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再掲

作者:
掲載日:2026/08/03

再掲です。今日中には消します。


 彼女の名前はリュドミラ・メレシナ。


 雨水を吸った泥のような黒髪。

 曇天の空の様なくすんだ灰色の目

 18歳になったばかりの、メレシナ男爵家の三女だ。

 そんなリュドミラは、この度結婚することとなった。

 お相手は、この国一の魔術師兼侯爵のボリス・ホールデンだ。





 事の始まりは、ボリス・ホールデン侯爵が6人目の妻を探しているという話題から始まる。


 ボリス・ホールデン侯爵一ーといえば、侯爵でありながら、この国一の天才魔術師と呼び声の高い男だ。

 歳のほどは30歳。腰まで伸びた、夜の海に反射する月のような銀の髪に、すらりと伸びた長身。恵まれた体躯に、恵まれた容姿。更には恵まれた才能、恵まれた地位を持つ彼だったが一ーそれら全てを覆しかねない悪評があった。


 ボリス・ホールデン侯爵一ー彼は、いついかなるときも顔面全てを仮面で隠し、更に5度にもわたる離婚歴があったのだ。

 

 目元だけ隠す仮面の貴族ならまだしも、顔面全てを隠す貴族はそういない。でも今は一旦仮面は置いておくとして一ー5度にわたる離婚の理由がこの上なく最悪だった。


 ボリスと結婚した5人の女たち。なんと、皆が皆、発狂し、ボリスとの離婚に至ってしまったのだ。


 結婚前は朗らかだった女も、お淑やかだった女も、元気だった女も、一様に発狂してしまった。

 いや、狂言回しになったと言っても良い。

 結婚式を挙げた翌日には『見ないで!』と叫びながら屋敷中を駆けずり回り、ボリスから逃げ回る。これでは結婚生活などできないなぁ、と離婚する。

 幸いなことに、離婚した令嬢は、時間とともに正気を取り戻しはしていたが一ーとにもかくにも、これを五回繰り返したのがボリス侯爵だ。


 というわけでそんなボリス侯爵。

 侯爵だけあって後継が欲しいからお嫁さんを募集しています。持参金はいりません。なんでしたら侯爵家の財力を持って、妻の実家の資金援助もしますよ、というお触れを出した。


 さすがに5人も発狂させた侯爵に娘を嫁がせるのは……と下位貴族から高位貴族まで足踏みしていた。

 そんななか、そこに飛びついたのが資金難のメレシナ男爵家。

 三女であるリュドミラは特に使い道もなかったし、発狂しなければ金が貰えるし、発狂すれば捨てれば良い。そういうわけで嫁がされたわけだ。

 




