろから抱き付いてきた雪音に対して文句の一つでも言おうとしたが、視線の先にある自分の机。その上にある小さな時計が、既に七時近くを刺していたのだ。
「はいはい。それはそうと、もうすぐ七時になっちゃうから早く準備してよ?」
「はーい!」
あからさまなお世辞であることは灯自身も十分に承知しているが、それを雪音に言うとそうではないと力強い否定と共に、一時間以上にも渡る力説が待っているのだ。休日なら兎も角、平日の時間が無い朝にそれを聞いている暇など無い。
背後からの抱き締めを抜け、己の机へと向かう。予め準備をしておいたスクールバッグを手にし、その近くに置きっぱなしになっているメモ帳をジャケットのポケットにしまう。次いで充電していたスマホを持ち、メモ帳が入っている方とは逆のポケットに入れる。
そのまま入口へと移動し、下駄箱の中から通学用のローファーを取り出して履く。たったこれだけの動作だが、身支度にあまり時間を掛けない雪音が自分の鞄と手に取って灯の方へと向かうには十分だった。
「忘れ物ないよね?」
「だいじょぶ!」
屈託ない笑顔は灯に一抹の不安を与えるが、今日は特別な事柄など一切無かった事を思いだしそれを杞憂だと押しのける。
それに雪音の事だ。いざとなったら、一番仲の良い精霊に御使いさせるのだろうと容易に推測出来た。仮にも高貴な存在を御使いにやるのはどうかと何時も思うが、それに口出しが出来るほど灯は精霊の事に詳しくは無い。
溜息は漏らさない。部屋から出て備え付けてあるカードリーダーに学生証をスライドさせてロックを掛ける。
モニターにロックの文字が浮かんだことを確認すると、エレベーターの方へと少し歩を進めていた雪音の背中を追いに行った。
●●
一階を表示してエレベーターが止まる。鋼鉄のドアが開かれると、腹の虫が鳴き声を上げそうな食欲を刺激するいい匂いが漂って来た。
「今日のメニューは、竜田揚げ!」
匂いに誘われ雪音は足早くエレベーターを降りていく。灯もそれに続くように歩を進め、食券販売機が並んでいる場所へと向かう。
種子田高校に属する全寮生が集うこの食堂は、各寮の寮母を始めとして毎日二十人体制で生徒たちの食事を作ってくれる。
用意される食事の量は、デザート付き定食が三種に単品小鉢が六種類のみとやや少なめだが、ご飯のおかわり自由と生徒数の多さからこれだけと決められている。品数が少なくても、それに文句を言う生徒はそう多くはいない。
何故なら、生徒たちはみな兵糧の大切さを知っているのだ。種子田高校に通う生徒たちはライトノベル系非日常を経験した人間であり、その大半が命のやり取りを行う戦いに身を投じていた。多くの者が「食べたい物を好きな時に」という現代日本では当たり前の事柄を容易に行えなかった時期があった。
故に、何もしなくても出来たての美味しいご飯が提供される。学食だからとか、仕事だからとかという理由があったとしても、ご飯が食べられるなら種類の少なさは我慢が出来るという結論に達した。
「竜田は決まったけど、おかずどうしよう……!」
三種類の定食サンプルと五つの単品小鉢が展示されているショウケースの前で悶々と悩みぬいている雪音を放っておいて、灯は左程迷わずに食券販売機へと向かい食券販売機に自分の学生証をスライドさせる。
種子田高校では毎年支払う学費の中に食事代が含まれているため、食堂で食事をする際は金銭を要求しない。代わりに、種子田高校の一員である学生証の認証を有するという少し変わったシステムだ。
食券販売機にランプが付いたことを確認すると、灯は迷わず豚しゃぶ定食とほうれん草のおひたしのパネルをタッチしてお会計のボタンを押す。
小銭の音と共に食券が吐き出された。それを手に取り、盆と茶碗、お椀が置いてあるカウンターへと向かう。幸いなことに人は誰もおらず、すぐさまご飯を盛る。
適量に盛れた茶碗を盆に置き、椀を手にして寸胴鍋の蓋を開ける。蓋を開けると同時に漂ってくる味噌の匂いに胸打たれながら、少しだけ背伸びをして鍋の中をのぞき込む。
「あ、今日はワカメとお豆腐か……」
大量のワカメと角切りされた豆腐が浮かび、細かく刻まれた万能ネギがアクセントになった一般的な味噌汁。――灯の一番好きな味噌汁の組み合わせだ。
少しだけ多めに椀に盛って、おかずの受け取りカウンターへと足を進める。
「おはようございます。F-024番、お願いします」
「はいおはよう! Fの24番っと……。はい、豚しゃぶ定食とほうれん草のおひたし!」
元気の良い挨拶と一緒にプラスチック製の安っぽい音を立てながら、自分の盆に載せられる。少しの微笑を浮かべながら注文品を受け取り、空いている席を探すため周りを見渡す。
