番外編01・ベートーヴェンとクリームパスタ その1
ベートーヴェンとクリームパスタ
それは一年前の出来事だった。
私、萩茉莉華はコンサートホールで軽く退屈していた。
好みじゃない解釈のベートーヴェンの交響曲第五番「運命」がホールの天井に舞い上がっていく。
少し上品過ぎる。
音の端は軽やかすぎで、盛り上がりと個性に欠ける。
せっかくの運命なのだから、もう少しベートーヴェンの苦悩とかを表現してもいいのじゃないか。
もっと勿体ぶって。ああそこはもうちょっと強調して欲しい。
演奏しているのは私が聞いたことがない楽団で、指揮者も知らない人だった。
まあ、私が知らないと言っても、私が知っているのは地元の交響楽団の桂冠指揮者と首席指揮者。それとメディアの露出が多い指揮者や、偉大なるカラヤン程度しか知らない。
だから私が知らないだけで実は凄い指揮者なのかも知れない。
少なくとも、こんなに偉そうなことを言ってる私よりは音楽に対する知識も経験も情熱も遥かに上だろう。
まあ、当たり前のことだが。
第一楽章が終わった。
無知な観客が拍手をする。
指揮者は困ったように礼をし、すぐに第二楽章に入った。
────そう、私達は青蘭学院高校の芸術鑑賞で近くのコンサートホールを貸しきっている。
青蘭学院高校は元はお嬢様学校だったらしいが、今ではその面影さえない。
クラシックのコンサートでは、最終楽章が終わって指揮者の腕が下がるまで、拍手をしてはいけない。
先生もどうして注意しなかったのだろう?
「演奏が終わったら拍手をしましょう」じゃないだろう。
そこは、ちゃんと拍手するタイミングを教えなくてはないと。
まったく、青蘭学院高校が来るにはハードルが高すぎたようだ。
今日、ここで芸術鑑賞する意味などないのではないだろうか。
──もっとも、そのお陰で私は一銭も払うことなく、好みではないとはいえコンサートを聴けるのだから、そういう意味では少しばかり意義はあるのかも知れない。
でもやっぱり、芸術鑑賞はクラシックのコンサートではなく、もっと話か分かりやすいミュージカルのほうがいいんじゃないか。
なんて思ってみる。
その証拠に寝ている人がちらほらと。
クラシックのコンサートと言っても、オーケストラのコンサートだったらかなりの大音量である。
よほど興味がないと寝れないだろう。
楽団の演奏が壊滅的すぎて、彼らの高尚なる音楽趣味では聴くに絶えないという可能性を除けばの話だが。
となりの人をちらりと見てみた。
どうせこいつも寝ているのだろうと。
となりの人を見下して、自分の思春期特有の訳のわからないの鬱屈を晴らそうと思ったのだ。
この頃の私は、人を見下すことで自分を慰めるる、という今思い返すと相当イタい趣味の持ち主だった。
けれど、となりの人は寝てはなかった。
ついでに第二楽章の終わりにも、きちんと拍手のタイミングをわきまえて手は膝の上にあった。
私の自分勝手な鬱屈を隣人に理不尽に、そして秘密裏に押し付けることは不発に終わった。
けれど、この隣人への興味が勝った。
まだ青嵐学院にもこんな人がいたなんて────。
✠ ✣ ✤ ✥ ✠ ✣ ✤ ✥
コンサートが終わった。
先生のありきたりな、自己陶酔の匂いが漂うお説教が終わると、生徒達は待ってましたとばかり蜘蛛の子のように散り散りになる。
恐らく今から友達どうしで、街に出かけるのだろう。
ホールから外に出ると、ビル郡が聳えたっている。
このホールはビジネス街の真ん中にあるのだ。
けれどもコンクリートの群れの中にも、標準的な住宅街よりずっと多い緑がある。
長く続く涼銀杏並木、よく手入れされた可愛らしい花壇たち。
そこにいるだけで心洗われる。
街中の、人工のオアシスに浸っていると例の隣人────コンサートが終わったから元隣人だろうか。
とにかく元隣人の背中が見えた。
意外と人は、人を背中だけで見分けることが出来るようだ。
元隣人を見ると、興味心の猫が、私を引っ掻いてくる。
