二〇一六年 八月一二日
「てかさてかさ。あ、ミナコってグロいの大丈夫だっけ」
背の高い方の吹奏楽部員女子が、片一方の女子にそう問いかけた。
「わたし全然大丈夫だよ、むしろ好きくらい。」
「マジか」男子二人が息を揃えて反応する。
「いや、ならいいけどさ。あのー、実は昨日うちで無死体出たんだよね。」
「え、マジか」また彼らは声を揃えて飛び上がるようにリアクションする。彼らの学生鞄はいつもサイコロのように膨れ上がっており、各々がそれらを寄せるようにして地面に置いていた。古びた線路は時折不規則な揺れを車両に齎し、それによって彼らの鞄は一様に傾く。季節が過ぎ、僅かにではあるが斜陽の寿命は伸びつつある。まだ完全に夕陽の色になりきっていない太陽がその様子を照らし出していた。
「いやさ昨日さ、リナと明日の正弦定理の小テストの勉強しよって通話してたら、キッチンの方からなんか鍋ひっくり返すみたいな音聞こえてさ。扉閉じてたからあんまりおっきい音だとも思わなくて、『なんだろねー』って無視して勉強続けてたんだけど、ナオが『お姉ちゃん!』って慌てて半泣きで部屋入ってきて腕引っ張るから何だろって思ってキッチン行ったらさ、」
「あったんだ」
「そう。でさ、無死体なんか沸かしてた鍋のお湯、全部被ったみたいでめっちゃグロくて。皮膚とかもう全部真っ赤で、目も開いてた。」
「ナオちゃんってまだ小学三年生くらいだよね?可哀想、」
「絶対トラウマなったじゃん」
「そう。ほんとに最悪、まだ朝怖がってたし。寝る時もお母さんにずっとくっついてた」
トンネルに入る前に、列車は大きなカーブに差し掛かる。太陽の光の差し込む角度が変わって、私の方へそれは真っ直ぐ、瞬間的に飛び込んでくる。揺らされ、新喜劇のように一様に蹌踉めく彼ら、それからコロコロとした彼らの鞄はその光のためにシルエットとなる。眩しさに目を細めれば、そのシルエットと車窓から見える空との境界も曖昧になる。その適当さが好きだった。
コインシャワーは二十四時間空いており、しかしこれほど夜遅い時間帯に来るのは久しぶりだった。脱いだ服を畳んでタオルを用意し、タイマーをセルフでセットしてコインを入れて、いつもの比率で赤、青の印がついた蛇口を捻ると、いつもと同じ冷たい水がヘッドから放たれる。私の皮膚上を走り抜けていった水が排水口へと流れ込んでいく音を、目を閉じて聞く。今日も死体が見つかった。それは事務所からそう遠くないマンションの一室にあった腐敗もまだ進んでいない無死体で、処理は楽だったとはいえやはり無死体を直視するのには些かの精神疲労は避けられないようである。太った女性の外見であった無死体の顔、表情は私の脳裏に聢とこびりついた。瘴気のようなものを付着させているような気がして、それを家にあげたくなかったので、こうしてシャワーを浴びにきたというわけである。腐敗した皮膚がフラッシュバック仕掛けた私は頭を振って、代わりに昨日の思い出にいしきをふぉーかすさせる。プチ旅行みたいで楽しかったな、と思った。久しく山にようなところに入っていなかったし、また久しぶりに自然の水の音を聴くことができたのだ。記憶とはいえ薄れていくもの、実際の音声を再び聴くことは回想の明瞭さを蘇らせる。
私こんな性格であるが故に、高校でも友達の多い方ではなかった。勿論、少人数だが仲のいいグループはあったが、卒業後のに国立後期を受験する、また県外に出ていくメンバーが多かったために残念ながらその面子での卒業旅行はなくなってしまったのだった。だから遠出、或いはそれは冒険でもあったのだがそういうものを他人と共有する経験が、私にとってはひどく懐かしいものだった。やがてタイマーが鳴った。鳴る前に撤退することが殆どだったので、こんな音だっけ、と小首を傾げた。
何の気なしに帰り道にスマホを覗くと、通知が来ていた。
『件名:おす
ヒマ。付き合え。---21:49』
何故か命令口調で綴られていたメールがホームに表示されていた。タオルをクビにかけ直してから「うす」とだけ返信をして、ほぼ手ぶらのジャージ姿のままピアスさんの家に向かった。
