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理詰めで婚約破棄したら、相手が恋に落ちていた

作者: 住処
掲載日:2025/11/07

 王立学園の中庭に、春の陽光が降り注いでいた。


 石造りの回廊に囲まれた庭園には、色とりどりの花が咲き誇り、新入生たちの華やいだ声が響いている。貴族の子弟が集うこの学園では、社交界の縮図がそのまま再現される。家格、容姿、才能。全てが値踏みされ、序列が形成されていく場所だ。


 アリシア・フェルナンドは、その喧騒から少し離れた場所に立っていた。


 栗色の髪を後ろで一つに結い、深緑のドレスに身を包んだ彼女は、十六歳とは思えないほど落ち着いた佇まいをしている。表情には感情の起伏が乏しく、灰色の瞳は常に冷静な観察者のそれだった。


 彼女の視線の先には、学園の中央カフェテラスがあった。


 そこに、見覚えのある金髪の青年が座っている。


 リオン・アルトリウス──彼女の婚約者だ。


 侯爵家の嫡男である彼は、端正な顔立ちと穏やかな物腰で社交界でも人気が高い。五年前、両家の政略により婚約が結ばれた。アリシアにとって、それは単なる契約の一つに過ぎなかった。


 だが今、そのリオンの隣には、見知らぬ令嬢が座っている。


 桃色のドレスを着た少女は、リオンに身を寄せるようにして何かを囁いていた。リオンは微笑みながら、彼女の言葉に耳を傾けている。周囲の生徒たちも、その光景を興味津々に眺めていた。


 アリシアは静かに息を吐いた。


 感情的な動揺は、ない。


 あるのは、ただ一つの疑問だけだ。


「契約違反、ですね」


 彼女は呟くと、踵を返した。


 ---


 ## 第一幕──カフェテラスでの対峙


 翌日、アリシアは学園のカフェテラスを訪れた。


 昼休みの時間帯、テラスは多くの生徒で賑わっている。彼女が入口に立つと、何人かの視線が集まった。フェルナンド伯爵家の令嬢が、珍しく公共の場に姿を現したのだ。


 アリシアは躊躇なく、リオンのテーブルへと向かった。


「リオン様」


 彼女の声は、静かだが明瞭に響いた。


 リオンは紅茶のカップを手にしたまま、振り返る。その隣には、昨日と同じ桃色のドレスの令嬢──エリーゼ・ロシュフォールがいた。


「アリシア」


 リオンは穏やかに微笑んだ。


「どうしたんだい、こんなところに」


「お話があります。少々、お時間をいただけますか」


「ここでいいよ。エリーゼも同席してもらって構わないだろう?」


 エリーゼは不安げにリオンを見上げたが、彼は優しく彼女の肩に手を置いた。


 アリシアは表情を変えず、二人の前の椅子に腰を下ろした。周囲の生徒たちが、明らかに興味を持ってこちらを見ている。彼女はそれを承知の上で、口を開いた。


「婚約の件ですが」


「ああ、それなら心配しなくていい」


 リオンは軽い調子で答えた。


「学園では自由でいいと思うんだ。僕たちはまだ学生だし、堅苦しい約束に縛られる必要はないだろう?」


「自由、ですか」


 アリシアは静かに繰り返した。


「つまり、婚約の拘束力を一時的に無効化したい、と」


「そんな難しい言い方をしなくても」


 リオンは笑った。エリーゼも、彼に倣って小さく笑う。


「学園生活を楽しもうって話さ。アリシアだって、誰かと親しくするのは自由だよ」


「なるほど」


 アリシアは頷いた。


「では、確認させてください。リオン様は、婚約契約の一時停止を希望されている。その間、双方が他者と親密な関係を持つことを容認する、という理解でよろしいですか」


「まあ、そういうことになるかな」


「それは口頭での合意ですか、それとも書面での正式な契約変更を希望されますか」


 リオンの笑みが、わずかに硬くなった。


「アリシア、君は少し真面目すぎるよ」


「真面目なのではありません。契約を遵守しているだけです」


 アリシアは淡々と続けた。


「婚約は両家の合意により成立した正式な契約です。その内容を変更するには、当事者である私たちだけでなく、家長の承認が必要になります。リオン様のお父様、アルトリウス侯爵と、私の父、フェルナンド伯爵の同席の下で協議を行い、書面で合意事項を明文化する必要があります」


