二〇一六年 八月五日
帰り際、電車待ちのホームでピアスさんが思い出したように、あ、と口を開いた。
「たこぱするけど、来る?」
無論タコパなんぞした経験すらない私は、ピアスさんの口から発された「たこぱするけど」という単語を上手く脳内にて変換することをだに叶わなかった。ひらがなの羅列を聞かされたような感覚を覚える。結果ホームの古びた電灯によりピアスさんの顔に作られた濃い影を唯数秒見つめることになってしまった私は、「たこぱす、ですか」と一先ずの回答をしたのだが、これにピアスさんは極めて困惑した笑いを浮かべた。
「たこ焼きパーティ。」
彼女の読唇にても理解しうるようはっきりとしたその説明で、私は初めてそれが「タコパ」であることを認識した。矢庭脳裡にソースとマヨネーズ、それから青海苔を纏った幻惑的な球体が現れる。パーティというのだろうから他に人は来るのだろうけど、そんな不安は到底仕事終わりの食欲に勝ることなどできず、そのまま私は家にも戻らず呆けた面持ちでピアスさんの自宅へとついていくことになったのだった。
海風が心地よい。ジャージの下の熱った皮膚を、磯の香りを含んだそれらが諌めていく。海岸の暗闇の中で徐々に近づいてくる彼女のマンションの明かりがたこ焼きそのものにも思えてきて、逸る気持ちを抑え得ない私は時折堤防を登ったり、降りたりしていた。
さて、エントランスへと到着した私を待ち受けていたのは三人のヤンキーであった。男二人、女性が一人。コーンロウの女性がエントランスの脇、苗木の植えてある石の段に腰を掛けていて、男二人はそれを囲むようにして座っている。眼鏡をかけたパーマの茶髪で口にピアスさんのようなピアスをつけている方の男と、座っている女性はタバコを吹かしていた。ニット帽を上瞼のライン擦れ擦れまで深く被りスケートボードを片手に持った男が言った冗談に、他の二人が反応しているような様子であった。
刹那、嫌な予感が脳裡を掠めたがその時は未だ知覚には能わざる程度のそれで、私は無意識下にその予想を押さえ込む。いや、そうでないことを期待していたのかもしれない。ピアスさんが家の鍵をリュックサックから取り出す、チャリチャリとした音が聞こえる。そのまま無視して進んで欲しい。しかし次の瞬間にピアスさんの発した「おす、お待たせ」という言葉を以て私のそれは悉く打ち破られた。エントランスの照明により彼らの姿はシルエットになっている。一様に私たちの方に注視して瞬間的な沈黙が流れたのち、「いやおせぇよ」と笑いながらツッコミを入れて立ち上がる彼ら。その応酬をピアスさんの背中越しに眺める私は、予て祈るように両の手を固く結んでいた。
今まで関わったこともないような、専門学校の中でも意図して避けていたような人種である。「その子は?」とコーンロウの女性が私の方を見遣る。指と指の間、幽かに汗が滲むのを感じるとともに、脳裡のたこ焼きが遠のいていく。「ウチの高校の同級生」と紹介するピアスさんの声はもう一次聴覚野にて消えてしまった。
「いや、スケートボードは玄関に置いてこいよ」家に上がるなりトイレに篭り漸く現れたニット帽の男がピアスさんの指摘を受けて、いそいそとまた引き返していく。生地が焼けていく苛烈な音と白い煙が部屋の中を漂い始める。切り分けられたタコの身がボウルの中、淋しく横たわっていた。
「アイツだけ後輩なんだ。ミカミシュンイチ。」左に座ってたこ焼きプレートの状態を仕切に確認しているたピアスさんが、そう耳打ちした。ミカミと呼ばれたそのニット男は腰につけたチェーンをやはり煩く鳴らしながらリビングへと戻ってきた。
「今日、学校からスケボでここまできたっす。疲れた。」
