何かが変わる予感
バスケットボールは、5人で戦うスポーツだ。
声で繋ぐスポーツだと言ってもいい。
互いの位置を知らせ、次の動きを伝え、1つのボールを5人で繋いでいく。
パスを出すときも、受けるときも、誰かが走り出すときも、コートにはいつだって声が飛び交っている。コート上には、たくさんの音がある。
でも、僕には何も聞こえない。僕の耳には何も届かない。
シューズが擦れる音も、ドリブルが床を叩く音も、僕を呼ぶ仲間の声も
−−もう二度と聞こえることはない。
それでも・‥・。
それでも、ぼくは。
仲間の声が聞こえなくても、笛の音が聞こえなくても、応援の歓声が聞こえなくても、バスケができると信じたい。代わりに何かを失うことになったとしても。
それでも僕は−−もう一度バスケがしたいんだ。
*
築島旭陽は、部活の帰り道、オレンジ色に染まりかけたアスファルトの上を歩いていた。
「なんつーか−−物足りねえなぁ・‥・」
俺が通う高校のバスケ部は、正直、強くも弱くもない。漫画やアニメの舞台になるような弱小校でもなければ、全国大会を目指すような強豪校でもない。どん底から這い上がるような劇的な物語もなければ、プレッシャーに押し潰されそうになりながら、それでも食らいつくような葛藤もない。
その年のメンバー、対戦相手の実力、組み合わせ、ほんの少しの運と努力。いくつもの偶然が重なって、勝ち上がる年もあれば、あと一歩というところで負ける年もある。
きっと全国の高校生の大半が経験するのは、“普通の”部活動だ。大きな波風も立たない“普通の”青春。多分、みんな、そのリアルと理想の間で、小さなため息をこぼしながら生きている。
「本気」になるのがどこか恥ずかしくて、でも心の底では、息が止まるほどの熱さとか、心臓の奥がジリジリと焦げるような瞬間を、ずっと求めている。
「‥‥ま、そんな劇的なこと、起きるわけねぇよな」
自嘲気味に笑い、諦めを乗せて歩みを進める。
俺の高校生活もバスケ生活も、いつも通りこのまま続いていくと思っていた。そこそこ真剣にやって、そこそこ汗を流して、仲間たちとバカ話をして笑う。居心地はいいし、毎日それなりに楽しい。
それでいいと思っていた。
今日、この瞬間。−−お前のプレーを見るまでは。
人生というものは、本当に何が起こるか分からない。ほんの1秒前まで感じていた退屈な日常が、たった一瞬で、全く別の世界へと塗り替えられてしまうのだから。
家路を急ぐ俺は、なんとなく、本当に何気なく、通りがかりの公園へ視線を向けた。誰もいないと思っていたコートに、人影が見えた。
パチリ、と一度だけ瞬きする。
次の瞬間、突風がコートを掠め、爆発したような桜嵐が吹き荒れた。猛烈に舞い散るピンクのカーテンの向こう側。激しい花びらの渦を従えるようにして、一人の少年が宙へ跳ね上がっていた。
しなやかに、しかし圧倒的な力強さでリングへとボールを叩き込む彼のシルエット。
世界がスローモーションになったのかと思った。俺は息をすることすら忘れ、ただその美しさに目を奪われていた。
同い年くらいに見える少年のプレーには、どこか現実離れした美しさがあった。目の前に見えないディフェンダーがいるかのように、鋭いステップで切り込んだと思ったら、ふわっと、まるで風に舞う一枚の羽のように宙に舞う。
放たれたボールは、綺麗な弧を描いてリングの中央に吸い込まれた。少年は、まるで、無邪気な子供がそのまま大人になったような、眩しいほどの笑顔を浮かべていた。本当に、バスケが楽しくて仕方がないという顔だ。
俺は、同級生が以前、くだらない恋愛話をしていたことを思い出した。いつだったか、彼は熱っぽく語っていた。
「一目惚れってさ、この人だって直感で分かるんだよ。一度見ちまったら最後、その人からどうしても、目が離せなくなるんだ。心に残り続けるんだ。」
もし、それが本当なら・‥・。
多分俺は、人生で初めて、他人から目が離せなくなった。心臓が、嫌なほど大きく跳ね、直感で分かってしまった。
この日、この場所で、この瞬間、彼を見つけたのは“運命”だったのだと。
今思えば、全てが奇妙だった。普段はしない仲間の居残り練習に付き合い、そのせいで遅くなったからと、普段は絶対に通らない帰り道を選んだ。いくつもの『普段はしないこと』が、細い糸のように一本に繋がっていた。
「あの、さ・‥・!今のシュート、」
気がつけば、俺はコートを仕切るフェンスを掴み、彼に向かって声を張り上げていた。