 周囲がざわめいた。


 エリーゼが青ざめた顔でリオンを見る。彼は表情を変えずに、アリシアを見つめていた。


「それは、つまり」


「婚約破棄の正式な手続きを踏みたい、ということです」


 アリシアは明確に言い切った。


「リオン様が他の方と親密になることを望まれるなら、私との婚約は障害になります。ですから、きちんと解消しましょう。法的にも、社交界的にも、問題のない形で」


「アリシア」


 リオンの声が、初めて低くなった。


「それは本気で言っているのか」


「本気以外で、このような場で申し上げることはありません」


 アリシアは立ち上がった。


「では、正式な協議の日程調整を、後日お知らせします。失礼いたします」


 彼女は一礼すると、踵を返した。


 背後で、エリーゼの慌てた声と、リオンの静かな声が聞こえたが、アリシアは振り返らなかった。


 ---


 三日後、フェルナンド伯爵邸の応接室に、四人が集まった。


 アリシアの父、ヴィクトル・フェルナンドは、五十代半ばの厳格な顔つきの男だ。灰色の髪と口髭を整え、濃紺の礼服に身を包んでいる。彼は娘の隣に座り、向かいのアルトリウス侯爵とリオンを見据えていた。


「では、本日の議題は、アリシアとリオン殿の婚約解消について、ということでよろしいですな」


 ヴィクトルの声は、重く響いた。


 アルトリウス侯爵は、リオンよりも更に穏やかな表情の男だが、その目は鋭い。


「その前に、確認させていただきたい。アリシア嬢、婚約解消を望む理由は何かね」


「リオン様が、学園で他の令嬢と親密にされていたためです」


 アリシアは即答した。


「婚約者がいる状態で、公然と他の女性と親しくする行為は、契約の精神に反します。また、それを正当化するために『学園では自由』という独自の解釈を持ち出されました。これは、契約内容の一方的な変更を要求するものです」


「リオン」


 侯爵が息子を見た。


「事実か」


「はい」


 リオンは頷いた。


「ただ、僕は婚約を破棄したいわけではありません。ただ、学園生活の間だけ、少し自由にしたかっただけで」


「自由にしたい、とは具体的にどういう意味だ」


「その、エリーゼという子と仲良くしたくて」


「婚約者がいながら、他の令嬢と仲良くしたい、と」


 侯爵の声が冷たくなった。


「それは、つまり浮気をしたい、ということだな」


「そんな、違います!」


 リオンが慌てて否定する。エリーゼとは、ただ友人として──」


「友人として親密にするなら、婚約者であるアリシア嬢に事前に説明し、了承を得るべきだったな」


 侯爵は溜息をついた。


「リオン、お前は社交界の常識を理解していない。婚約とは、単なる恋愛感情の問題ではない。家同士の信用、評判、全てが関わってくるのだ」


「しかし、父上──」


「黙れ」


 侯爵の一言で、リオンは口を閉じた。


 侯爵はアリシアを見た。


「アリシア嬢、婚約解消を望まれるのであれば、当家としても異存はない。ただし、条件がある」


「お聞かせください」


「解消の理由は、リオンの契約違反とする。慰謝料として、金貨五百枚をフェルナンド家に支払う。また、この件について、双方が第三者に不利な情報を流さないという沈黙条項を設ける。よろしいか」


