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二〇一六年 八月一一日

 山の日だという。学校という或る種のから切り離されると曜日感覚というものは著しく欠如してしまうが、祝日を「何の休みであるのか」と気にしなくなってしまったのはいつからだったのだろうと、毛布の中から赤い日付の日めくりカレンダーを横向きの視界に映して思う。カーテンの隙間から白い太陽が真っ直ぐにそこに差していて、日付けの文字そのものが赤く光っているようにも思えた。布団を蹴り上げて、無理矢理にでも状態を起こす。今日は昼からというだけで通常通りバイトもある。日が循環していることにほっとした。早くも蝉が鳴いていて、窓からジリジリとした暑さの片鱗を感じる。それから逃げるようにしてキッチンへと向かい、トーストを電子レンジに一枚入れて扉を閉めた時に、その閉まる音とタイミングを同じくして呼び鈴が鳴った。郵便だろうか。北原白秋の詩を思い出したけど、彼の部屋はきっともっとお上品であったに違いない。床にまた散らばった割り箸や封筒を踏み越えて玄関へと向かった。


 エントランスに着くと丁度初老のお婆さんが自動ドアを開いて中へと入っていくところだったので、それに続いてマンションに入って階段で三階まで上がっていく。

 届いたのは実家からの仕送りだった。仕送りとは言ってもそれは料理に積極的でない母の食べきれなかった保存食品が一括で送られてくるイベントのようなもので、量や好みからいつも私はその消費に困った。今日入っていたのは殆どが缶詰か瓶に入った漬物だった。中でも一番に目についたのは大きすぎる緑色の瓶に詰められたピクルスだった。パッケージのデザインから海外の良いものであることは判断し得たが生憎私はピクルスが苦手であった。溜息混じりに段ボールからその消費もできない商品らを取り出していき、家の中に余計なものが増えていく様子を何もできずに口惜しく感じていた時に、そういえばピアスさんが弁当にいつもピクルスを入れていたことを思い出した。これはサプライズするしかないと、瓶を両手にここまで歩いてきたわけである。

 303、304と金属プレートに刻印された部屋番号を見聞しながら廊下を歩き、305のインターホンを押そうとした時だった。ドア越しにもわかるほどの音量で何かが、ガラスのようなものが割れる音が部屋より聞こえた。伸ばした指が止まる。何か話し声のようなものも聞こえて、思わず耳を傾けてしまった。

「だからさ、逃げただけのやつが今更になって首突っ込むのがムカつくって言ってんの。ウチは別にチャレンジ台じゃない。」「善意に対して腹立ってるんじゃなくて、知ったような口でウチのこと語るなよ。友達以上でも未満でも何でもないだろうが。ウチが悪いよ、もう。」「やっぱりだとか、だからそういうことを言うなって。もういい、切る。」ヒステリックに響いていた怒号の主は、確かにピアスさんだった。初めて彼女がそのように声を荒げているのを聞いて、驚きよりかは心配の方が勝り私は無意識に扉をノックしていた。近づいてくる足音が少し荒々しいようにも思えて、少し身構えてしまう。扉が開く音と同時に鼻を啜る音も聞こえて、赤らんだ目のピアスさんが顔を覗かせた。

「あー、蒼空じゃん」強張った彼女の表情筋が緩んでいくのが明確にわかって、胸を撫で下ろす。片手に持った携帯電話の画面には「通話履歴」、「春山」の文字が映し出されていた。「どしたの」と言ったところで彼女は自分の持っていたピクルスに目を遣り「まさか」と呟いた。ニヤリと赤い目のままでピアスさんが笑う。黙って頷くと「お前、最高」と彼女は私の肩をバンバンと叩いた。

「あんまり出るまで言うて時間ないよな、二分待って!」といい彼女が扉を閉める。部屋の向こうでたこ焼きのセットがまだ片付けられていなかったのと、割れた花瓶の破片がフローリングに散乱しているのが見えた。依然吐き出しきれない蟠りが胸中につっかえているのが感じられる。しかしきっかり二分後に現れた彼女の姿は、いつもと寸分も違わない「ピアスさん」そのものだった。


「電話、正味聞いてたっしょ」ピアスさんが意地悪そうに私に問いかけた。電車にすんでのところで乗りそびれてしまった私たちはホームの青いベンチに座った。ミックスが数%のディレイをかけたみたいに、幽かにピアスさんの問いかけがホームに木霊する。私は彼女の方を見ないで、代わりに錆びたレールが光る方をみて「ごめんなさい」と頷いた。

「あ、それは全然いいよ。見苦しい姿でごめんな。あのー、覚えてるかわかんなけど春山と話しててさ。いや、軽音いた時に私がダル絡みしてたのと、アイツが超モテないのが原因で向こうが勝手に付き合ってると勘違いしちゃったらしいんだよな、はじめの方。そういうとこ意外と可愛いんだけど、相談相手として病んでるとき毎日死にたい死にたい言ってたらさ、アイツ高三なったくらいの時に急にキレ出して。『死にたいって言われる側の気持ち考えたことあんのか、別れる』みたいな。確かに言ってることわかるんだけど私もメンタル雑魚だったからそれがショックで。しかも『別れる』が冗談だと思ったから尚のことキレて。大喧嘩になって、アイツも受験始まって卒部してで二年話してなかったんだけど、専門で偶然再会してさ、話聞いてみたらガチで付き合ってたって思ってたらしくてそれがおもろすぎて仲直りした。」目の前の柱に大きな蝉が止まった。その蝉は鳴かなかった。彼女は本当に面白かったことを話すみたいに喋った。

「で、なんかさっき『やっぱりあの時、俺が悪かった。でもやっぱりお前のメンタルは今後悪くなっていく』みたいな予言電話してきてさ。何で今?って思ったし昔のことやっぱり思い出しちゃってこっちもヒートアップして、喧嘩になった。」途中で煙草を取り出したピアスさんは徐に百均ライターでそれに火をつけて一口吸うと、はあ、と溜息をつくようにして前のめりに煙を吐いた。「仲直りしたい」

 アナウンスが鳴り、先ほどの蝉が柱から離れてどこかへと飛び去っていく。彼女が煙草を吸い終わる前に電車はホームへとやってきた。


 家に帰ってから、交換していた連絡先にメールを送った。『ピアスさん、ごめんなさいって言ってました』。送った後、本当に余計なことではなかっただろうかと不安にもなったが、おそらく何もしなかったことが後悔になるよりかは幾分にか楽だろうと信じた。壁に脱いだ靴下を投げると、跳ね返って顔に当たった。変な臭いがして普通に傷ついた。既読はすぐについた。


『俺からもごめんて言ってほしい。』

『いや、自分で言うわ。すまん。』

『どこまで聞いてんかな、蓮見やから全部説明しそう。』

『あ、ピアスって蓮見もことやろ?合ってる?』


 文字を打つ速度に俄かに驚嘆しつつ、『はい』と返信する。


『よな』

『いや、普通にネタっぽく言ったけど割と心配するような挙行に出がちやけん。余計なお世話やったろうけど。様子見とってほしい、捕まるぞ』

『普通っぽい感じになったら、その後危ないんよなアイツ…』


 手錠のかけられたクマのスタンプが送られてきた。ここでしか使わないだろうと少し笑えた。ピアスさんと春山さんが結局仲直りできたのか、私は結局そのあと知らないままだった。

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