無視しようとしたのだが、結局好奇心に負けてしまった。
私は好奇心に殺されてしまうのか、それとも───。
結局、猫に屈した私は、元隣人に思いきって話しかけてみた、が────。
言葉が喉に引っ掛って、躊躇ってしまった。
もし無視されてしまったら。
もし困ったように苦笑されて、遠回しに拒絶されたら。
そんな不安が枷になる。
でも、話しかけると決めたのだ。
たまに、かつてのお嬢様学校時代の面影を残した生徒がいる。
そのお嬢様学校時代の伝統をかわれて、教養あるお嬢様がここ、青嵐学院に送り込まれる人がいる。
例えばこの私のように。
────私は、本当は違う学校に行きたかった。
家から少し離れた郊外にある、現役のお嬢様学校だ。
けれど、母親や親戚の叔母様がたがみんな青嵐学院出身だということで、無理矢理入学させられた。
もしそうなら、彼女も本当はお嬢様学校に行きたかった人なのかもしれない。
根拠ならあった。
コンサート慣れしている人は比較的に裕福な家庭で育っていることが多い。
私は同じ境遇の人を見つけたかった。
だから私は勇気を出した。
「ねえ」
私が呼び掛けると、彼女は長い黒髪を、雨の気配が薫る六月の風にたなびかせた。
そのスレンダーな肢体をしなやかに操り、私のほうに振り向いた。
彼女の容姿が明らかになる。
「────っ」
不覚にも思わず見とれてしまった。
ホールで見た時も、暗くてわかりにくかったが整った顔立ちだとはなんとなくわかった。
でもこうして外でみると、彼女の容姿がよくわかった。
絹のような黒髪。
鼻は彫刻作品のように整っている。
肌はまるで血の通っていない人形のように白いが、人間である証拠に光を湛えていた。
「ねえ、もしかしてあなたもクラシックとか好きなの?」
思いきって聞いてみると、質問は質問で返された。
「どうしてそう思ったの?」
「楽章ごとにしか拍手してなかったじゃん。ある程度コンサートについて知ってないと、毎回しちゃうから」
「へぇ。そんなことより──」
彼女は一度話を止め、私の瞳を真っ直ぐに見つめてくる。
彼女の瞳に私の瞳が映る。
「どうして私にそんなことを聞くの?」
「────っ」
私は言葉に詰まった。
彼女に話かけたのは、あやふやで刹那的な衝動にかられたからだ。
それを説明することは、例えばなぜショパンの幻想即興曲を聴いて感動するのか、ということを説明するぐらい難しい。
もっとも、音楽評論家あたりなら、「繊細なショパンの魂がピアニッシモのトリルに宿り、我々に囁きかけてくるのだ」とでも言うのかもしれないが、私には残念ながらとてもそんな文才はない。
しかし彼女はじっと私の言葉を待っている。
私は何とかしてその問いに答えなければならない。
「生きた化石と話したかったから、かな」
「ぷっ」
彼女は可愛らしく吹き出した。
「ちょ、最高っ。駄目だ涙が出てきた」
いままでの印象からは程遠い笑いかただった。
ぷ、ぷぷぷ、と悪戯を成功させた少年のように笑っている。
「ねぇ、人をそこまで笑うなんて失礼じゃない?」
いや、花も恥じらう乙女に対して化石とか言う私が言える話ではない気もするけど。
しかし不思議になことに彼女にこんなに笑われても不快感はなかった。
「ごめんね。ぷっ、だめ止まらない────」
彼女はちょっと失礼っと言って深呼吸をした。
深呼吸で笑いが治まったのだろう、彼女は私に問いかけた。
「ええとね、私、大隅飛鳥っていうの。君は?」
「茉莉華。萩茉莉華」
6時を知らせるチャイムが摩天楼に響いた。
シューベルトのアヴェマリアのメロディだ。
私達はそんな中、 九月の、まだ残暑が残る季節に出会った────。
いかがでしたでしょうか?
まさかの茉莉華と飛鳥の過去編です。
前話までと比べて、二人ともかなり性格に違いがあるように感じられるかも知れません。
が、まあそこは続きに乞うご期待ということで。
あと1、2回かけて茉莉華と飛鳥の過去編を続けようと思います。