二〇一六年 八月二日
朝、ピアスさんに揺さぶられて目を覚ました。
「あ、起きた。ごめんな起こして、私今からバイトなんだ」窓から差し込む八月の朝日が作った影と、ぼやけた視界のせいではっきり顔が見えない。
「どうする?体調良くなったんなら一回家戻る?」
再び目を閉じてしまいそうになったが、それだとあまりに失礼なので頭を振って無理やり目を覚ます。はい、と頷きながら言ったつもりだったが声は枯れていてちゃんと音声にはならなかった。よしよし、と言いながら彼女はまた少し持ち物を確認するような素振りを見せてから、「出られるときになったら、そこに鍵あるから。部屋番号305だから閉めてそこのポストに入れておいて」と言い部屋を後にした。やはり少々眠たかったので、ドアが閉まり鍵のかかる音がしてもそのまま小一時間ほどうとうととしていたのだが、やがて動悸のようなものを感じて俄かに体を起こした。空調のおかげで部屋の中はとても涼しく、ピアスさんが部屋を出ていったときには差し込んでいた太陽の光はもう雲に隠れてしまったのか、気配がない。勝手にコップを使って水を一杯飲み、特に身支度もせず持ち物だけは全部ポケットに入れて部屋を後にした。
外に出てみると太陽が出ていないとはいえ外は十分に蒸し暑く、また湿度の上昇がそれを何か嫌味なものへと変えていた。自動ドアを抜けると海が見える。曠然として広がる海そのものの威厳は不変であったが、空が澱むとやはり対応して海も澱む。昨日のような煌びやかな光はそこにはなく、代わりにその深淵さを表彰するような深い灰色のような青を湛えていた。昨日私が徘徊していた道々を歩いていくうちに体調そのものはかなり回復していることに気がつくとともに、時間差で申し訳なさや醜態をさらしてしまった恥ずかしさなどがじわじわとやってきた。ぼんやりと彼女のことを思い出す。母の顔ですらもう鮮明には思い出せなくなっているのに、ピアスさんの表情の作り方は何だか特徴的ですぐに思い出せた。シャツを挟んで汗がにじみ、それがペタペタとしていて非常に不快だし気持ちが悪い。体調は回復したはずであるのにそれらの感情と、この様な曇天のために気分もまた上がらず、こういう時には、と思ってポケットに手を入れると記憶通り五百円玉がそこにはあったので、家に帰る前に一旦コインシャワーに寄ることにした。
脱衣所の黄ばんだプラスチックのカゴに脱いだジャージを投げ捨てるように突っ込んで、シャワールームの扉を開く。硬貨を入れて蛇口を捻り、ヘッドより迸る水流を顔いっぱいに受け止める。零れるそれを手に取り、普段使い慣れないがために些か凝ってしまった表情筋をほぐすようにして擦る。そして到着点のない思索に唯耽る。私は基本的に虫などを好まないので、田舎にある実家にはあまり帰りたくはないのだが、ややこしいことに山という空間は好きだった。預り知らない何か、端的に言えばそれは山の神様のような存在を全感覚で感じるからだ。非現実的な体験に伴う遊離感と、ある人は形容するかもしれなかったが、私からすればそれは少し違った。高く聳える木々や、透明な清水、私たちの足をとる泥濘から恣意は感じられない。だがそれらを内包した山という空間そのものには何か、意思のようなものがあるように思われてならないのだ。ここでいう意思というのは、何かの目的が存在していてそれを達成しようとする動きのことではない。それこそ何かこう、気まぐれな作用、しかし矛盾の一切ない思い付きの機構のような気がするのだ。すべて何かの目的に沿って動いている社会に対する反発的な回帰かもしれないが、一時間の使用時間を知らせるタイマーが鳴る直前まで私は冷たいシャワーを出しっぱなしにして、昔母と訪れた山の滝の中より、母を覗くあの視界を脳裏に再現しては浸ってしまうのだった。思い出す光景の中、飛沫で明瞭でない私の目に映る母の隣には、常にだれかの影があった。あれが山の神様だったのだろうか。都会というわけでもないが、山からは遠いこの町での暮らしではそんな神秘的な妄想が、すごく楽しい。