 ホールデン侯爵家の門をくぐったリュドミラは、そのあまりの広さと荘厳さに言葉を失った。


 広い。

 庭がとんでもなく広い。

 屋敷がずっとずっと遠くに見える。

 というか、庭の面積だけで、実家の建つ土地の面積を超えているのでは……? というほど広い。


 更に庭もそつなく、完璧に手入れされており、あまりの光景にリュドミラは固まってしまった。


「リュドミラ?」


 頭上から、くぐもった声がする。


「リュドミラ、どうしたんだい?」


 固まった首をどうにかして上に傾けると、一ー仮面と目があった。

 つるりとした真っ白な仮面。目と口の模様はある。笑ってるのか泣いてるのかよくわからない表情をした仮面が、じっとこちらを見ていた。


「と、とっても広いお庭だと思って」

「それはそれは」


 仮面が一ーボリス侯爵が、ふふん、と仮面の下で笑う声がする。


「腐っても一ーだから、体裁一ーなんだよ」

「あ、あの……」


 しまった。身長差と仮面のせいでよく声が聞き取れなかった。

 言葉を濁す様に曖昧にリュドミラが笑うと、全てを見越したかのように、ボリスがその長身を屈めた。


「侯爵家だからね、」


 内緒話でもするように、仮面がリュドミラの耳元に寄る。


「それなりの体裁が必要なんだよ」


 その拍子に、長い銀髪がリュドミラの頬をくすぐった。

 くすぐったさと仮面が近付いたことへの驚きで、リュドミラが小さな悲鳴を上げると、おやおや、と申し訳なさそうにボリスは小首を傾げた。



 一ー少しでも早く金が欲しいから、とリュドミラはあっという間にホールデン侯爵家に嫁ぐことになってしまった。

 リュドミラの知らぬうちに話が進み、気付いたときにはホールデン家へ向かう馬車へ押し込まれていた。で、数日の旅をした後、ホールデン家へ無事辿り着いた。

 なんと驚いたことに、ボリス自ら門前で待ち構えていた。

 仮面姿に慄きながらリュドミラは挨拶を交わし、そして今、二人はだだっ広い侯爵家の庭を歩いている、というわけだった。



「すまないね、怖がせるつもりはなかったんだよ?」


 ボリスの言葉にリュドミラはぶんぶんと首を横に振る。

 いや、まぁ、正直なところ実際怖くはあるのだが。

 仮面のことは知っていたが、いざ目の当たりにするとだいぶ迫力がある。表情が読めないし、視線がどこを向いているかもわからない。仮面のせいで声だってくぐもって聞こえる始末で、リュドミラの心臓は悪い意味でバクバクと高鳴っていた。


「それじゃあ、怖がらせてしまったお詫びに魔術でも見せようか」


 リュドミラの返事を聞く前に、ボリスは足元に生えていた適当な草を引き抜いた。


「ほら、見ててごらん」


 言われるがままボリスの手中にある草をリュドミラが見つめれば一ーただの草だったはずのそれが、突然ぶわりと膨れ上がり、赤い薔薇に変化してしまったではないか。


「……!?!?」


 なぜそんなことになったのか、リュドミラにはよくわからない。

 しかもボリスの手のひらで咲いた薔薇は、リュドミラが絶句しているうちにあっという間に朽ち果て、砂になってしまった。


「どうだ、面白いだろう?」

「お、お、面白い……?」

「ものの(ことわり)、事象自体を捻じ曲げる魔術はあまり長持ちしなくてね。こんな風にすぐ朽ちてしまう」

「な、なるほど……?」


 なにが面白いのか、もっと言えばボリスの言う事もリュドミラにはよくわからない。

 だからやはりリュドミラは曖昧に笑うことしかできなかった。そうこうしているうちにだだっ広い庭は終わり、リュドミラは、庭より更に面積を誇る、ホールデン侯爵家の屋敷に足を踏み入れることになった。





 迎え入れられたリュドミラは、それはそれは手厚く歓迎された。


『私は仕事がるからね。また夜に、ね』


 と屋敷に入るや否やボリスはどこかへ行ってしまった。困ったリュドミラだったが、それもすぐ解消される。

 まず家令らしい妙齢の男性に挨拶され、それからすぐに使用人達の紹介、挨拶が始まった。それが終わったかと思えば、『長旅でお疲れでしょう』と浴室に連れて行かれ、頭のてっぺんから爪の先までぴかぴかに磨きあげられた。


 そして息つく暇もないまま、すぐに夕食が出された。『旦那様はお忙しいので……』と食事は一人で取ることになったが、男爵家にいた頃とは比べ物にならない豪勢な食事に、ボリスのことなどすっかり忘れてた食事に耽ってしまった。


 食事の後は再度また浴室に連れて行かれ、また頭のてっぺんから爪の先まで磨かれた。先ほどと違うのは、花の香りの香油をたっぷり体に塗られたことだ。


「旦那様のお気に入りの匂いですからね」


 と侍女の一人に言われ、


「絹は肌触りが良くて、殿方には人気なんです」


 と更に別の侍女に言われ、そこでようやくリュドミラは気付く。

 あ、これから初夜なんだな、と。

 気付いたところで別にどうなるわけもなく、勢いそのまま、リュドミラは夫婦の寝室だという部屋に連れて行かれた。ここです、お入りください、と半ば強引に部屋に押し込められた。


