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第36話 風と契約

 帰宅した幸奈は買ったお菓子を机に置き、手をつけることなくベッドに倒れ込んだ。すんすんと赤くなった鼻を鳴らし、天井を見上げてぼーっとしていた。


「人間の少女よ」


 突如部屋に響いたのは低く、静かな声。


「精霊王……?」

「あのとき以来だな」


 視線を移すと、そこには精霊王の姿があった。巨体は以前と同じように上半身しか現れておらず、幸奈の部屋ではどこか窮屈に見えた。


「お前に詫びにきた」


 精霊王から発せられたのは幸奈が予想していなかった言葉。驚く幸奈に精霊王は続ける。


「私はお前を利用した。人間が犯した罪は、人間の手で裁くべきだと私は思っていた」

「精霊王……」

「島の存在も、お前が精霊界に来たときに全てを思い出した。それからは、お前たちがどのようにしてあの男を止めるのかを見守ることにした。しかしその結果、シルフの生命核が破壊されてしまった。……私は無能な王だ」


 精霊王は目を伏せるが、「だが、」とすぐに顔を上げる。


「私の代わりはどこにもいない。シルフが四大精霊であるように、私も永遠に精霊王として生きていかなければならない。これから王として全ての精霊を守ると、改めてここに誓う」


 幸奈と視線を交わし、精霊王は大きく頷いた。


「詫びとしてお前を精霊界に招待しようと思うが、どうだろうか」

「精霊界に?」

「精霊王が許したと言えば、それを否定する人間などいない」


 幸奈が頷く前に、精霊王は幸奈に向けて手を翳す。体がふわりと浮き、幸奈は突然のことに空中で慌てふためく。


「あちらでは好きなように過ごせばいい」


 部屋の中は眩しい光に包まれ、幸奈と精霊王は部屋から姿を消した。


 眩しさがなくなり、幸奈がゆっくり目を開けると、そこは一面の花畑だった。

 絵に描いたような青空から暖かい日差しが降り注ぎ、風に乗って花と草木のどこか甘い香りが幸奈に届いた。部屋からそのまま来たせいで裸足だったが、不快感は一切なく、寧ろ包み込んでくれるような安心感があった。