まだ乾ききっていない髪をごわごわしたタオルで拭きながらコインシャワーの自動ドアを抜けると、外では雨が降っていた。再び開いたときと同じ喧しい音を立てて自動ドアが閉まる。雨とはいってもそれは霧雨のようなもので、タオルを被せた髪を濡らすには至らずただ八月の蒸し暑さを加速させるにとどまった。先程までは本降りであったようで足元には水溜りができており、数枚緑の葉がそもに浮かんでいた。試しに道路脇にかき集められた葉の山をスニーカーで踏んで見ると、ぐちょ、という生々しい音を立てた。その音と感触は葉だけではなく、葉の山の下にいる不気味な生き物をも踏みつぶしてしまったように感じられて、気持ちの悪さと若干の罪悪感を生じさせる。歩いていると雨が止んでしまったので、タオルは首にかけるようにして歩いた。低気圧のためか、それかやはりまだ薬が抜けきっていないためか頭がまだ重たく、帰りがけに薬局に寄ってから帰ろうかとも思ったが、ジャージのポケットの中にある小銭の枚数を指先で数えて、やめた。そんなことをしているからまた左足で右の靴紐を踏んでしまい、靴紐は解けてしまった。
スニーカーを最後に買い替えたのは何時のことだっただろう、としゃがみ込んでからふと思い返してみた。黄ばんだ白のスニーカーがまだ純白であったその日の靴屋、自分が出たあの街のショッピングセンター二階にあったその靴屋の光景が脳裏に再現される。とともに嫌な記憶、けばけばしいピンク色の髪を後ろで束ねたその背中も、映像のように付随し浮かび上がってきた。
私は中学生の時「緩かった」という理由だけで卓球部にいた。下の名前が沙織という子に出会ったのはそこだった。彼女は全くサイズの合っていない大きなジャージを着てパタパタと慌ただしくラケットを振る姿は今でも難なく思い出される。喋り声は小さいのに笑い声だけは出鱈目に大きく、彼女の笑い声を初めて聞いた時には普段の彼女との違いに些か驚きを覚えたものだった。何があってそうなったのかはもう覚えていないけれど、彼女とは秋ごろからよく一緒に下校するようになっていて、自転車を押しながら帰り道に私が語る蘊蓄に笑ってくれていたことをよく覚えている。彼女の家は「ゴリラ公園」と小中学生から呼ばれる、ゴリラのオブジェクトがただ座って居るだけの公園の近くにあった。目立つ場所なので小学生たちがよくその公園を待ち合わせ場所に使っていた。通るたびに、3DSを片手に笑いあう男児たちを少しばかり淋しそうな表情で眺める彼女の顔は何故か版画のように、克明に脳に刻まれている。「じゃあ、そろそろ」彼女はいつもそんなふうに別れを切り出して、夕陽を背に受けながら、住宅街の中に消えていくのだった。本当は家の方向は全く逆なのに、同じだといったあの嘘はとうとう明かすことがなかった。
二年生に上がったタイミングから彼女は部活に顔を見せなくなった。夏休みを過ぎてからはその姿を学校で見かけることすらなくなった。それ以来初めて対面し、目を合わせたのがその靴屋だったのだ。
実は一度、その前に彼女と思しき後ろ姿を駅で見かけたことがある。「あれ、沙織じゃね」と、その時に隣にいた友人が言うまで向かい側のホームに見えた小さな背中を、彼女であるとは認識できなかった。私の中で彼女の背というものは、いつもオレンジ色であったからだ。友人は、まるで自身の人脈の広さを自慢せんとするばかりに彼女にまつわる悪い噂を矢継ぎ早に話し始めた。その時、私はその友人に対して確かな嫌悪感を覚えたのであった。それは未だなお完全に拭い去れていないが、結局その時も、靴屋で再会した時も、私は彼女に声をかけることができなかった。何度脱色と染色を繰り返したのかもわからない程傷んだ派手な色の髪と、瞳にかかった暗い影と、明らかに普通ではなくなってしまった、常に何かに怯えているような虚ろな表情の作り方に口をつぐんでしまったのだった。