「あ、あの、」


 ようやっとリュドミラが言葉を発したときには、無慈悲にも寝室と外を繋がる扉は閉められてしまった。あぁ、と諦めのようなため息を吐いたリュドミラだったが、ため息はすぐに感嘆へと変わった。


「ひぇ……」


 押し込められた夫婦の寝室は、これもまた豪華絢爛だったからだ。

 リュドミラが初めて見るぐらい大きな天蓋付きのベッド。よくわからないが金がかかってることはわかる調度品。部屋を支える柱にはなにか細工が彫られていたし、天井を見上げれば、荘厳な絵まで描かれている。


「ひぇぇ……」


 侯爵家って、本当にお金があるんだ。

 思わずごくりとリュドミラが喉を鳴らすと、


「部屋の見物は終わった?」

「一ーひえっ!?!」


 いつからいたのか、腕を組みながら、部屋の壁にもたれかかっていたボリスが、リュドミラに声をかけた。


「ボ、ボリス様!申し訳ありません!私、すっかり部屋に夢中になってしまって……!」

「気にしてないよ」


 言いながら、ボリスはベッドの上に腰を下ろした。おいで、と言う様に、隣を軽く手のひらで叩いた。


「閨教育は?」

「き、基本的なことは学びましたが……」

「なら話は早い。これから私となにをするかは知っているね?」


 ボリスの隣に座ると、自分のとは違う、甘い香りがした。リュドミラの心臓が跳ねるが、それも、ボリスの顔を見ればすっと収まってしまう。

 なぜならボリスは、未だ仮面をつけたままだからだ。


「……存じてはおりますが……、……ボリス様は、その……、閨の際も仮面をしたままで……?」

「……そうだねぇ、…………一応ね、礼儀として、これまでの5人の妻にも、素顔を見せてから事に及ぼうとはしてたんだけど」


 ボリスの物言いは、妙に引っかかる言い方だった。


「ボリス様……?」

「君にだけ見せないのは違うからね。良いよ、君が望むのであれば仮面を外そうか?」

「え、あ、……よ、よろしくお願いします……?」


 あぁ良かった、さすがに夫婦の時間は仮面を外してくれるのか。リュドミラがほっと息を吐く間に、ボリスは仮面を外してしまった。


「どう?」


 呼ばれて、ボリスの方を向く。

 ボリスの顔は、一言で言えばそれはもう美男子だった。

 アメジストのような切長の紫の目。鼻筋も通っていて、唇も薄い。少なくともリュドミラがこれまで見てきた異性の中では一番顔が整っていた。


「か、かっこいいです……」

「ありがとう。そう言われると嬉しいよ」


 けれどそんなボリスの顔の右頬には大きな傷らしきものが縦に一線引かれていた。


「で、でも、お顔に傷、が、」

「ん? あぁこれ? そうだねぇ、触ってみる?」

「えっ……」

「良いよ?触ってごらん」


 良いのだろうか、と少し迷いはした。

 が、断る口実も見つからず、リュドミラはそっと傷に触れようとして一ーなんと突然、傷口が、ぱっくりと割れたのだ。


「!?!!?」


 ぱっくりと割れた傷。なんとそれは傷ではなかった。ぱっくり割れたそこから、ぎょろりとした青色の目玉らしきものが覗き、じっとリュドミラを見据えたのだ。


「めめめめ、目っ……!?!?」

「そう、目。綺麗だろう?」


 作り物かと思ったが、青い目玉が上から下までぎょろぎょろ動き、舐める様にリュドミラを見つめた。


「えっ、目、うそ、なんで、」


 傷口らしきものはぱっくり開いたまま、傷口の中で目玉が瞬きをする。ボリスはなんてことない態度で、面白そうにリュドミラを見るばかりだ。


「なんで……」


 幸か不幸か、あまりの衝撃に、リュドミラはそこで気を失ってしまった。





 次にリュドミラが目を覚ましたのは、初夜から3日も経った昼のことだった。

 リュドミラが起きるや否や、使用人たちがバタバタと駆けつけ、お身体はどうか、と検分を始めた。起き抜けでぼんやりするリュドミラはどうすることもできず、やはりなすがまま、されるがままだった。

