二〇一六年 八月八日
「盆くらい帰ってきなよ」電話越しの母は相変わらずの嗄れ声であった。
「あたしが春頃行かなかったらもう一年も顔合わせないことになってたよ?」
「いや、行きたいのは山々何だけどさ。バイトあるんだって。」
「え、それホントだったの」
「失礼な。年明けには帰るから。もうそろそろ時間だから行くね。」
「あんた、クビになって直ぐそんな都合よく」引き留めるように母は何かを口走り出したが、矢庭吸いかけた煙草が変なところに入ったのだろう、大きく咽せ始めた。しめた、と思った私はもう耳から離してしまったスマホに「それじゃ」とだけ声をかけて電話を切り、トートバッグを拾い上げて家を出た。
私は実に三度、バイトをクビになっている。一度目と二度目は飲食店。一軒目では仔細については話しかねるが考えられないほどの枚数の皿を連続で割ってしまい、二軒目では大胆な発注ミスをしてしまった。二軒目の居酒屋は働きやすい場所ではあったのだが実質私のヘマのせいで経営の首を絞めてしまい、それによる間接的な経営難上の雇い止めのような形でクビになってしまったのであった。三軒目は、例のコンビニである。クビになるたびに私は泣きながら母に電話をかけていた。一軒目では酒も入っていたためか大笑いしながらそれを聞いていた母だったが、二軒目、三軒目ともなるといよいよ笑いは心配へと変わっていった。いずれも一ヶ月と続かず、重ねるごとに段々雇われづらくもなっていった。このような背景があったために、今日の電話ではバイトに行くという理由を信じてもらえなかったわけである。しかし、早くももう無死体処理を始めて一週間が経とうとしている。駅が近づき、私の姿を認めたピアスさんが手を振る姿が見える。長く続きそうだな、と思えたのには彼女の存在が大きく起因した。「おはよ」と何気なく挨拶を交わして、定期を取り出す。家に鍵をかけ忘れていたことを思い出した。
帰りの電車に乗ると必ず、とある女子高校生二人、男子高校生二人のグループと居合わせた。女子高生の二人は前髪を押し付けるが如く上の方でピタリとピン留めをしていて、男子二人の方は無造作な髪型に、片方が眼鏡。全員があまり冴えない見た目であったが若々しさ、瑞々しさは十分に有していて車内であることに憚りもせず、見かける度に彼等は色んな話題について盛んに話し合っていた。帰りの時間帯といえども殆ど人などおらず、後方或いは前方の車両に乗っていれば中は見通しが良かった。線路が彎曲するたびに、車両の空間も曲がり歪む。夕焼けのオレンジで満たされた怪物の腹中にいるような感覚を楽しめる。そんな中で彼らはお互いきょろきょろと顔を合わせながら話し続ける。制服も同じだから同じ学校なのだろう、眼鏡の男の子と片方の女の子はたまに管楽器用のケースのようなものを背負っていたりもするから、同じ部活なのかもしれない。帰りがけは疲れているから、ピアスさんと私はあまり会話をしない。だから座って、揺れる吊り革をぼんやりと眺めながら夕闇の育ちつつある車両で、彼らの会話に黙って耳を傾けることが日課になっていた。特になんてことない内容が刺々しく議論されているけれども、それがいつからか自分にとっての癒しになっていることには薄々の自覚があった。ピアスさんも、そんなふうに彼らの会話を聞いていたのだろうか。
「てかオダ先生が代わりにミーティングする時いっつも二十分ぐらい長くなるよね。あれマジでやめてほしい、こっちの路線、電車少ないじゃない?あの人どうせ車で帰るんだし、配慮に欠ける。」
「いやマジでそれ、オダ先生楽器弾けないのにそれっぽいこと言うのもなんか腹立つ。車がベンツなのも腹立つ、やっぱ私立の教員って給料高いのかな」
「ベンツは関係ないっしょ」
「まあ」
「楽器弾ける先生の方が吹部の顧問やる分には思慮深くていいよ。オダセンの『スウィングとハートが足りない』は流石に名言すぎるだろ、抽象的って言葉代表みたいなアドバイス。ほんとにコガ先生見習ってほしいよな。」
「それはハルトがコガ先生好きなだけでしょ、」
「いや違う違う」
「でも女子総評で、コガ先生は可愛い。全会一致。女子にも優しいのでポイント高いです」
「歳近いのもあるかも」
「コガ先生ってずっとユーフォやってたんだっけ?」
「たぶん、そう」
「ていうかオダ先生奥さんいるのかな」
「いやそれ、全然あの人自分の話しないからわからないよね」
「いないでしょ、あの性格で。」
「奥さんの手料理食べて『塩気とスウィングが足りない』とか言ってんでしょ。」
「名言量産マシーンか」
「料理にスウィングとは」
彼らの笑い声を背に閑散とした、でも何か包容力のある見慣れたホームに降り立つ頃にはもう日は大抵完全に沈んでしまっていている。鈍い、引き摺るような金属音を以てドアが閉まって、やがて電車は走り去ってゆき辺りは虫の声だけになる。改札を抜けて駅を出ると、無機質な街灯がぽつりぽつりと道を照らしている。地平線の淵の方にはまだ少し紫色が残っていて、淡かった月は今度は力強く白い光を放つ。そうして歩いていく間、私は一人ずつそれぞれの最寄りで降りていき、減っていく吹奏楽部の彼らの様子を妄想する。最後まで残る子は一体どこまで運ばれていくのだろうか、私には彼、或いは彼女はどこか遠い異国にまで運ばれていくのだろうと、そんな気がしていた。それも独り、あの大きな学生鞄を抱えて、だ。