 アリシアは父を見た。ヴィクトルは小さく頷く。


「承知いたしました」


「では、書面を作成する。一週間後に、正式な調印を行おう」


 侯爵は立ち上がった。


「リオン、帰るぞ」


「父上、しかし──」


「黙って従え」


 侯爵は息子を促し、部屋を出て行った。


 扉が閉まると、ヴィクトルは娘を見た。


「アリシア、本当にこれでいいのか」


「はい」


 アリシアは頷いた。


「感情に流されて判断を誤るよりは、合理的な選択をする方が良いと思います」


「そうか」


 ヴィクトルは娘の頭に手を置いた。


「お前は、本当に強い子だ」


 その言葉に、アリシアは何も答えなかった。


 ---


 一週間後、婚約破棄の調印が無事に完了した。


 アリシアは自室で、解消証明書を眺めていた。羊皮紙に記された文字は、彼女の新しい自由を意味している。


「お嬢様」


 扉がノックされ、彼女の従者であるセラが入ってきた。


 セラは、アリシアと同い年の少女だ。明るい茶色の髪を三つ編みにし、メイド服を着ている。彼女は幼い頃からアリシアに仕えており、単なる使用人以上の関係を築いていた。


「調印、無事に終わったんですね」


「ええ」


 アリシアは証明書を机の引き出しにしまった。


「これで、リオン様との関係は正式に解消されました」


「でも、お嬢様」


 セラは少し躊躇してから、続けた。


「本当に、これで良かったんですか」


「何が問題なの」


「だって、お嬢様、本当はリオン様のことを──」


「私が彼に感情を抱いているとでも?」


 アリシアは首を振った。


「そんなことはありません。彼は単なる契約相手でした。それ以上でも、それ以下でもありません」


「でも──」


「セラ」


 アリシアは従者を見た。


「私には、感情よりも大切なものがあります。それは、自分の意志で人生を選ぶこと。誰かに依存せず、自分の力で生きていくこと。そのためには、感情に流されてはいけないのです」


 セラは黙って頷いた。


 その夜、セラは自室で密かに手紙を書いていた。


 宛先は、アルトリウス侯爵邸。


 内容は、学園で起きているある噂についてだった。


 エリーゼ・ロシュフォール令嬢が、実は複数の男子生徒と親密にしていること。彼女が近づく相手は、決まって裕福な家の子息であること。そして、彼女の家が多額の借金を抱えていること──。


 セラは手紙を封筒に入れ、密かに使者に託した。


 これは、お嬢様のためだ。


 彼女はそう自分に言い聞かせながら、ろうそくの火を消した。


 ---


 翌週、学園中に衝撃が走った。


 エリーゼ・ロシュフォール令嬢が、複数の男子生徒から金銭を借りていたことが発覚したのだ。彼女は親密になった相手から、次々と「一時的な援助」を求めており、その総額は金貨百枚を超えていた。