私は、畢竟彼女に向き合わず、寧ろ逃げてきたのだ。一貫して「無責任な言葉は口にしない」という態度を持ち続けているようで、ただの一回も「責任を持とう」と腹を括って寄り添ったことなどなかったのだと、その時に初めて気づかされた。私は、卑怯で臆病な傍観者であった。夏休みにでも彼女の家を一度訪れていれば何か変わったのだろうか、と思いもした。しかし彼女の上の名前も知らず、表札の立ち並ぶあの住宅街一軒一軒を当てずっぽうにでも訪問する勇気までは湧かなかった。否、頭を使えば教師に名を尋ねる選択肢もあったはずだった。無意識のうちに、遁走のために除外していたのである。確かに、たとえ会いに行ったとして名字すら知らない程の仲だった自分に何かできたのか、と問われれば疑念もある。だが同時に彼女の名字を知る努力すらしなかった、逃げ続けた自分を恨むこともできるのだ。
靴ひもを結びなおしてからまた歩き出すと、スニーカーから侵入した雨水が右側の靴下のみを湿らせているみたいで、それが歩く度に後味の悪さを増幅させていく。フェンス越しに通過した列車と併走する風が、とても冷たく感じられる。今度、靴は買い替えようと思った。
家に戻ると、それはまあ散らかっていた。ピアスさんの家があまりに整理されすぎていたためにその落差で、床に散らかしっぱなしにしていたシャツや下着、曲がバラバラにシャッフルされて収拾のつかなくなって散乱したtab譜、書きかけのものばかりで一つも完成していない歌詞のメモ。ゴミ箱から塵紙は溢れ出し、机の上の蓋が開きっぱなしの調味料、食べた後片づけてもいない焼きそばのプラ容器、ポストに届いていた未開封の封筒、葉書の山など。今まで気にも留めずに生活していた環境だったはずが二日ほど家を空けただけでこれほどまでにカオスに見えるのだと、初めて知った。
結局そのあと始めた片付けが終わったのは曇り空が橙色になり始めたくらいの頃で、病み上がりの体には想像していたよりも大きな負担がかかった。そのため、せっかく綺麗になって夕陽で赤く染まった部屋の中で私は疲れ切った躰を横たえるだけだった。顔が近付いて、畳の香りを感じる。台所と部屋、自室と家にあるすべてのゴミ箱のゴミを袋に入れてしまうと、それらは大のゴミ袋丸々一つに収まってしまうほどの量だった。その袋にも平等に斜陽は差している。畳と畳の間にかぴかぴの米粒が挟まっていた。仰向けになって真っ赤な天井を眺めていると、時折阿呆のような声をあげて通り過ぎる鴉の影がそこに映し出される。鴉は本体も影も真っ黒であるから、本質的に表裏のない純粋な生物だ。そこに身勝手な悪意を投影し、自己への問いかけを行うこともない。だから、私は勝手に鴉は現存在の対義語なのだと考えていた「そう。奴らは空を飛ぶ時も、地を這う自分のドッペルゲンガーの手を離さないんだ」小さく呟いて勝手に頷き、歌詞ノートを探すが如何にも見当たらない。そこで自分自身のお腹の音によって私は現実へと引き戻された。お腹はそれなりに空いていたし、何よりお腹が減るという正常な感覚が戻ってきた喜びを無碍にはしたくはなかったので、重たい体を起こし、何か食べようとまた小銭とスマホだけをポケットに入れ最寄り駅に付属しているコンビニへ向かうことにした。
太陽が沈む速度というものは人生十九年も生きていてなお見誤るほど早く、徒歩三分圏内のそのコンビニに行き、カップ焼きそばを選ぶ間にもうそれは効力を失ってしまったようで、外は真っ暗になってしまっていた。
