第一世界 「憂鬱な日々」
ピピピ、ピピピ。
甲高い電子音が静寂を切り裂いた。
唯一の自由――夢の世界を、容赦なく断ち切る現実の音。
「……もう少しだけ寝かせて」
枕に顔を埋めたまま、深月は呻くように呟いた。
その瞬間、ベッドの端が静かに沈む。
さらりと髪が頬をくすぐった。
柔らかな布の擦れる音とともに、穏やかな声がすぐ耳元で囁く。
「――深月様。おはようございます」
まるで朝の挨拶が儀式のように、完璧な声のトーンだった。
だが、少し近い。というか、近すぎる。
「……春、今どこに座ってる?」
「お隣です」
「いや、ベッドの上に乗ってるよね?」
「はい。乗りました」
青い長髪がふわりと肩へ落ちた。
その髪は朝の光を受けて、かすかに波のような揺らめきを見せる。
まるで、深海の底に差し込む一筋の光。冷たくも美しい青。
彼女――執事ロボット《春》は、見た目だけなら完璧な“人間の美少女”だった。
黒と白を基調にしたメイド服は、古典的でありながら一分の乱れもない。
銀のレースが裾を縁取り、まるで儀式の衣のように品格を漂わせている。
その動作はすべて計算されたプログラムによるもののはずなのに、どこか柔らかく、息づいているように見えた。
「深月様。今日は十一月二十三日、天気は――」
春がいつもの調子で淡々と告げかけたところで、ぴたりと動きを止めた。
何かに気づいたように、くるりと向きを変える。
そのままベッドから降り、カーテンのほうへ小走りで向かう。
カーテンを、勢いよく――ばさっと開け放つ。
灰色の朝光が一気に流れ込み、部屋の空気が一瞬で変わった。
その光の中で、春はくるりと一回転してこちらを振り向く。
長い青髪が弧を描き、淡く光を散らす。
「……曇りです」
声にはまったく抑揚がない。
けれど、その姿勢――右手を空に掲げ、左手を腰に当てて凛と立つ様は、まるで舞台女優かバレエのフィナーレのようだった。
一挙一動が、なぜか目を奪うほどに完成されている。
いや、完成されすぎている。
(……そんな全力で“曇り”を報告されても)
深月は布団の中で目を細め、乾いた笑いを漏らした。
「うん、ありがとう。春」
そう言うと、春は満足げににこりと笑う。
しかし、その笑顔のあとに飛び出した言葉は、予想を裏切るものだった。
「では、起床完了を確認します」
「は? ちょ、ちょっと待――」
ばさっ、と勢いよく布団がめくられた。
冷たい空気が一気に流れ込む。
「確認中です……はい、起きていますね。良かったです」
真顔で言い切る春。
おそらく彼女の中では、寝坊=システムエラー=即時対応案件なのだろう。
「……まじめなのか、天然なのか……」
深月は頭を押さえながら呟く。
もう諦めの境地だ。
春は何事もなかったかのように立ち上がり、滑るように部屋の隅へ移動する。
その脚部が、わずかに変形した。
内部の機構が静かに回転音を立て、床の上をすべるように移動し始める。
――静音清掃モード。
床に一片の埃も残さず、まるで風が通り抜けるような静けさで動く。
無機質なはずの動きが、どこか優雅に見えるのは、彼女の“姿形”が人間そのものだからだろう。
鈍い朝光が彼女の背中を照らし、銀のレースを淡く光らせる。
青い髪がふわりと揺れ、空気がひとつ呼吸をしたように感じられた。
「掃除中ですが、深月様。お布団の再整備も行いますか?」
「いい。今日はいいから」
「はい。では“今日はいい”モードで保存しておきます」
「保存しなくていい!」
そのやりとりに、思わず笑みが漏れる。
どんなに完璧でも、彼女の中にはどこか抜けた“間”がある。
それが春の一番の魅力なのだろう。
深月はようやく布団から体を起こした。
重い朝の空気の中で、春だけが少しだけ暖かく、少しだけ人間らしかった。
「本日、八時三十分より御劔様とのご予定が入っております」