「いやアホやん」隣に座ってもう三缶目の缶ビールを煽っていたパーマの男が間髪入れずに貶す。しかしよく見ると開けられていた缶は全てノンアルコールビールだった。「ちょ、焼けるまでに君たち自己紹介。」とピアスさんが鉄の棒でたこ焼きを順番にひっくり返しながら指導した。ひっくり返すたびに、じゅ、と何かが焼け焦げる軽快な音が響く。
「あい、ミカミシュンイチです。二十歳です。美容の専門学校行ってます。」
「えー、ハルヤマフウタ、春に山に風に太い。えっと蓮見と同い年で学校も今同じ。出身が博多で、博多弁ネイティブです。」
「タキミカコです。名前が古い!21歳で、えっとなんだ。ラッパー?」タキさんの問いかけに時計回り口々に全員が「ニート」「ニート」「ニート」と指摘していくのが面白かった。無邪気に頬を膨らませるタキさん。
「あれ、じゃ蒼空って風太のこと校舎で見かけたことある?」たこ焼きを一通りひっくり返し終わったピアスさんが、鉄の棒を片手に私にそう問うた。紗幕のようにたこ焼きの香りがする煙が広がっていく。そこに春山さんが乱入する。「あれ、えっとそらちゃん?は蓮見の後輩なんやろ、楽器は?」
「ギター」上手く言葉を発したつもりだったが、声は掠れていた。たこ焼きの焼ける音に吸収されてしまわないか少々心配だった。
「やったらないんやない?ドラム校舎ちょっと離れとるし。」
「春山先輩!ガツガツ行くから蒼空ちゃん怖がってますよ。」
「これだから陰キャアガリは距離感が。」
「ごめんって」
陰キャアガリ、という単語に些か反応した私は責められる春山さんに少しの好感を持った。いかにも単純な理由構造で暫くしてから自分でも可笑しくなっていたが、確かにズレた丸眼鏡を元に戻す所作が我々側のそれであるようにも思われてきた。
「風太、悪ぶってるけどインテリだもんね。ガリ勉慶應落ちドラマー。」ピアスさんが微笑みかける。
「落ちた大学の話するの辞めろて」
「先輩絶対今日も本持ってきてますよね、ダメすよそういうの。ピアス開けたら取り敢えず焚書すよ。」
そう責められると春山さんはピアスさんとニット男に身包みを剥がされはじめた。細い腕を振り回す抵抗も虚しく、両のポケットから双方に抜き取られた二冊の文庫本はそれぞれ谷崎潤一郎と佐藤春夫であった。不覚にも読む本のチョイスや取り合わせがツボだったようで抜き取られたそれを見、私は思わず大いに吹き出してしまった。
「ほら!そらちゃんに笑われたやん。」
「なんすかこれ、でんえんの、何これ」
「国語弱すぎやろミカミは。というか蓮見も本は読むやろ。」眼鏡を直しながら起き上がった春山さんの指摘を受け流すように、ピアスさんは「ほらたこ焼き焼けたよ〜」とそれぞれの小皿に完全なほど均衡の取れた球体に仕上がっているそれらを取り分け始めた。順番に回ってきたソースを溢れんばかりにたこ焼きにかける。煙の中を進んできた部屋の明かりに、ソース塗れのたこ焼きが黒光りする。待ちきれず一口でそれを頬張ると、刺すように熱さが口腔中を劈いた。ん、と声にならない悲鳴をあげると、煙と涙で少々霞んだ視界に大笑いする彼らの賑やかな笑みが映った。
時針はやがて十を回った。
「ほえ、そこめっちゃ進学校やん。偏差七十なんぼやろ?」なんとか自己紹介を終えた火傷の私を待ち受けていたのは質問攻めだった。
「七十なんぼって、すごいの?それ。アタシたちの高校45だっけ?二十くらいしか違わないけど」
「いやそれ言うの割と恥ずかしいけんな。全然違う」
なんとかして話の中心を私からは逸らしたかったけれど、受験もそこまで努力した覚えもなく、高校内部ではずっと落第生であった私にとって勉強に関してこのように褒められるのはなんとも新鮮で、気持ちが良いものだった。
「ところで、皆さんお互い高校の時はどんな感じだったんですか?」私が問うと、皆んながお互いの顔を見合わせ始める。