 さらに、彼女の家が破産寸前であることも明らかになった。


 エリーゼは学園を去り、ロシュフォール家は社交界から姿を消した。


 そして、リオンもまた、沈黙を守っていた。


 アリシアは図書館で、この一連の騒動を傍観していた。感情的な反応は、やはりない。ただ、一つだけ疑問があった。


 なぜ、この情報がこのタイミングで流れたのか。


「アリシア」


 声をかけられて振り返ると、リオンが立っていた。


 彼は少し疲れた表情をしているが、目は真剣だった。


「話がある」


「何でしょうか」


「婚約破棄のこと──いや、その前のことだ」


 リオンは椅子に座った。


「エリーゼのことは、僕も知らなかった。彼女がそんな状況だったなんて」


「そうですか」


「でも、それ以上に、君に謝らなければならないことがある」


 リオンは真っ直ぐにアリシアを見た。


「僕は、君を試していた」


「試していた?」


「ああ。君が、僕に対してどんな感情を持っているのか知りたかった。だから、わざとエリーゼと親しくして、君の反応を見ようとしたんだ」


 アリシアは静かに息を吐いた。


「それは、最悪の方法ですね」


「分かってる」


 リオンは苦笑した。


「でも、君はいつも冷静で、何を考えているのか分からなかった。婚約してから五年、君は一度も僕に感情的な反応を示さなかった。だから、僕は不安だったんだ」


「不安?」


「ああ。君が、本当に僕を婚約者として見ているのか。それとも、ただの契約相手としか思っていないのか」


 リオンは立ち上がり、アリシアの目の前に立った。


「でも、君の対応を見て分かった。君は、感情を押し殺しているんじゃない。本当に、契約として僕を見ていたんだ」


「その通りです」


 アリシアは頷いた。


「私にとって、婚約とは契約です。感情は、必要ありません」


「それでも──」


 リオンは彼女の手を取った。


「僕は、君に恋をしている」


 アリシアの瞳が、わずかに揺れた。


「五年前、初めて君に会った時から、ずっとだ。でも、君があまりにも冷静で、合理的で、僕はどう接していいか分からなかった。だから、あんな愚かなことをしてしまった」


「リオン様──」


「もう一度、婚約してくれないか」


 リオンは真剣な目で言った。


「今度は、契約じゃない。僕の意志で、君を選びたい」


 アリシアは彼の手を静かに振り払った。


「お断りします」


「アリシア──」


「私は、感情で人生を選びたくありません」


 彼女は立ち上がった。


「それに、リオン様は勘違いをしています。私が冷静なのは、感情を押し殺しているからではありません。ただ、感情を持っていないだけです」


「そんなことは──」


「私には、幼い頃の記憶がほとんどありません」


 アリシアは静かに語り始めた。


「覚えているのは、暗い部屋と、冷たい床と、誰かの罵声だけです。その後、王族の方に保護されて、フェルナンド家に引き取られました。父は、私に多くのことを教えてくれました。読み書き、計算、魔法、社交術。そして、一番大切なこと──『欲しいものは、自分で掴め』と」


 リオンは黙って聞いていた。


「私は、感情を失ったわけではありません。最初から、持っていなかっただけです。だから、恋愛というものが理解できません。ただ、契約と手続きだけが、私にとっての確かなものなのです」


「それでも──」


 リオンは一歩、彼女に近づいた。


「僕は、君を愛している。それは、変わらない」


 アリシアは彼を見上げた。


 そして、初めて──本当に初めて、彼女の瞳に、わずかな感情が浮かんだ。


「それは、あなたの自由です」


 彼女は静かに言った。


「でも、私があなたを愛せるかどうかは、分かりません」


「それでもいい」


 リオンは微笑んだ。


「君が、いつか僕を選んでくれる日まで、待つから」


 アリシアは何も答えなかった。


 ただ、心の奥底で──ほんの少しだけ、温かいものが芽生えたような気がした。


 それが何なのか、彼女にはまだ分からなかった。


 ---



 それから半年後。


 アリシアとリオンは、再び婚約した。


 ただし、今度は両家の政略ではなく、二人の意志による契約だった。


 契約書には、こう記されている。


「双方は、互いの自由を尊重する」

「感情の強制は行わない」

「抱擁および肉体的接触は、双方の合意がある場合のみ」


 そして、最後の一文。


「この契約は、双方が『愛している』と宣言した時点で、無効となる」


 アリシアは、その契約書にサインをしながら、ふと思った。


 いつか、この契約が無効になる日が来るのだろうか。


 その答えは、まだ分からない。


 でも、リオンの隣にいると──ほんの少しだけ、心が温かくなる。


 それが恋なのか、それとも別の何かなのか。


 アリシアには、まだ分からなかった。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 彼女は、自分の意志で、この道を選んだのだ。


 誰かに押し付けられたのではない。


 感情に流されたのでもない。


 自分で、選んだのだ。


 それが、彼女にとっての──初めての、本当の自由だった。

最後まで読んでいただきありがとうございます!

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