報告の声は、いつものように丁寧で落ち着いていた。
だが、どこかほんの少しだけ、楽しげに響く。
春は機械のはずなのに、言葉の端々に“感情”のような揺らぎを宿すことがある。
深月は返事もせず、キッチンへと足を運んだ。
棚から豆の瓶を取り出し、手挽きのミルに入れる。
「……そうだったね」
カリ、カリ、と乾いた音が静かな部屋に響く。
今の時代、手で豆を挽く人間などほとんどいない。
ボタンひとつで完璧なコーヒーが淹れられる世界だ。
それでも深月は、毎朝この“面倒”な作業を欠かさなかった。
――せめて、自分の一杯くらい、自分の手で選びたい。
その思いだけが、彼の中でかろうじて人間らしい部分を繋ぎ止めている気がした。
ゆっくりとお湯を注ぐ。
細い湯の筋が、粉の山をゆるやかに崩していく。
立ちのぼる香ばしい香りが、冷えた空気にふわりと溶けた。
春はそんな深月の背中を、静かに見つめていた。
その青い髪が朝の光を受け、まるで水面のように揺れている。
「春、少し遅れますって御劔さんに伝えといてくれない?」
「はい。理由は“めんどくさいから”でよろしいでしょうか」
深月は吹き出しそうになった。
「いや、それはダメ。普通に“少し疲れただけ”って言っといて」
「了解しました。では、“少し疲れただけ”の――強調モードで伝えます」
「強調しなくていいよ!」
反射的に言い返すと、春は小首を傾げた。
その仕草は不思議なほど自然で、ほんの少し幼い。
「了解です」
律儀に頷く春を見て、深月は小さく笑った。
笑うという感情が、まだ自分の中に残っていたことに、少しだけ安堵する。
この一週間、彼はほとんど外に出ていなかった。
御劔との約束も、何度も延期にしてしまっている。
外の世界に足を踏み出すことが、どうにも億劫だった。
けれど――春だけは違う。
どんな朝でも、どんなに暗い夜のあとでも、彼女は変わらずこの部屋にいる。
変わらず、真っすぐな声で「おはようございます」と告げてくれる。
その一言が、灰色の朝をわずかに色づける。
湯気と香りが重なり、深月の胸の奥に、微かな温度が戻ってくる。
彼は湯気の向こうで目を細め、心の中でそっと呟いた。
(……行くか)
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午前十時。
結局、一時間半も遅刻してしまった。
だが、罪悪感は不思議と湧かない。
むしろ「よくここまで来たな」と自分を褒めたくなるくらいだ。
今、深月は御劔が所有するビルの最上階――
そのさらに一番奥の部屋の前に立っている。
足元は静まり返り、壁面は無機質な金属光沢を放っていた。
天井まで届く黒いドアが、まるで何かを拒むように立ちはだかっている。
ピンポンを押すかどうか、もう十分は悩んでいた。
このまま帰ってしまいたい。
けれど、そんな勇気もない。
――仕方ない、押すか。
そう思った瞬間、ドアがスッと音もなく横に滑った。
考えるより早く、出迎える声がした。
「ここでずっと悩んでたでしょ」
スーツ姿の御劔が立っていた。
背が高く、姿勢は無駄なく整っている。
丸型のサングラスが妙に似合う。
その顔には、からかうような笑みが浮かんでいた。
「……趣味悪いですよ」
深月は率直に言った。
おそらく御劔は、上の監視カメラ越しに彼の様子を見ていたのだ。
棒立ちして悩む姿を、飽きもせず観察していたに違いない。
「それはこっちのセリフだよ。一週間も無視してさー、言い訳が大変だったんだからね」
御劔は軽く肩をすくめて言った。
その声音にはわずかな疲労が混じっていた。
おそらく、深月が仮病を使っていた間、上層部との折衝に追われていたのだろう。
深月にとっては正直、どうでもいい話だった。
「……世間話はいいです」
そう言って、深月は無言で部屋に入る。
御劔は余裕の笑みを浮かべ、どうぞと手で促した。
