第1話 親友と精霊
「とーうっ!」
少女は校舎の三階の廊下の窓から笑顔で飛び降りた。
ふわりとポニーテールが浮き、制服のスカートが煽られる――ショートパンツを履いていたのでその下を見られる心配はなかったが。
昼下がりの暖かい日差しが風に乗り、少女は空中でさらに笑みを深めた。
周りにいた生徒たちは突然のことに口をあんぐりと開け、数秒後に起こるであろう最悪な未来を思い描くことしかできなかった。
しかし、少女は無事だった。少女の周囲に巻き起こった風がクッションの役割を果たし、少女はふわりと中庭に着地した。
そうして着地ポーズを決めてにんまりと笑う少女と、理解が追いつかずに呆然とする生徒たちの構図が完成した。
「十点!」
「十点、じゃないわよ幸奈!」
高らかに声を上げる少女――春風幸奈の元に、小さな妖精が勢いよく飛んできた。
蝶々のような羽を持った可愛らしい見た目は、まるで童話の世界から飛び出してきたかのようだった。
「怪我したらどうするのよ!」
「へへ、合図したから分かるかなって思って」
「そうじゃないわよ! あなたに恐怖心ってものはないの!?」
「ない!」
あっけらかんと答える幸奈は反省の色を全く見せない態度だった。
「……本当、なにかあってからじゃ遅いわよ」
「シーちゃんがいれば大丈夫だもん」
制服のリボンを整えながら幸奈はにこやかに笑う。
笑顔に応えるように、シーちゃんと呼ばれた妖精――シルフは大きな溜め息をついた。
「いつもそうだけど、無条件に信頼するのだけはやめてほしいわ」
乱れた髪を直す幸奈の後ろに回り、シルフはスカートの裾をいそいそと直し始めた。
「そうやってお世話してくれるから信頼しちゃうんだよなぁ」
ニヤリと笑う幸奈に、シルフは手を止めてハッとする。
「こ、これはほら、四大精霊の私の横に並ぶんだから、身だしなみくらい整えてもらわなきゃ!」
「はぁい。じゃあ校長室に行こっか!」
必死なシルフをからかい半分に笑い、幸奈は小気味いいステップで走り出す。
怒る気力をなくしたシルフは、やれやれといった表情で幸奈を追いかけた。
精霊。それは人とは異なる存在。様々な事象を司り、その力で世界の調律をしていた。
海が荒れれば水や海を司る精霊が鎮め、枯れた大地があれば森や花を司る精霊が土地を豊かにする。自然を司る精霊以外にも夢や音楽や記憶など、精霊が司るものは概念にまで及ぶ。精霊の力によって人々は生活し、文明を発展させてきた。
あるとき、精霊は人間が世界をさらに発展させてくれると信じて、人間と手を取り合って生きることを決めた。そこで人間と契約を結び、司る力の一部を貸し与えた。精霊から選ばれて精霊の力を手に入れた人間たちは、精霊が願った通りに世界を発展させていった。
そして科学技術が進歩した現代でも、人間と精霊は共に手を取り合って生きていた。
「――上記の通り、チームNo.0320は精霊研究チームに同行し、精霊界に向かうことをここに認めます。リーダー、春風幸奈。以下メンバー……」
申請許可証と書かれた書類を高々と掲げ、幸奈は一言一句逃さず書類の内容を読み上げていく。中庭のベンチで喜びを噛み締めている姿は、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のようだった。
「幸奈、ニヤけてるわよ」
「だって、みんなで精霊界に行けるんだよ! 色んな精霊と仲良くなれるかなぁ」
「仲良くなるのもいいけど、精霊界に行くのは課外活動なんだから。戻ってきたら課題提出があるでしょ」
「そういうのは帰ってきてから考える!」
「どんな課題を提出するかくらい決めておきなさい」
シルフからぴしゃりと言われた幸奈は、「えぇ」と難しい顔をして天を仰ぐ。
「うーん、色んな精霊と会ったっていう内容とか……あ、こういうのはどう?」
閃いたらしい幸奈の顔がパァッと明るくなる。
「なにを司る精霊なのか聞いて、人間界にどんな影響を与えてるのかを教えてもらうの!」
「……それなりにいい課題なのがなんか悔しいわね」
へへーん、と鼻を鳴らし、幸奈は再び書類に目を通し始めた。
「ちょっと、みんなを待たせてるんだから。早く鞄を取りに行くわよ」