けれど、激しい風の音にかき消されたのか、それとも聞こえていて無視されたのか、彼は転がったボールを拾い上げると、俺の方を一度も振り返ることなく、カバンを肩にかけ、そのまま薄暗い夜の向こうへと去って行ってしまった。
あとに残されたのは、誰もいないコートと、地面に激しく積もっていく桜の花びら。そして、うるさいほどに鳴り止まない、俺の心音だけだった。
もし、この出会いが運命なら、俺たちの縁はまたどこかで必ず繋がる。運命の再会は、必ず訪れるものだと。
そう思ったのが、昨日のことである。
・‥・。神様よ。
“運命”の再会にしては、早すぎるのではないでしょうか。
*
僕の世界から音が消えて、2年以上経つ。
バッシュが床を噛む甲高い摩擦音も、激しくバウンドするボールの高低音も、ネットがザシュッと揺れる最高の瞬間も。今の僕にとっては、全てが静寂の彼方に沈んだ過去の記憶だ。
頭の後ろを走る大きな手術痕を右手でそっと撫でる。
−巨大聴神経腫瘍−命を救うための代償として、僕は両耳の聴力を失った。それだけではない。手術前の直近数年間の記憶まで失った。
だけど。
僕は今、猛烈にワクワクしている。
「おい・‥・、マジかよ・‥・」
「おいおい、冗談だろ・‥・?」
県立汐見高等学校2年1組の教室。担任の教師に促されて僕が一歩足を踏み入れた瞬間、ざわざわとしていた教室が、一瞬にして凍てついたような静けさに包まれた。
いや、僕には最初から無音の世界なのだが、クラスメイトたちの顔を見れば分かる。みんな目が点になり、口をぽかんと開けて、僕の胸元を凝視していた。
厳密に言えば、僕の胸にぶら下がっているものを見つめている。
無理もない。転校生である僕の胸からは、太い紐で吊るされた小型のホワイトボードがぶら下がっているのだから。そこには、黒のマジックで、我ながらなかなかの達筆でこう書かれていた。
【湛理 海です!耳が聞こえません!ついでに数年間の記憶もありません!よろしくお願いします!】
「え・‥・?」
「ちょっと、情報量、多すぎない・‥・?」
「難聴で、記憶喪失・‥・?え、これ笑っていいやつ?」
腫れ物に触るような戸惑いと、リアクションに困った微妙な空気が教室を包む。先生すらも、「あー、その、みんな仲良くするようにな・‥・」と、どう進めていいかオロオロし始めた、その時だった。
教室の後ろの席で、一人の男子生徒がガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、自分の頭を抱えながら、大きく口を動かした。
(おーい!!設定盛りすぎだろ!!転校初日から読者のキャパシティ超えてんぞ!)
静まり返っていた教室に、彼の野太いツッコミが響き渡る。彼の口の動きで、何を言っているのかは丸わかりだった。そのあと彼は、「あぁ・‥・そういうことかよ!だから昨日、声かけても、完全に無視して行きやがったのか!」と呟き、一人で納得している。
僕はニカッと満面の笑みを浮かべると、ポケットから黒板消しを取り出してササっと文字を消し、新しい文字を叩きつけるように書いた。
【漢字が苦手なので、ひつだんはひらがな多めでおねがいします!!】
「そこかよ!!もっと他に心配することあんだろ!」
先ほどの彼が再びツッコむと、耐えかねたクラスメイトたちが一斉に吹き出した。
「アハハ!何あの転校生、面白いんだけど!」
「築島、知り合いなの?ツッコミ早すぎ!」
一瞬で教室の重苦しい空気が消え去り、カラッとした笑いに変わる。彼のツッコミのおかげで、クラスのみんなの顔から「可哀想な障害者」を見るような目が消え、一気にウェルカムな空気が出来上がった。
教壇の先生もホッとしたように息を吐き、僕の肩を叩いて教室の後方を指差した。
「よし、じゃあ築島。お前こいつと知り合いならちょうどいい。席は・‥・一番後ろの奥、築島旭陽の隣だ。色々、教えてやってくれ!」
僕は小さくお辞儀をして、彼の隣の席へと歩いた。築島旭陽と呼ばれたその子は、「しゃーねえな」という顔で、でもどこか嬉しそうな顔をしながら、椅子を引いて、僕が席に着くのを待っていた。
「ちょっと、それ借りるぞ!」
僕がカバンを下ろすと、彼はさっそく僕のホワイトボードをひったくり、一切の躊躇なく、熱い筆致で文字を書き殴った。
【俺の名前は築島旭陽!旭陽って呼んでくれ!】
*
俺は書き終え、文字が見えるように海の目の前に突き出す。海は一瞬、きょとんとした顔でその文字を見つめていたが、すぐに「ぷっ」と小さく吹き出した。そして、嬉しそうに何度もコクコクと頷く。
(よし、伝わった・‥・!)