 

 そうこうしているうちに、検分を終えたリュドミラの元に暖かなスープが配膳された。


「久々のお食事です。まずは消化の良いものを……」


 使用人の一人に言われて、お腹が減っていたことに気付く。野菜と鶏で出汁を取ったらしいスープはそれはそれは美味しくて、リュドミラはあっという間に飲み干してしまった。


「やぁやぁリュドミラ。お目覚めらしいね。気分はどう?」


 おかわりを頼もうか……とリュドミラが迷っていた矢先、やけに軽快な声でボリスがやってきた。

 頬の目のことを思い出し、リュドミラは思わず悲鳴をあげそうになる。しかし今日のボリスは仮面を被っており、寸前で悲鳴を飲み込んだ。


「おっ、おはようございます、ボリス様。私ったら3日も眠っていたようで……」

「仕方ないよ。それで?気分はどう?スープ以外に食べれそうなものはある?」


 リュドミラが答えるより先に、ぐうう、とリュドミラのお腹が勢いよく鳴った。


「…………申し訳ありません……」

「なにを謝ることがある。それで?君の望むものを用意させよう。なにが食べたい?」

「……ええと、では、フルーツをなにか……」

「それは良い。私もちょうど小腹が減っていたんだよ。すぐに持って来させよう」


 というわけで、本当にすぐ、フルーツがリュドミラの元にやってきた。

 リュドミラはさすがに驚いた。それもそのはず、「こんな短時間でこんな用意が……?」と疑問に思わざるを得ない量で、かつ、細工まで施された美しものだったからだ。

 もっと言えば、並ぶフルーツはどれもリュドミラ好みのものだった。あまり高価なフルーツと縁のなかったリュドミラは、男爵家の庭に生えていたアケビやノイチゴを好んで食べていた。それらが今、侯爵家のらしい高価な皿の中央に、主役然として並んでいた。


「ではいただこうか」


 自然な手付きで仮面を外して、ボリスがオレンジを手に取った。齧り付いて、う、とうめき声をあげる。


「……君はすっぱいものを好むんだな」


 え、とリュドミラが疑問に思っていると、ボリスから新しいオレンジが手渡される。白鳥の形に切られたオレンジで、一体どこからかじれば……と悩みながら食べると、


「……美味しい!」


 男爵家の庭に生えっぱなしの、すっぱいオレンジそのものの味だった。


「本当にオレンジか、これは。レモンの間違いでは……」

「オレンジ!オレンジです!品種改良する前のすっぱいオレンジで、私の好きなオレン、ジ、」


 そのタイミングで、閉じていたボリスの傷一ーもとい3つめの目がぎょろりと開いた。青い目玉がリュドミラをじっと見つめる。


「ひえっ……」

「あぁ、すまないね。勝手に開いてしまうんだよ」


 しかしなんてことないように、ボリスはあけびを食べ出した。リュドミラは青い目に囚われ、オレンジを手にしたまま固まってしまっていた。


「おーい?リュドミラ?意識はあるか?」

「あ、っ、あり、あります。あります、がっ……、この前の夜のことは夢ではなかったのですねっ……」

「残念ながらな」


 ほら、とリュドミラの緊張をほぐすように、ボリスが今度はあけびを手渡してきた。おずおずと食べ進めるが、その間にも、ボリスの頬の目はリュドミラをじっと見つめている。


「あの、ボリス様、その目は……」

「これ?さぁ?なんだろうね?」

「なっ……なんだろうね……?」

「冗談を言ってるんじゃないよ?6歳のときにね、父に剣術を教えてもらっていたんだけれど、うっかり父の剣が私の頬を切ってしまってね」


 あけびを食べ終わったボリスは、次いで桃に手を伸ばした。小腹が減っていたのは嘘ではなかったらしい。


「治療して、坊ちゃんのほっぺに傷が残ってしまいますねー、なんて皆言っていたら、傷ではなくて目になっていた」

「そんなまさか」

「嘘じゃないよ?気になるなら今度隠居してる両親のもとに出向いて聞いてみても良い」


 頬の目が動いた。リュドミラではなくボリスの方を見つめている。


「これは目ではあるけどね。私と視覚を共有しているわけではない。更に言えば、私の意思で開け閉めすることもできない。いくら魔術が栄えてる国であろうと、この目を潰すことはできなかった。とはいえ、侯爵家の跡取りが三つ目は不気味すぎるから仮面を被ろうか、というわけだ」

