CO どや。これがインフレや。
「――っ!」
頭上から迫ってきたそれを、かろうじて避ける。
奇跡、と言っていいだろう。
さらに、黒い疾風が俺に襲いかかってくる。
それを避けて、俺は攻撃してきたものの正体を知った。
獣。
巨大な、黒い獣だ。
「なんだ……こいつ」
明らかに異質。
この大陸には、俺以外の生命はない。
――それは今でも変わらない。
目の前にこの獣がいるのに、俺は何も感じ取れない。
獣が低い唸り声をあげる。
それだけで、地面がひび割れた。
本能的に、俺は目の前に白い常闇の盾を作り出していた。
そこに……ひびが入った。
――は?
引き裂かれる。
獣の爪が、白い常闇を紙かなにかのようにあっさりと破った。
「嘘だろ……!?」
触れれば何もかもを食らう常闇だぞ!?
それを、引き裂く?
有り得ない。
獣はそのまま、俺に牙を剥く。
「――っ!」
恐怖。
怖い、と。
そう感じた。
逃げだしたい。
こんな得体の知れないものを、どうしろっていうんだ。
足が竦みそうになる。
でも……耐えた。
自分の気持ちを、静かな水面のように落ち着かせる。
ここで逃げるわけにはいかない。
これは危険だ。
世界平和を目指す身として、見逃すわけにはいかない。絶対に。
それに……それ以前に、
「……ここをこんな風にしたのは、お前か?」
獣を睨みつける。
「この大陸の命を、どうした?」
答えはない。
ああ、俺だってそんなものを期待してたわけじゃない。
整理みたいなもの。
この大陸に命は一つもない。
そこに得体の知れない獣がいる。
ならば、答えは一つだろう。
この獣が、この惨状を生み出した。
だったらさ――。
地面を蹴る。
全身から白い常闇が滲みだす。
「お前は、許さない!」
叩きつける。
獣を、白い常闇が覆う。
咆哮。
白い常闇が内側から弾け飛んだ。
……そんなこと、出来るわけないのに。
頭の隅にそんな思考がよぎる。
でも今はそんなことより、この獣をどうにかすることを考えなきゃならない。
白い常闇が効かない?
それがどうした。
そんなの、戦いを止める理由になんてなりやしない。
白い常闇が効かないなら……、
「直になら、どうだ!」
獣の鼻っ面に、拳を叩き込む。
「な――!」
だが、まるで霞を殴りつけたかのような感触がして、俺は獣の身体をすり抜けた。
「なん、だ……?」
振り返ると、そこにはもう獣の姿はなかった。
背中に衝撃。
「づ、ぐ……っ!?」
身体が前に吹き飛ぶ。
背中が、抉られた。
いつのまにか獣が俺の背後に移動し、爪を振るったのだ。
……しかも、これじゃあ背中を抉られたなんてもんじゃない。
脊髄やら内臓やらが、なくなったようだ。
頭の中で、激しい電火が散る。
痛い。
それ以上に、熱くて、冷たい。
「っ、ぉ、ぉおお!」
傷口が高速で再生していく。
だがそれより速く、獣の第二撃があった。
獣の顎が、俺の身体を捉える。
「や、ば……!」
避けられない。
がきん、と。
牙と牙が打ち合う音。
肉や血管や、いろいろなものが裂ける感覚。
――下半身を、もっていかれた。
「っ……ぁ!」
点滅する意識の中、俺はありったけの魔術を獣へと叩き込む。
炎が、氷が、風が、雷が――様々な魔術を放つ。
だがそれらは、獣に触れた途端に霧散した。
なんだ、これは……。
目の前の存在に、絶望というものを覚える。
勝てっこない。
俺の攻撃が、なにも効かないなんて。それなのに、向こうの攻撃は俺のこの身体をあっさりと傷つける。
なんなんだ、これは。
もしかしたらこれは、夢なんじゃないか?
そんな、逃避的な思いが浮かんだ。
……でも、そんなわけがない。
この心臓を握り潰されるかのような恐怖は、紛れもない本物だ。
獣の眼が歪む。
嘲笑うかのように。
俺を切り裂こうとしている。
引き裂こうとしている。
食い千切ろうとしている。
そしてそれは、俺だけではない。
この世界を、この獣は蹂躙しようとしている。
「……怖い」
口から、その言葉が零れた。
怖い。
本当に、心の底から恐ろしい。
……俺が、殺されることがではない。
この世界を、こんな獣に蹂躙されることを考えると、身体の震えがとまらない。
ふざけるな。
この世界には、沢山の人がいるんだ。
俺の大切な存在だっている。
ウィヌスがいる
メルがいる。
イリアがいる。
ヘイがいる。
数え切れないほどの人々の顔が、瞼の裏に鮮明に浮かんだ。
地面に転がった俺の身体に、獣の爪がのしかかる。
このまま、押し潰すつもりなのだろうか。
やめろ。
やめろよ。
好きになんて、させない。
俺だって、俺だけの命じゃない。
俺の内には、世界が広がっている。
今までこの力が喰らって来た全てが内包された世界。
それを、砕くつもりか?