「お箸はお付けしますか?」太すぎる黒ぶちメガネの初老の店員がそう尋ねたので、私は黙って頭を下げた。前回の反省を生かして、店員の声は聞かずに表示されている値段だけを見て正確に、それに値する貨幣を取り出して青いトレーに置く。特に問題なく会計を終えてコンビニを出ると、丁度その時電車が発車した。若い夜風が吹いて、それが私の髪を揺らす。断続的に並ぶ電灯によって暗闇に映し出された電車の姿は、秒を数えるうちに消え入ってしまった。それにしても、いつまでこの会話における怯えのようなものが続いていくのだろうかと歩きながら考えているうちに、かなり気が滅入ってきてしまった。若干の苛立ちも覚えながら、歩みを進める。駅から少し歩いたところには小さな畑があって、暗くてよく見えないけれどきちんとそこには、いつもの案山子が佇んでいるのが確認できる。例の阿呆鴉たちを退ける為に置かれたのだろう。ジャージのポケットに手を突っ込んで、不貞腐れた声で「お前みたいに、独りぼっちで生きてやろうか」と、当てつけのように呟いてみた。こういう時に煙草があれば幾分か様になったのだろうけれど、生憎未だ未成年だ。返事もせず、暗い夜の影の一部になっても唯立ち続ける彼に手を振って、再び帰路に着く。ところが駅を離れて家が近づく度にその或る種の諦観とも似つかない嫌な感情は次第に淋しさへと変わっていった。また唯物に対して説明のつかない不安のようなものを覚える機会が、あの日から幾度となくあった。例えば、片づけをしているときに見つけた赤いペンだけが五本入ったペン立てや、今目の前に等間隔で並ぶ街灯の明かりなど、静謐さに内包された暴力性のようなものを感じて逐一冷や冷やしてしまうのだ。それが単体として分立していたのであれば何ら問題はなかったであろうに、度重なる怯えのようなものの堆積によって私の心はかなり疲弊してしまっていた。夜道には誰もいない。ただ、どこからか聞こえる名前の分からない虫の鳴き声が、闇が覆い損ねた空間を満たすかのように鳴っているだけだ。時折、猫はいた。目を光らせてこちらを威圧するかのように見つめる。目だけではどんな猫であるのかも判別しかねる。誰かといたい、でも話したくはない。引き金は自分であるのにこのような矛盾を抱えている自分を腹立たしく思って呪っても、結局のところ淋しさは消えなかった。
ふと思い出してポケットからスマホを取り出してみた。迷惑であろうかとも一瞬思ったが、何よりお礼も言わずして去ってしまったということもあってその理由に縋り、付箋に書いてあった電話番号を押してみた。三回ほどコールがあってから電話に出ると、変わらない声音で彼女は「もしもーし」と返してくれた。
「あの、先日から助けていただいたのにお礼も言わないで去ってしまってごめんなさい。本当にありがとうございました。」気のせいだろうか、幽かに電話越しに波の音が聞こえる。海の目の前とはいえ三階にまで波の音など届くものだろうか。それから暫く不安になるような沈黙があって、息を吸う音が聞こえた。「あ、今暇だったりする?うちこない」
マンションの前ほどまで来ると、堤防の上に立って手を振る影が暗闇の中薄っすらと浮かび上がった。ピアスさんだった。
「ごめんな、急に」軽やかに堤防から飛び降りた彼女は、笑いながら肩をポンポンと叩いてくれた。何故だろう、この人が相手だと不思議と会話でも不安を感じない。そのまま家の中に入るのかとエントランスに向かおうとしたら、ピアスさんが何かをごそごそとトートバックから取り出した。
「ノリで買ったんだけど、一人でやるんじゃあんまりに淋しいから。呼んじゃった」
手に握られていたのは、派手な装飾の袋に入った手持ち花火のセットだった。
少し歩いてから、堤防を越えて砂浜のある方へと向かった。スマホのライトに照らされて、砂粒は白い光を返す。干潮だったようで砂浜は広くあたりにも人は全くいなかった。これは絶好の花火日和だと思った。「てかさっきの電話、鶴の恩返しみたいだったよ」とピアスさんはポケットからライターを徐に取り出して、袋から「どれにしようか」と選んだ一つの花火に早速火をつけた。その流れと、ライターのストックが平生よりあることから見て、ピアスさんはタバコを吸うのだろうか、と予想した。ライターを数秒当てたのち、花火は緑色の煙を上げながら発火した。暗い砂浜に素っ頓狂な色合いの光が噴き出す。