やっぱり彼女は堤防の上に立っていた。しかも右手にはもう開けられたストロング缶が握られており、何故か左手にはオレンジ色のギター、レスポールがあった。片手で持つので堤防の上で彼女は蹌踉めいていた。お酒も入っているのだろう。あまり海風に晒すのでは弦に良くないのではと思いつつ、ひとまず彼女の隣に腰を下ろした。
「ウチさ、元々ギター先に買ってたんだけど、リードいけるのにコード弾けなくてベースに移行したんだよな」よっこらせ、と彼女は座って長い足を組み、情けないCコードを鳴らした。
「普通逆じゃないですか?」
「いや、だよな。その時のギターだけど久しぶりに弾こうかなって」喉を鳴らしてまた一口、右手に握っていたそれを飲む。穏やかな波の打つ音とともに磯の香りが押し寄せる。「弾く?」と彼女は私にピックとレスポールを差し出した。受け取って軽く指板を押さえてみると、成程、フレットの感触から明らかにレプリカであることからわかった。勿論私が暫く触っていなかったために腕を落としたのもあったが、変なナリもあった。弦もなんだかカピカピしている。同じくCを押さえて鳴らそうとした時に、渡された青いピックがピック弾きベース用で、みたこともないくらい分厚いのに気がついた。それがなぜかツボで、「なんですかこれ」と私はしばらく笑っていた。取り敢えず身に染みているリフを、適当に弾いてみた。
「feelだ、GEZANの。」ピアスさんは直ぐに解答した。私よりも早かったので驚いた。
「好きなんですか?」
「めっちゃ好きなわけでもないんだけど、あのアルバムなんか単純に夏になったら聴きたくなるんだよ。今さっき家帰った時に見つけて、明日車で流そうと思ってた。」
「ジャストタイミングだ」
「うん、なんかウチ、昔聴いてた曲をノスタルジーに浸るためだけにもう一回聴くことに何か抵抗がずっとあったんだけど、なんか季節に結びついた意識とか、意志とかみたいなのだけがこうあって、経過は感じるけど、終わりは感じないみたいな。feelとかは正にそういうのにマッチしててずっと聴ける。」
「なんかわかります、多分。そこに集約されている何かをまた見られる。前のその季節とかを知覚して」アンプを通していないペラペラな音だったが、口ずさんで歌うには十分だった。
「ウチはさ、不幸がアイデンティティだったんだよ。」歌い終えて横をみると、彼女はもう暗くなって見えなくなってしまったはずの水平線を眺めるような遠い眼差しを、前方に向けていた。マンションから発される幽かな白い光だけが、彼女の横顔を仄かに暗闇に映し出す。
「だから不幸じゃなくなっちゃったら、もうそれウチじゃないみたいに思えて、幸せになりそうな予感でもあろうものなら、必ず癇癪起こしてその予感を全部グチャグチャにしちゃうんだ。それもほぼ無意識でそんなことやってるから、次またそれから生み出された責任とか、自己嫌悪とかを受難みたく受け取って闘ってるフリする。闘ってるって実感で自分ヨシヨシして、それだけで生きてきたんだよな。しかも本当に致し方のないバカだから、自分がめちゃくちゃにした現実が自己催眠みたいになって、その鬱でマジで動けなくなったりするんだよ。まあ、小学生くらいの時から親なんてほとんど家いなかったし、周りが楽しそうに遊んでる間も勉強勉強、塾塾で友達もできなかったし。でも中途半端に頭は動くし割とガキの頃から『ウチって可哀想』って気づいてたんだ。可愛げないけど。そんで、家出した。でもそのタイミングっていうのが、母親とちゃんと話せた後だったんだよな。お母さんは、自分の中ではずっと分かり合えない不幸せの元凶だったから、思いの丈ぶつけた時にあっさり『ごめん、私が悪かった』って言われて拍子抜けしたんだよ。号泣したりなんかもしちゃってさ。だから、それで悪役がいなくなっちゃったんだ。ウチの大事な孤独も消えちゃった。本当のところ勉強の束縛に耐えきれなかったんじゃなくて、家出してるってドラマだけが欲しかっただけだったんだよ。きっと。」指輪のたくさんついた右手を回すように振って、缶の中に残った液体をチャパチャパと鳴らす。