命がある。
願いがある。
想いがある。
未来がある。
その全てを、こんな醜い獣一匹にどうこうされて、堪るか!
――そう。我は世界。
鼓動。
身の内から、鼓動を感じた。
俺だけのものじゃない。
――そう。我は喰らう者。
幾重にも重なる。
それはなんなのか。
中に、四つの一際強い鼓動があった。
――原初すらも喰らった罪深いこの身に願わせてくれ。
これは……まさか。
鼓動から感じるのは、気配。
どういうことなんだ。
――些細な平和が欲しい。全ての人が得られる平和を。
一つは、気高く。
王者のような貫禄。
まるで、俺を激励しているかのよう。
――おこがましいと言わないでくれ。
一つは、軽快に。
無邪気な笑い声。
まるで、俺の背中を悪戯っぽく押すかのよう。
――この願いは決して穢れさせはしないから。
一つは、鋭利に。
挑発的な眼光。
まるで、だらしない俺を鼻で笑うかのよう。
――永劫に挫けはしない。
一つは、悠然と。
どこまでも不敵。
まるで、俺のことを影のように見守ってくれるかのよう。
――果ての時まで、放さないでいよう。
思わず、笑みがこぼれた。
……はは。
なんなんだよ。
そんな期待してくれるなんて……俺はどうしようもなく情けないやつだぞ?
いいのかよ。そんなのに期待しちまって。
後悔しても知らないからな。
まあ、でもさ。
お前達が俺の事を信じてくれるって言うなら、ちょっとだけ。
俺も、俺の事を……。
借りものだったり、奪ったものだったりする力ばかり使ってる俺だけど。
そういうのじゃなくてさ。
俺と言う『俺』を――。
……そっか。
常闇というものを、今更にきちんと理解する。
あれは原初の神が、自らの内に全てを呑みこみ一つにすることこそが理想であると、そう『自分』を信じ、得た力。
今、俺は俺自身の扉を開こうとしている。
新しい力。
正直、欲しくなんてない。
もう十分すぎるくらいだ。
これ以上の力なんて……。
でも、そうも言っていられない状況。
だから、手を伸ばす。
――償わせてくれ、この身に。
扉を開ける。
――――――――――――――――《顕現》――――――――――――――――
「いつまで、乗っかってるんだ」
俺を踏みつけていた獣の足が消し飛ぶ。
俺はそのまま、腕を振るった。
距離という概念を超えて、俺の拳が獣の脇腹を捉え、その巨躯を吹き飛ばす。
立ちあがって、自分の身体を見る。
身体中から薄らと白い光が零れ、それは背中から巨大な尾のように伸びていた。
尾が地面を叩く。
轟音がして、眩い白い柱が生まれ、空を貫く。
獣が身構えた。
俺をはっきりと、敵と認識したのだろうか。
……そんなこと、どうでもいい。
俺は前に飛び出した。
世界が色を失う。
光が俺についてこれないでいた。
そのまま、獣に向かって拳を振るう。
獣の身体の半分が消し飛んだ。
それでも獣は、俺に爪を振るってくる。
片手でその爪を受け止めて、握りつぶした。
咆哮が俺の身体を打ちつける。
「そんなもの、もう……効くかっ!」
尾を振るう。
白い閃光が走った。
一瞬の閃き。
獣が……消滅した。
まるで溶けるように、光の中に獣はいなくなる。
……。
「終わった、のか……?」
呟く。
「いいえ、まだ終わりではないわ」
返答があった。
「っ!?」
いつの間にか、目の前に二つの姿が浮かんでいた。
片や、黒いドレスを着た、六枚の白い翼をもった銀髪の女。
片や、黒いコートを着た、面倒くさそうな顔をした男
瞬時に理解する。
この二人は、今の俺と同じ存在だと。
「獣は、まだいる。まだ増える。今はよくても、またいずれ、この世界は獣に襲われる」
「なんだって!?」
その言葉に耳を疑った。
あの獣がまだいて、まだ増える。
それって……。
「ライスケ」
俺の名前を、女が呼ぶ。
「私はエリス。こっちは、臣護」
女――エリスが笑んで、俺に手を差し出してくる。
「貴方が目指す世界平和。少し、手を広げてやってみない?」