ピアスさんは少し楽しそうな笑みを浮かべながら、腕を振ったり回したりして煙を自在に操っている。その度に出どころのわからない金属音がじゃらじゃらと鳴っていた。その煙は時間が経つごとに、紫、黄色、赤という風に色を変えていくものだったようで、色が変わるたびにピアスさんは「あ、黄色」というような具合で声を上げた。お姉ちゃん基質で、大人びた印象だった彼女がそんな風にはしゃいでいるのはなんだかそれはそれで新鮮で、私まで心が朗らかになっていくみたいだ。そんな風に楽しまれると此方の意欲も昂るもので、特に許可も何もなしに私も花火を取り出して、ピアスさんの花火から火をもらった。私のそれは如何やら、火花が弾けるようにして発火しながら色が変わっていくものらしく、パチパチと弾ける火花からピアスさんは「うお」と言いながら逃げ回った。逃げられるとこれが面白いもので、追いかけたくなってしまう。私は炸裂するその先端をわざと彼女に向け、「やめろって」と逃げ惑うその姿を楽しんだ。手に持った花火の色が移り変わっていくごとに、ピアスさんの顔を照らす光の色も様々に変わっていって、何故だろう、ずっとみていられる一齣だった。一通り半分ほどの花火を燃やし尽くしてしまったところで私たちは疲れて、堤防に腰を掛けるようにして座り、今度は物静かな線香花火の耐久対決に出ることになった。
「先、落とした方が負けな」と言ってピアスさんは二人分のそれに火をつけてくれた。火種を落とさないようにして静かに自分の前にもってきて、眺める。先程の騒がしい応酬とは打って変わって、今度は絶対に負けまいとする意地からくるものなのか、集中を途切れさせてしまおうものならば火種に飲み込まれてしまいそうなほどの静謐がやってきた。波の音と磯の香りが目前からやってくるだけで、線香花火の幽かな音のほかには何の情報も散らばってはいない。時折自分たちが堤防に座って居ることすら忘れてしまいかねない程だ。しかも二人とも線香花火のセンスはそれなりに有していたらしく、お互いに全く火種が落ちない。やがてその静寂は、いつからか意識し始めた沈黙がいつもそうであるように、恥ずかしさを孕んだような気まずさに代わっていった。妙に上昇する心拍数は、この空気のためかはたまた火種の揺らめきのためか判別しかねた。取り敢えずその空気だけでも拭おうと、なんとか言葉を発した。
「先日からあんな風に倒れたりしたの、ODのせいです。私の自業自得な行動のせいです。心配をかけて、しかも助けてもらって、本当にすみません。」
「あー、言っちゃ失礼かもしれないけどさ、そうかなって思ったんだよ。ウチも何回か経験あるし」ピアスさんがそう答えたので驚いた。心理状態が反映されたためかは分からないが私の火種の方が、先に墜落してしまった。深海に一人で探査に向かっていく隊員のヘッドライドみたいにそれは降下していき、砂に落ちて砂上を出鱈目に四方へ転がり、消えた。「お、ウチの勝ちな」とピアスさんは自分の火種も落としてから、二回戦、ともう一本ずつの線香花火を取り出した。先程までは花火は砂浜に突き立てていたが、今度はそのまま捨てるわけにもいかないなと思っているところで、ピアスさんがトートバックからストロングチューハイを取り出した。「成人なんで、お先に」と笑って軽快な音を鳴らしてプルを開けたピアスさんは、それをすごい速度で飲み干した。顔を下げてこちらを見るピアスさんの面は、もうすでにほんのり赤くなっていた。
「実はウチ二十一なんだよね。高校卒業少し前からメンタルぶっ壊れたんか知らないけど家から一歩も出られなくなって、卒業した後も一年間ほぼ家で寝て過ごしてた。」
「え、そうだったんですか」少し缶を振るとちゃぱちゃぱと音がして、彼女は上を向き一滴も余すことなくそれを飲み干した。「うん。でもなんかよくわかんないけど専門学校のチラシがリビングに置いてあったの見て『これだ!天啓だ!』って思ってさ。そのまま朝方パジャマでベースだけ担いで、殴り込みか道場破りみたいに校舎凸したら入れてもらえた。」