俺は胸を撫で下ろし、ホワイトボードの文字を消そうとした。次は何を書こうか。昨日、公園でお前のプレーを見たって伝えなきゃ−−。そう思って再び、マーカーを握り直した俺の手を、海の手が「待って」と優しく制した。
海は、俺が持っているホワイトボードをスッと自分の方へ引き寄せると、滑らかな手つきでサラサラと文字を書き進める。
【口読めるから、普通に話していいよ!】
「えっ・‥・?」
驚いて顔を上げた俺の目を、海の真っ直ぐな瞳が捉える。海は楽しそうに、ニカッと白い歯を見せて笑った。その笑顔は、昨日の子供のような、屈託のない笑顔だった。
海が口元をじっと見つめてくれていることに気付き、俺は身体ごと向ける。そして、いつもより、少しだけ、口の形が分かりやすくなるように、ハキハキと言葉を紡ぎ出す。
「お前・‥・口、読めるのか?」
海は声は出さず、ただ満面の笑みで、力強く何度も首を縦に振っている。その仕草だけで「うん、バッチリ!」と言っているのが痛いほど伝わってくる。
その笑顔を見て、旭陽の胸の奥にある熱いものが、もう我慢できなくなった。身を乗り出すようにして、海に伝える。
「俺さ、昨日・‥・南公園でお前がバスケしてんの見たんだ。なんつーか、目が離せなかったんだ。すげぇ綺麗で。−−あ、綺麗ってのは変か。男相手に。うーん、でも、ほんと、お前のプレーに一目惚れだったんだよ」
その瞬間、海の目が、まるで夜空の星を詰め込んだみたいにキラキラと輝き出した。
「−−俺、この学校のバスケ部なんだ。なぁ海。放課後、ウチの体育館来いよ。一緒にバスケしようぜ」
「あ、僕は・‥・!」海が何かを言いかけた時。
「こら、そこ。転校生早々ナンパしてんじゃねえ」
黒板の前から、担任の気の抜けた声が飛んできた。
「築島〜。湛理に口元を見せてはっきり話そうっていうその心意気は先生買ってやるが、お前声がデカすぎる。ここは体育館じゃなくて、教室だぞ」
「ぶふっ」と、クラスのあちこちから忍び笑いが漏れた。そこで初めて、俺は、自分が教室中に響き渡るような大声で叫んでいたことに気付き、「あ・‥・」と顔を赤面させた。海に伝われ、伝われ、と意識しすぎた結果だった。
先生は苦笑しながら、手にしたチョークで黒板をトントンと叩く。
「まぁ、湛理。そいつ一応バスケ部だから、部活に興味あるなら放課後連れてってもらえ。−−よし。じゃあ授業再開するぞ。教科書の12ページ開け」
クラスの視線が黒板に戻る中、俺は恥ずかしさのあまり頭を抱えて机に突っ伏した。隣から、カサカサと小さくペンを走らせる音が聞こえる。顔を上げると、海が自分のホワイトボードをスッとこちらに向けていた。
【行ってみようかな・‥・!\( ˆoˆ )/】
文字の横には、小さなバスケットボールの絵と、俺の大声の真似したようなコミカルな絵文字が添えられている。海は声は出さないものの、肩を揺らしてクスクスと笑っていた。
(・‥・あーあ、、まじで早く放課後になんねえかな)
俺は、ノートの端に「数学だるい」と書き殴りながら、まだバクバクと鳴り止まない胸を押さえた。今の今までも、それなりに楽しい充実した高校生活だった。バスケ部だって、みんなで真剣に楽しくやってる。不満なんてなかったはずだ。
だけど昨日から、ずっと体の奥がジリジリと熱い。隣の席では、海が楽しそうに教科書を開いている。
−−あぁ、何かが変わる。
窓から差し込む朝の光の中で、俺は確信していた。得体の知れない何かが、今、とんでもないスピードで動き出そうとしていることを。
初めての執筆で、誤字脱字等、不出来な部分も多々ありますが、楽しんでみていただけると嬉しいです。