「……ええ……」

「他に疑問はある?」

「では、その、頬の目がある理由は未だもって不明、と……」

「その通り」

「ええ……」


 さすがの事実にリュドミラは言葉を失った。


「三つ目が不気味で嫌だ、こんなの聞いてない、と思うなら離婚しても構わないよ」

「……えっ……」

「誰だって三つ目は不気味だろう?それぐらいは私だって理解してる」


 桃を食べ終えたところで、ようやくボリスの食べる手は止まった。手を拭きながら、なんてことないようにリュドミラに言う。


「好きにすれば良い。離婚したければそれでも構わないし、……あぁ、大丈夫だ、慰謝料は払うからね。金の心配はしなくて良い。三つ目でも気にならないのであれば妻のままでいれば良いし。リュドミラの好きな方を選んでくれ」


 あまりに突然の問いに、リュドミラは答えることができない。

 ボリスとて百も承知なのだろう、特に急かすでもなく、ではまた夜にな、と部屋を後にしてしまった。





 そしてとうとう答えの出せぬまま、その夜も、リュドミラは体を綺麗に綺麗に磨き上げられた。


「奥様を三度も洗うなんて初めてのことです」

「今日はこの前より際どいものを着ましょうね」

「香油もたっぷり塗って」


 侍女たちがワイワイおしゃべりしながらリュドミラを整えていく。

 皆さんはボリス様の三つ目をご存知で……?とリュドミラは聞きたくてたまらないのに、三つ目の話をしようとするとなぜか喉元がつっかえてしまう。

 結局聞けずじまいのまま、リュドミラはまたしても夫婦の寝室に連れて行かれてしまった。


「おやおや。今日はまたずいぶんと薄手で」


 ボリスその人は、もうベッドの上に座っていた。


「こっ、これは……侍女の方達が用意してくれたもので……」


 ボリスに指摘されたように、リュドミラの夜着はこの前着ていたものよりだいぶ薄く、際どいデザインのものだった。

 暗がりの部屋だからぎりぎり見えはしないだろうが、胸の頂も見えるか見えないかぐらい薄い生地でできていたし、丈自体もとても短い。羞恥で顔を赤くしながら、リュドミラはボリスの隣に座った。


「それで?急かすようで悪いが、私と結婚生活を続けるか?」


 試す様に話しながら、ボリスが仮面を外した。

 頬の目は、まだ閉じたままだ。


「そ、その、……迷っています」


 膝の上で握り拳を作って、震える声でリュドミラは小さく呟いた。


「…………それは、男爵家に出戻りしたところで、父親と家督を継ぐ予定の姉に虐げられるから?」

「……っ……なんでそれを、」


 ふふ、とボリスが笑った。同時に、頬の目もゆっくり開眼する。


「一応私は侯爵の身ではあるからね。悪いとは思ったが身辺調査はしてあるんだよ。リュドミラ・メレシナ。メレシナ家の三女。先妻を亡くしたメレシナ男爵が2番目に娶った妻の子。上の二人の姉とは血の繋がりがない。異母姉妹ということで、姉二人からは虐められていた。君の母も病気でもう亡くなっていて、メレシナ男爵家に君の居場所はない。違うか?」