「オッケー! 教室まで競争ね!」
シルフに小突かれた幸奈は、ぴょんと立ち上がって中庭を駆けていく。
走らないように、と心配するシルフの言葉も幸奈の耳には届いていなかった。
「お待たせー!」
幸奈の明るい声が正門に響き、その場にいた生徒たちは思わず幸奈たちに注目した。
「幸奈。声が大きい」
「ごめん、洸矢兄。ほら、見て見て!」
幸奈を制した男子生徒――祈本洸矢に向けて、幸奈は先ほどの書類を広げる。嬉々としている幸奈を見て洸矢は可笑しそうに笑みを見せた。
「分かってるだろうけど、失くすなよ」
「大丈夫、心配しないで!」
力強く頷く幸奈の横から、羽の生えた天使のような姿をした小柄な少年がひょこっと顔を覗かせた。
「幸奈さん、念願の精霊界ですね」
「そうなの! プレアも楽しみだよね?」
「もちろんです。僕も久しぶりに精霊界へ戻りますから」
洸矢と契約した精霊――プレアは幸奈に向けて微笑む。
「幸奈。その怪我どうした?」
「え?」
見ると、幸奈の額に微かに擦り切れたような傷ができていた。痛がる素振りは見せていないことから、軽傷であることはすぐに理解できた。だが、傷というものは見ていて気持ちいいものではない。
「あぁ、さっき飛び降りたからかな」
「飛び降りた!?」
ぎょっとする洸矢とプレアとは反対に、幸奈とシルフは落ち着いていた。
「ルート短縮よ。毎度付き合わされる私の身にもなって欲しいわ」
大袈裟に肩を竦めるシルフに、洸矢とプレアは安堵と苦笑が混じった笑いをこぼした。
「元気があるのはいいことだけど、気をつけろよ」
洸矢が幸奈の額に手を翳すと、翳した手から淡く暖かい光が現れて傷を包み込んだ。傷は次第に癒えていき、洸矢が手を避けると傷は完全に治っていた。
「ありがとう、洸矢兄!」
「どういたしまして。プレアにも感謝しろよ」
「プレアも、いつもありがとね」
幸奈はしゃがみ、笑顔を見せながらプレアと視線を合わせた。
「こちらこそ、僕の力が幸奈さんの助けになっているならなによりです」
祈りを司るプレアは傷を癒す力を持っている。プレアの力を受け取った洸矢だが、これまでほとんど幸奈の怪我を治すために使っていた。
「幸奈、今日は一段と元気だね」
近くの壁にもたれていた、一部始終を見守っていたらしい男子生徒が幸奈に微笑みかける。
男子生徒は洸矢より背が高く、優しそうだがどこかミステリアスな雰囲気で、浮世離れしていると形容するのが正しい容姿だった。
「でしょ! 凜くんにあたしの元気を分けてあげる!」
幸奈は立ち上がり、胸元で両手を構えて力を溜めるポーズを取る――その構えはどこかのアニメで必殺技を放つ構えに似ていた。うおぉぉ、と唸り声を上げ、「はぁー!」という掛け声と共に両手を突き出す。
両手は凜と呼ばれた男子生徒――神宮寺凜に向けられた。凜はふにゃりとした笑顔と「わぁー」と気の抜けた声で、幸奈の謎のパワーを受け止めた。
二人の戯れは幼児のごっこ遊びとそれに付き合う保護者の光景そのもので、洸矢は冷ややかな目で幸奈と凜を見やる。
「凜先輩。幸奈を甘やかさないでください」
「甘やかしてないよ。幸奈から元気をもらってるのは本当だからね」
「甘やかされてなかったら凜くんなんて呼ばないんですよ……」
一年が三年の先輩をくん呼びしませんよ、と洸矢は頭を抱える。
「それじゃあ洸矢も呼ぶ? 洸矢は二年生だから問題ないんじゃないかな」
「なんでそうなるんですか。呼びません」
のほほんとした様子の凜に、洸矢は呆れた様子で返した。
「凜くん、日向と瑞穂ちゃんは?」
「駅前の図書館に行ってるよ。戻ってきてって連絡しようか?」
「ううん。精霊界に行けるお祝いに、いつものクレープ屋さんに行きたいなって思って!」
「いいね。じゃあ駅前で待ち合わせようか」
そうしよう、と幸奈は慣れた手つきでスマホを操作し、そのまま凜を連れて歩き出した。
「……俺たちも行くか」
「……そうね」
遠ざかる幸奈と凜の背を眺めながら、シルフと洸矢は大きな溜め息をついた。
「洸矢もシルフさんも大変ですね」
「気にかけてくれるだけで有り難いわ」
シルフたちのさらに後ろから、プレアは母親のような視線で見守っていた。