 しばらく立ち尽くしていた幸奈は、目の前に広がる美しい光景に既視感を覚えた。


「ここって……」


 記憶を辿った幸奈はすぐに思い出した。以前、シルフと凜と精霊界に来たときと同じ場所だと。


「あの、精霊王――」


 振り返るが、精霊王の姿はどこにもなかった。どこを見渡しても姿はなく、代わりに暖かい風が幸奈の頬を撫でた。

 なぜ敢えて同じ場所を選んだのか。幸奈の頭に疑問が生じる。


「もしかして……」


 精霊界に行くと言ってシルフが選んだ場所。つまり、ここはシルフに縁のある場所なのでは。シルフはここに住んでいたから、土地勘のあるこの場所を選んだのかもしれない。

 ということは、シルフはここにいるかもしれない。


「シーちゃん!」


 花畑に幸奈の通る声が響く。しかし返事は誰からも返ってこなかった。

 それならば、歩いて探してみよう。幸奈はゆっくりと歩き出した。不安に苛まれながらも、心のどこかでシルフはいると信じていた。

 永遠に続く色鮮やかな花畑を歩いていると、小高い丘が目に入った。そこにそびえ立つのは一本の新緑。

 新緑の下には小さな影があった。誰かいる。幸奈は表情を引き締め、再び歩みを進める。


「シーちゃん……」


 丘を登りきった幸奈の目の前にいたのは、人生の半分以上を一緒に過ごした親友の姿。一際強い風が吹き、幸奈の言葉が風に乗って届いた。

 蝶々の羽が生えた、童話の世界に出てくる妖精のような愛らしい姿をした精霊が、幸奈の方に振り返る。

 たった二週間会っていなかっただけなのに、何十年ぶりの再会のような気がした。


「シーちゃん、久しぶり。元気だった?」


 込み上げてくる感動と興奮を抑え、幸奈はいつものように平静を保って声をかけた。


「……あなた、誰?」


 思わず駆け寄ろうとした幸奈の歩みが止まる。


「人間よね? どうして人間がここにいるの?」


 その言葉を、幸奈はすぐに受け入れられなかった。そんな面白くない冗談を言うなんて。だが、目の前にいる精霊は幸奈に「初めまして」と言わんばかりの視線を向けていた。


「……シーちゃん、あたしのこと覚えてる?」

「私の名前はシルフよ。それに、あなたとは初めて会うわ」


 人間を初めて見たわ、と幸奈に興味ありげな視線を向けるシルフ。

 幸奈はそのとき確信した。シルフの記憶がなくなっている。

 リヒトの力が影響してしまったのか。それとも、生命核の回復のために記憶を犠牲にしなければならなかったのか。幸奈には分からなかった。


「……あたし、あなたに会いに来たの」

「そうなの? あぁ、私と契約しに来たのね」


 俯く幸奈とは反対に、シルフは嬉しそうに笑みを浮かべていた。


「近いうちに人間界へ行くつもりだったけど、あなたの方から来てくれたのね」


 幸奈の周りをぐるりと一周し、幸奈をまじまじと観察するシルフ。


「やっぱり契約してくれる人間って運命を感じるのね。あなたとは初めてって感じがしないもの」

「あたしも……そう思う」

「それじゃあ、早速契約しましょ。大きく息を吸ってちょうだい」


 言われるがままに息を大きく吸い込むと、蝶々の羽が軽やかに動き、風が幸奈の元に届いた。


「そのまま風を飲み込んで」


 届いた風をごくんと飲み込む。風は軽く、綿あめのようなふんわりとした感覚がした。


「これで契約完了」

「え?」

「精霊の力を受け取ってくれれば契約は完了するの。簡単でしょ?」


 シルフはニコリと微笑んだ。

 こんな簡単なことを自分は十年も引き延ばしていたなんて。言われた通りにすぐに契約をしていれば良かった。幸奈は今さら後悔の念を抱いた。


「そういえば、名前も聞かずに契約しちゃったわ。改めて、私はシルフ。あなたの名前は?」

「……あたしは春風幸奈。よろしくね」

「幸奈ね。……もしかして、シルフだからシーちゃんって呼んでたの?」


 沈んだ顔で頷く幸奈。幸奈の表情からなにかを感じ取ったシルフは首を傾げる。


「私、あなたと会ったことがあるかしら? 記憶力はいいつもりだったけど」

「……あたし、シーちゃんと十年前にもう会ってるんだ」


 シルフは目を見開く。まさか、そんなことがあるはずがないと、幸奈に視線を送った。


「あなたが会ったのは本当に私?」

「うん。だって、シーちゃんは一人しかいないもん」


 幸奈の迷いのない瞳がシルフに届く。シルフは腕を組んで考えた後、幸奈に向き直る。


「幸奈、あなたのことを教えて。好きなことや好きなものや思い出を。私が知らないことを全部教えてちょうだい」


 幸奈は頷き、全てを話した。自分のこと、初めて出会ったときのこと、洸矢たちやチームのこと、精霊界に行くことが決まったこと、精霊もどきやラインに出会ったこと、精霊祭のこと、リヒトの計画とそれを止めたこと、シルフと過ごした思い出を全て。

 シルフは幸奈の話を茶化すことなく、真剣に聞いていた。


「……そう。私はあなたと親友だったのね」


 話を聞き終えたシルフは控えめに眉を下げる。羽もどこかしおらしくなっていた。


「覚えていなくてごめんなさい」

「ううん。シーちゃんはなんにも悪くないよ」

「……これは私の予想だけど。恐らく、リヒト・グレイアという男の力は死ぬまで続くでしょうね。その男が生きている限り、私の記憶は戻らないわ」


 幸奈はぐっと唇を噛み締めた。リヒトに罪を忘れず、生きて償ってもらうと言った。それがこんな形で影響が出るなんて。


「えっと、あの、違うのよ……あなたを悲しませるために言ったわけじゃなくて……」

「分かってる。どんな辛いことでも、あたしは全部忘れない」


 幸奈はシルフに向き直り、笑顔で手を差し出す。


「今日がシーちゃんとの始まりの日。今日からまた、シーちゃんとの思い出をもっとたくさん作っていきたい」


 これまでは壮大なプロローグ。今日からシルフとの新しい物語が始まるのだ。

 シルフは微笑み、幸奈の手をそっと握った。


「よろしくね。幸奈」

「よろしく、シーちゃん」


 顔を見合わせて笑い、シルフは「それじゃあ」と羽を広げてくるりと回る。


「早速人間界に行きましょ。あなたが教えてくれたところ全部に行ってみたいわ」

「あ、待って!」


 幸奈は軽やかに飛ぶシルフを慌てて引き止める。


「どうしたの?」

「さっきは言ってなかったけど、シーちゃんと一つ約束してたんだ」


 首を捻るシルフに、幸奈はニコリと微笑む。


「精霊界、案内して!」

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