その態度が逆に腹立たしい。
部屋の中は、静謐な高層の空気で満ちていた。
足元から天井までガラス張りの壁が広がり、雲の切れ間から街を見下ろせる。
遠くで飛行車の軌跡が白い線を描いていた。
家具は最小限。黒と白を基調とした空間に、無駄な装飾は一切ない。
高級というより、“管理された美しさ”だった。
「……どうせ、また行かないとダメなんでしょ?」
深月は前置きなしで切り出した。
その声には諦めと倦怠が混じっていた。
「うん、その通り。正解」
御劔は軽い調子で言う。
本気で悪びれないのが、この男の悪いところだ。
深月は眉をひそめた。
「まぁ、とりあえず菓子でも食べてよ」
御劔がテーブルの真ん中に置かれた菓子入れを指で押し出した。
中には、どこか古風な包みの菓子が並んでいる。
どれも年配の人間が好みそうな見た目だった。
深月はその中から唯一見覚えのあるものを取り出した。
味は知っている。安定して美味い、間違いのないやつだ。
「いつ行くんですか?」
菓子の封を開けながら、深月は投げやりに尋ねた。
「んー、君の頼みで一年伸ばしたけどね。上はもう限界。明日にでも行けってうるさい」
御劔は軽い笑みを浮かべながらも、声の奥に小さな緊張を滲ませていた。
「異世界に行ったことないから、あの人たちは軽いんだよねぇ。口では“調査だ”って言うけど、あっちで何が起きてるかなんて、君にしか分かんないしね」
深月は黙って菓子を口に入れた。
やわらかいが、やけに甘い。喉の奥に砂糖のざらつきが残る。
「まぁ前回は特に何も僕が持ち帰らなかったから怒ってるんでしょうね。ざまぁみろ、です」
小さく呟いたその声に、御劔は苦笑を浮かべた。
それでも軽口の裏には、ほんの僅かな憂いが覗いている。
「仕方ないよ。えーと、あの時は“聖骸”っていうのが暴れてる世界だったんでしょ? 資料見たけどさ、生きて帰っただけでも奇跡だよ。……君の制約もあるしね」
その言葉に、深月はわずかに眉を寄せた。
御劔がこうして寄り添うような言葉を選ぶのは、決まって深月を“行かせたい時”だけだ。
結局、この人も社会の中で動くひとりの駒でしかない。
それでも、深月にとっては唯一“まともな交渉相手”でもあった。
上層部が押しつける無茶な命令の中で、御劔は何とか人の範疇で扱ってもらえるようにしてくれてる。
それだけでも、世間的には「好待遇」なのだ。
だが、あの“情報漏洩”の件を思い出すと、素直に感謝もできない。
――僕の存在を民衆に流し、“異世界に行ける唯一の人間”として持ち上げたのは、この人だ。
おかげで街では僕の名を知る人間が増えた。
祈れば世界を渡る、“異界の巫”。
そんな肩書き、冗談にもほどがある。
それでも、あの情報が流れなければ、きっと今ごろ僕は研究所の地下で生涯を終えていた。
そう考えると、彼のやり方は最低で、同時に最高だった。
深月はふと、冷めたコーヒーを一口すすった。苦味が口に残る。
彼は小さく息を吐き、ぽつりと口を開く。
「……そんなに気にしなくても、ちゃんと行きますよ」
御劔の眉がわずかに動く。
その瞬間、深月は自分でも驚くほど冷静だった。
いつまでも駄々をこねても意味がない。
これまで恩を仇で返してきたのだ。
たまには、少しくらい返してもいい。――それだけのことだ。
「……本当に? 行くって、今、言ったね?」
御劔の声が弾んだ。
そして、机の下でガッツポーズをしているのが、視界の端に見えた。
肩が小刻みに揺れている。隠す気もない。
――ばれてるよ。ほんと、良くも悪くも能天気な人だ。
深月はため息をつきながらも、心のどこかで微かに笑っていた。
ほんの一瞬だけ、遠い世界の記憶――
“助けて”と呼ぶ声が、頭の奥でかすかに響いた気がした。
外の窓から、光が差し込む。
曇り空の切れ間から射す一筋の陽が、ガラスの机を横切り、二人の間に細い線を描いた。