 すらすらとこれまでの経歴を言われ、リュドミラは頷くことしかできなかった。


「後妻の子だと使用人もあまり良い顔をしなかった。父親もそんな流れに負けて、君を構うこともしなかった。だから食べ物もあまり与えられず、飢えを満たすために庭に自生するフルーツばかり食べていた。閨教育は受けていないが、姉の教本を盗み読んで基礎的な知識はある。せっかくの綺麗な黒い髪なのに、泥の様だと笑われ、実際に泥をかけられた。理知的な灰色の目は、曇天のようで不吉だと言われ続けた」

「っ、ぜ、全部正解です。……でもどうして、そこまでご存知なんですか……?」

「侯爵家の情報網を舐めないでもらいたいね」


 ボリスに指摘されたことはどれも本当のことだった。男爵家でないがしろにされていたからこそ、リュドミラは5人もの妻を発狂させた男の元に嫁ぐことになったわけだ。

 あまりの筒抜け具合に、リュドミラは初めてボリスに畏怖の念を覚えた。ボリスと離婚してしまえば、リュドミラはまた虐げられる生活に逆戻りだろうが、こうも全てを握っている男と結婚生活を続けるべきかで迷いが生じたのも事実だった。


「君が私の妻のままでいるというのならば、侯爵夫人としての教育は受けさせるし、相応の暮らしは保証しよう」


 ボリスと頬の目が、窺うようにリュドミラを見つめる。


「それで、君はどうしたい」

「……ええと……」

「急かして悪いとは思っているんだよ?……そうだなぁ、……なぁリュドミラ、君は一体何に迷っている?」

「……え、と……」

「侯爵夫人の座に就くのが怖い?それとも私の三つ目の目が恐ろしい?」

「……どれも、怖くはあります、が、一番は……やはりその目、かと……」


 頬の目は瞬きひとつせずリュドミラを見据えたままだ。居心地が悪くて、リュドミラはボリスの方を向くことができない。


「普段は仮面をしているから問題はないだろうが……」

「……で、でも、その、こ、こういう、……閨のときには仮面を外すんですよね……?」

「そりゃあね。仮面というのは思ったより息苦しくてね。まだ経験はないが、女性を抱くときにつけてはいられないだろう」


 ボリスの言葉に、え、とリュドミラが情けない声をあげた。


「……あれ?ボリス様は確か5人も奥様がいらした方で……」

「その通り」

「け、経験があるのでは?」

「ないよ?どの妻もね、初夜の時に三つ目を見せたら発狂してしまったからね。狂わなかったのは君が初めてだよ」

「えっ……」

「三つ目を見た途端、悲鳴を上げて気絶して、次に起きた時は叫びながら私から逃げ回る始末だったからね。とても夫婦としての時間を過ごす余裕はなかったよ」


 君が初めてだよ、とボリスは付け足す。


「ここまで正気を保った妻は君が初めてなんだよ、リュドミラ。だから私としては結婚生活を続けていきたいとは思っているが……」


 ボリスの言葉に、リュドミラは不覚にも胸がきゅんとした。

 それも仕方がない話だ。これまでのリュドミラは虐げられる一方で、誰かから必要とされたことはなかったし、「君が初めてだよ」なんて甘い言葉、誰からもかけられたことがなかったからだ。