「……あった!」
見つけたのは外への出入り口に近い日当たりの良い席。窓から差し込む朝の光のお蔭でまるで一枚の絵画のような風景に見える。普段では決して座る事が出来ないその場所が空いている事に少しの嬉しさを感じながら、席を目指す。
途中にある給水器で水を汲んでおく。朝食にそこまで時間をかけるつもりは毛頭無いが、雪音のお喋りに付き合っていたら確実に一時間はこの場所に留まるはずだ。席に着き箸を手にしてご飯だと意気込んでいたら、ようと頭上から声を掛けられた。
聞き覚えのある声に、膳に向っていた視線を上げる。種子田高校の男子制服を着用した襟足の長い生徒――坂上怜覇は、寝ぼけ眼を必死に開けながら灯と目を合わせた。
「あ、おはよう坂上くん。今からごはん?」
「そ。ここいい?」
先程見た限りではここ以外に空いている席は無かった。故に。了承の意味を込めて小さく首を垂れる。それを受け取った坂上は灯の前の席に腰を下ろす。坂上の持っている盆の上には、灯が食すには多すぎる量のご飯とおかずが盛られていた。
「いただきます」
二人は、ほぼ同時に箸と茶碗を手に取って口を開いた。
●●
種子田高校で交わされる生徒間同士の会話は、大概普通じゃない。
「昨日ヤバかった。マジでヤバかった」
「なにしたし」
「つい出来心で風の精霊たちに魔力貸してあげたら、竜巻起こった」
「あれお前か!」
灯の耳に聞こえてきたのは、そんな普通じゃない会話だった。あまりの衝撃に肩を震わせ、箸で摘んでいた豆腐を味噌汁の中に落とした。坂上に至っては我関与せずの精神を貫き、黙々と箸を進めている。
「あの竜巻のせいで投了寸前まで追いつめていた『策士』に逃げられたじゃねーか!」
「え、マジで? すげぇじゃん! 『策士』が追い詰められるなんて『魔王』以来じゃね?」
「あーそうだよ! その『策士』を投了寸前にまで追い込めたんだよ! あと四手で勝てたんだよ! それなのに、お前の起こした竜巻で盤がひっくり返されたんだよ! 全部くるくるパーのおじゃんにされたんだ!」
「あー……メンゴ!」
「メンゴで済むかごらああああああああああああ!!」
朝の食堂であるため乱闘騒ぎになることは無い。それでも、居心地の悪さ故に肩を竦めながら箸を進めていると、喧騒の合間を縫って雪音が二人の方へとやって来た。
「あー! 怜覇ずるーい! なんで先に灯とご飯食べてんのよー!」
「お前が遅いだけ」
「ユキちゃん悩んでたみたいだから、先に席取っておこうと思って」
「あ、そうなの? ありがとねー!」
相変わらず切り替えが早いと思う。雪音は灯の隣に座り食膳のあいさつを済ませると、猛烈な勢いでご飯を食べ進めていく。
「オメーは相変わらずよー食うなー」
「朝はやっぱりしっかり取らないとお昼までもたないもの! それに、今日は選択体育と魔法実技があるんだよ? ぜってーもたないって!」
「ああ、そういえば今日だっけ……」
「龍田先生の猛烈な扱きの後に、魔力を馬鹿食いしてくる魔法実技。その後は子守唄の世界史とか地獄だよこれぇ……」
「――よう、ここ空いてるか?」
会話に割り込んできたのは一つの声。三人が一斉に声の主の方向に視線を向けると、そこには小鉢と水のみを盆に載せた少年――品木来栖がそこに居た。
「空いてるよー」
「失礼する」
品木を加えた雪音と坂上は、会話にのめり込みながら食事を続けていく。
「――……」
灯は、この瞬間が少しだけ嫌いだ。
三人と一緒に居ることはとても楽しい。だけど時折感じる疎外感と胸の痛みは、自分がなんの力も持っていない落ちこぼれであることを再確認させられるからだ。
一緒に居る事で劣等感を感じる訳では無いが、この三人の中に自分の居場所が無いのではと感じてしまうのだ。三人が能力で人を推し量る人種では無い事は知っているが、それでもという自らの浅ましさを拭う事が出来ないのだ。
――それは、他のクラスメイトと一緒に居る時も大概変わらない。
(……! ううん、こんな事考えちゃダメ)
湧き上がる黒い感情を振り払う。目を瞑り深呼吸を一つ。感情をリセットして、思考が切り替わったことを再認識してから、そっと目を開ける。
「それはさぁ……」
笑顔と一緒に、三人の会話に入る。盛り上がる雪音、突っ込む品木、茶化す坂上。変わらない当たり前。――こうして、灯の毎日は巡り続けていく。
NEXT.
竜巻を起こした少年 男 武器:杖 属性:奔放 位置:後方
魔法に関しては随一の実力と知識を持つ少年。悪戯大好き。台風の目。
『策士』を追い詰めた少年 男 武器:なし 属性:善
勝てなかった少年。竜巻を起こした少年とは同じクラスで、彼が起こす騒ぎに巻き込まれる苦労人。十円ハゲの恐れアリ。