「ミカミは可愛いアホ後輩、春山はガリ勉、蓮見はヤバいやつ。」左手でコーンロウの末端を弄りながらタキさんが早口に言った。言われた三人はえー、と漏らしつつ、ガリ勉と言われた春山さん、ヤバいやつと言われたらピアスさんは不服そうな表情を浮かべていたが一方でニット男ミカミさんは満更でもなさそうな表情だった。
「ウチはヤバくはなかったでしょ」
「いや、ヤバい」タキさんと春山さんが声を揃えた。「だって一年の時ほぼ不登校で学年唯一の留年候補になったかと思えば、二年でいきなり軽音部入ってきてベースアホほど上手いし。生活が奇行というか、ずっとはしゃいどるし、なんで学校来なかったんだみたいな。生徒会選挙とかもヤバかったやん、あれ。」『生徒会選挙』という言葉を聞いた途端にピアスさんはアアー、と高音を発して床に蹲った。
「あんね、」とタキさんが小声で耳打ちする。「いきなり応援演説者もつけずに生徒会長に立候補して、演説で『校則無くす、アイス自販機設置する、校長を殺す』みたいな滅茶苦茶な公約をアカペラのフリースタイルでやったの。でも演説時間五分オーバーして失格。選挙管理委員会に壇上から引き摺り下ろされてた。あれは伝説だったよ。」机の下に蹲って新種のダニみたいになったピアスさんの方から、やめてーというか細い声が聞こえる。恐る恐るといった様子であげた顔は二缶目のストロングチューハイのためにか、恥ずかしさのためにか、おそらく両方ではあろうが真っ赤に染まっていた。「まあまあぶち上げてたけどね」というフォローにもなっていないタキさんの一言が決定打となり、彼女は彼らが帰るまで終ぞ顔を上げることはなかった。
十一時をすぎた頃に、パンパンになるまで酒とたこ焼きを吸い込んだ彼らは「でてけでてけ」とピアスさんに追われて嵐のように去っていった。騒がしさが去って煙だけの残った部屋で、ピアスさんは中途半端に残ったスト缶、私は残った2Lコーラを紙コップでちまちまと飲んだ。一気に静かになったためにか薄ら眠気も訪れてきて、漂っている煙が催眠ガスのようにも思われた。
「ほん、読むんですね」気になってみて少し尋ねてみた。向かい側に座ったピアスさんが、真っ赤な顔でボンヤリと笑って「読むけど、官能小説しか読まないよ」と言った。躰を捻って後ろにあった細い本棚から『夏至』という題の文庫本を取り出した。一昨年くらいに本屋で一番売れた本として紹介されていた、年配の大女優によって書かれた本だ。
「タイトルの所為かはわからないけど夏に爆売れするらしい。波に乗って去年買ってみたらめっちゃ面白かった。なんか、儚い。陳腐だけど。」融け出しそうな眼で語るピアスさんは今にも寝落ちしてしまいそうだった。本人もそれには気づいていたようで「ウチ寝ちゃうと面倒いからそろそろ蒼空も帰んな。ここらマジで過疎ってジジババしかいないけど、帰り気をつけろよ。」
一階まで降りると、エントランスにはまだあの三人がいた。はじめと同じように屯ろするような様相で石段に腰掛けている。
「いや、よくよく考えれば蒼空ちゃん一人で帰らせるのも危ないやん、ってなってさ。タキも駅まで送るしそこまで俺らでついていくわ。」
「ミカミはこういう時はガラの悪さで威圧できて役に立つからね。」
「は、だけ余計っすよタキ先輩。」
「俺役に立たんのかい」
「立たないでしょ」
こんなギャグマンガみたいな応酬が結局駅に着くまで続いた。終電がホームに到着するのをみて、タキさんは慌ただしく別れを告げて駅まで走っていった。ラッパーの彼氏が外車で最寄りまで迎えにきてくれるそうだ。
家に着くと、蛍光灯が壊れてしまったのかスイッチを押しても電気がつかなかった。そのまま敷布団がある暗がりに身を投げて、少し空いたカーテンの隙間より月の銀色の光を望む。そうしているうちに意識を失うようにして眠りに落ちてしまった。こんなにも人と久々に話して疲れ果ててしまったはずであったのに、どういうわけか眠りも寝覚もものすごく快かった。