「波やばいですね。」
「波、そうなんか波なのかも。高校いる時はそれなりに荒れてたしなあ」終わった線香花火は、その空き缶の中に突っ込むことにした。
「ODってなんかさ。あの言葉がなんかグチャグチャになっちゃうやつじゃない?」
「そうです。図星です。」
「あれめちゃくちゃ怖いんだよな、めっちゃわかるわ。蒼空ちゃん小柄だし薬結構回りそうだよな。今大丈夫?」
「はい、おかげさまで。」
「よかった、高校生の時やったけどウチはずっとタッパデカいから蒼空の方が絶対きつかったわ」ピアスさんは話すときに、首元を抑える癖があるのかそれでバランスを崩してしまって火種を落とした。線香花火の光だけでオレンジ色に照らされていたピアスさんの莞爾とした微笑みが夜にフェードアウトしていって、暗がりから「負けちゃったよ」と声がした。
お酒が入ったからなのか、それからピアスさんの話は止まらなかった。線香花火はもう五回戦目ほどで止まってしまって、それからはピアスさんの昔話になっていった。聞けば初めてベースを持ったのは中学二年生の頃だったらしく自分と同じで、他にも親が勉強に厳しくほぼ虐待紛いでそれらを強制されていたことや、それに反抗して家出したこと、高校生になって暴行で捕まってから、それで母親とは和解したことなど、とめどなく話されるその内容は波乱万丈そのものだった。
「ベースで人殴って捕まったって、なんで殴っちゃったんですか?」
「シドになりたかったから、というかあれウチの前世だから」
「何ですか、それ」
もうすでにあまり呂律も回らなくなってきている上に、私もかなり打ち解けられてきたころで二人ともげらげら笑いながら話していた。ふと笑いを止めてから、ピアスさんは「体、触られたりするのが苦手なんだよな」と呟いた。
「なんでか分からないけどすごく抵抗あって、モッシュっぽくなってたライブの時にステージ上がってきた客に触られて、咄嗟に殴っちゃった」表情的な笑いだけ浮かべていたが、彼女の目は悲しそうだった。
「結局適当に振り回して当てたやつが触った本人で、なんかそれもあって示談で済んだんだけどさ。初めて母親本気で泣かせちゃって、そっから仲直りしたよね」
如何にも奇妙な縁だと思っていた。たまたま何の気なしに大量に総合かぜ薬を飲み出たバイト先で倒れ、居合わせた同じ学校の先輩に助けられる。こういう偶然がいつか過去を顧みたときにとんでもなく大きな分岐点となっていたりもするのだ。そんな考えを巡らせてみてから、どこか「そうなってほしいな」と願う自分もいたのだと気がついた。きっと、この出会いがデカダンでドラマチックな展開だったからだ。自分の人生に今まで足りなかったものだったからだ。よく水平線上を見てみると、漁船だろうか、青白い光がちらちらと見えるときがあった。小さいころに山で見た蛍のことを不意に連想していた。
ふと、肩に重さがかかり左を見遣ると、ピアスさんが私に寄りかかるようにして寝息を立てていた。石化したかのように彼女は静かに寝てしまっていて、寝息も聞こえなければ寝ていることすら疑えた。彼女の上気した頬の熱りは依然として冷めやらず、仄かな赤みは未だ残っていた。悪戯に指で突っついてみると、想像よりも柔らかかった。面倒だったからというわけでもなく、私はしばらくピアスさんを肩にのせていた。遠くの漁船の灯ばかりを見つめていては目も疲れてしまうので、勝手にライターを拝借して二本の線香花火を束ねて同時に火をつけてみた。火種が全部くっついて大きな火種になり、表面積も伴って広がったためにか風の煽りを大きく受けた。やがて、一本の時よりも短い時間で火種は地面に落ちていった。固く瞑られた瞼と長い睫毛を、火種一寸の光源が照らす。彼女も誰かと話したかったのかもしれない、と勝手に思った。また、そう思いたかっただけかもしれない。