「家を出た後は結局前から通ってたライブハウスにバイト半分の居候みたいな感じで住み着いて、気になって話しかけてくれたそこの出演者だったベースのいなかったバンドに、たまたま入った。私以外全員高校生のコピバンでみんな楽器うまかったけど、オリジナルやりたかったみたいで、ちっちゃい頃ピアノしてたんで音感はあったからウチが曲作ってみたんだ。そしたらすっごいメンバーに褒められて。初めて人にあんなに評価された。ベースはまあまあ悲惨なくらい下手くそだったけど、一番ちっちゃいのが曲作ってるバンドっていうので半年もすればハウスの中で結構のし上がってった。MCでも年相応のこと言えばチヤホヤされるし、対バン相手からも何回か『俺らにも曲書いてよ』って言われたし、しかもみんな年上なんだ。物憂げな天才ムーブかましてたけどあの時が本質的には一番幸せだったかもしれない。だってそれでもウチは家を飛び出した家出少女で『可哀想な子』だから。
そっから半年くらいしてライブに急にお母さん来たんだよ。初めてやる全部ウチのオリジナル曲のライブだった。客も一番多かった。ライブの後、私はバイト兼任だから片付けるまでがルーチンだったんだけど、その日は何か打ち上げしようってメンバーもウチを連れて行くために残ってくれてたんだ。そしたら、モップかけてた時にマスターがお母さん連れてきてさ。いきなり抱きつかれて、『こんな才能もあるなんて気が付かなかった、輝いてて本当に良かった』って言われたよ。また、ウチの独りぼっちが亡くなった。今まで気にならなかったメンバーのよかったなっていう涙ぐんだ目線も、へし折ってやりたいくらい意識してきちゃってその日は一日中その後黙ってた。しかもそのライブ、割と中堅くらいのレーベル主催が来てたみたいで、音源出さないかって誘われたんだ。リーダーがウチに話す前に快諾してた。それだって思って『レーベルから音源を出すようじゃ、今まで自分が作った曲の本質をまるで分かってない。ふざけるな』みたいな意味深で、本当は意味ない理由だけ言い放ってバンドはやめた。そっから家に戻って適当な高校に入った。
天才はそれで守られたって思ってたけど、実は私が抜けてしばらくしてからそのバンドちょっと売れてんだよね。ウチの曲じゃなくて、リーダーがイチから勉強して作った曲で。ラジオに出てたから聴いてみれば、ちょくちょくウチの話してんだよ。『消息がわからなくなった天才』みたいな感じで。それでウチが最後に参加してた昔のライブ音源が流れたんだけど、ウチの曲はまあ平凡で凡庸で面白くもない曲だった。ウチが抜けた後の曲の方が全然良かった。パーソナリティが言ってた『中学生なのに、これは天才やな』が真実だと思った。中学生だったから天才だったんだって、根本が馬鹿だからその時に初めて気がついたんだ。」
いつのまにか、ピアスさんの声には啜り泣くようなニュアンスが混じってきていた。「ずっと負けた気がしてて、砂噛むみたいな思いだったけど逆にまたそれがウチのアイデンティティになってた。でも、今になってこうやって満たされて、その悔しさも薄れてきたんだ。多分馬鹿だから、ウチはまた何かぶっ壊すよ。幸せになりたいって言ってるのに、一方的にたくさん与えられなきゃ受容できないんだ。小さな幸せはたくさんあるだろうに、全部無視してる。勝手に自分で幸せのハードル上げて、希死念慮を個性だなんて呼んで浸ってんだ。こういうバカがきっと、最後孤独も抱けない独りぼっちになって死ぬんだろうな。というか今まさにそうなんだよ。自分で作った不幸せとバトルする気力すらもあんまりない。」あーくそ、と襟足の長い髪の毛を掻きむしって、もう中身のなくなった缶を海へと放り投げた。弧を描くような軌跡で、それは十二時を過ぎた海の真っ黒に消え失せた。波の音が聞こえるだけで、それが海に落ちる音は聞こえなかった。
「でも、それが分かってたらもう壊さないんじゃないんですか?」
「わかんない。これを蒼空に話して、また鬱に浸ってるだけかもしれない。」
「じゃあ私が代わりにヨシヨシしますから、」レスポールを横たえて彼女のウルフカットを撫でた。「うわ、ウチ情け無」と彼女は赤らんだ目で、はにかんでみせた。