 ボリスの甘い言葉に乗せられているだけという自覚もあったが一ーリュドミラは、ボリスと夫婦を続けるのも良いのでは、という思いが芽生え始めていた。


「それにねリュドミラ。三つ目が怖いのなら対策もある」

「……対策?」

「そ。君が目隠しをすれば良い」


 ほら、とボリスが黒い布を取り出した。


「私の三つ目は私の力では制御不可能だからね。日中は仮面をしているし、閨のときだけ限って言えば、君が見えなくなる方が手っ取り早くて済む」


 ……なるほど?確かにそうなのかもしれない。

 三つ目という、理解を超えたものを目の当たりにして、リュドミラは正常な判断を失いつつあった。


「ただし」

「ただし……?」

「一度でも閨を共にしたら、君から離婚という選択肢はなくなる。私も早く後継が欲しいし、傷物になった君は他に嫁ぐ当てもなくなるだろうからね」


 それは確かにそうだ。そうなってくると、いよいよリュドミラに残された選択肢など、一つしか残されていないように思えた。


「……でしたら、その、……目隠しをしてくれませんか」

「私と夫婦を続ける気になった?」

「ボリス様の仰るように、離婚したところで私に先はありませんし……、それに目隠ししてくださるなら、その、平気、だと思うので……」

「それは良かった。それじゃあリュドミラ、さっそく始めようか」





「っひ、ぅ……」


 真っ黒な目隠しをされ、リュドミラは、ボリスにされるがままになっていた。




 誰に言うこともなかったが、ボリス・ホールデンには『全て』が見えていた。


 初めて自覚したのは、三つ目が開眼したとき。

 周囲にいる両親、医者、侍従、それら全員の過去やら未来が、一気にボリスの脳裏に駆け巡ったのだ。


 ひとりの人間では処理しきれない情報を流されたボリスは、そのまま気を失ってしまった。

 次に目が覚めたときには、また、同じように周囲の人間の情報がわっと脳裏に流れ込んできた。


 過ぎた情報はあまりに酷なものだった。

 それでも彼が発狂せずに済んだのは奇跡に近かった。あるいは、彼の知りえぬ三つ目の力がなにかしら作用したのかもしれなかった。



 三つ目と過ごすうち、ボリスはあることに気づいた。

 三つ目は、ボリス自身の力で開け閉めすることはできない。

 ただし、物理的に塞がれたのなら、その力は発揮できない、ということ。


 つまるところ、仮面でもなんでも、三つ目自体を目隠ししてしまえば、『全て』が見えることはないのだ。なるほど、そもそも三つ目は気味が悪いし、目隠しして『全て』が見えなくなるのであれば仮面をつけるのがちょうどいいな、と思い至ったのだ。



 が、数年も経たないうちに綻びが生じた。


 仮面で隠そうが、三つ目が『全て』を見始めたのだ。


 これにはボリスもほとほと困り果てた。

 興味のない人間の過去や未来なんてどうだって構わない。だが三つ目はこれでもかと見せてくる。困ったなぁ、と思いながら、困りつつボリスは5人の妻を迎えた。


 『全て』が見えるボリスにとって、5人の妻が発狂するのも知ったうえで結婚した。で、三つ目で見た通り、みんな発狂した。なんで発狂したんだろうなぁ、両親も、侍従も平気だったのになぁ、とボリスは首を傾げていた。



 そんな折だった。

 気まぐれに出席した夜会。

 見えなくていいものが見えるなか一ーなにひとつ見えない女がボリスの前に現れたのだ。


 彼女の名前はリュドミラ。

 たまたま目にした女。だがボリスは、彼女のなにもかもが見えなかった。


 代わりに、リュドミラの姉たちから、リュドミラの様子を見ることができた。

 虐げれていること、あまり良い生活ではないこと、その他諸々。さらに、リュドミラの父を見れば、リュドミラが自分の元に嫁ぐのも見えた。


 しかし当のリュドミラからはなにも見えない。


 ボリスは不思議に思いながらも一ー果たして彼女は、三つ目が見た通りに、ボリスの元に嫁いできたのだ。






 隣ですうすうと寝息をたてるリュドミラを見下ろしながら、ボリスはやはり小首を傾げた。


 体が繋がれば、彼女のことも『見える』ようになるかと思ったがそんなことはない。やはり彼女はなにも見えなくて、それが、ボリスの心をおおいに踊らせた。


 一ーだってこんなに、なにも見えない人間は初めてじゃないだろうか。


 頬に怪我を負って以来初めて、ボリスは、まだ見えぬ未来に心躍らせた。『全て』を見る三つ目は、文字通り全てを見る。過去も未来も生も死も。

 だがリュドミラからはなにも見えない。


 どうしてだろうなぁ? そういえば彼女は魔力が空っぽのようだったがそのせいだろうか?


 まあいいか、とボリスはリュドミラの隣で横になった。

 三つ目がリュドミラをじっと見据える。一ーだがやはり、なにも、見えはしなかった。


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