二〇一六年 八月一日
羊水に満たされているみたいな、グロくて、そして何処か心の落ち着く生暖かさや、不正に重力加速度が吊り上げられたみたいなそれら感覚は、前回の時からいつぞや体験したことがあるもののように思われていたが、今しがた、インフルエンザのときみたいな感覚だなあ、という思考の収束を得た。そう知覚しておいて倒れてしまったりしては、みっともない。ので、前の客にした時よりも大きな声で「ありがとうございました!」と言ってやる。不要だったレシートは、脇のごみ箱にすぐに丸めて捨ててしまう。振り返って煙草の陳列棚の上にある時計に目をやると、時針は零時少し過ぎを指していた。シフトの終わりまではまだ二時間もあって、気怠さ相まって「早く帰りたいなー」が、ぼそりと口を突いて出てしまった。怠い、怠い。ただ前みたいに眠たくはないし、どういうわけかこんな無駄な思考を巡らせるだけの余力は残っているようだ。それでも気を抜かないようにと、ただ店内にいる客の動向に視覚を集中させる。音は少し変で、鼓膜の上にもう一枚何か膜が張っているかのようにも聞こえる。金髪の若い男の入店を告げる、頭のすぐ上で鳴っているはずの入店音は、まるで遠雷のように聞こえた。真っ白にすべてが塗り固められているような店内を、客らは何か刻むような足取りで歩き回る。それは彼らが目的を有してここに訪れるからだ。昼間であればただ涼みに来ただけの小学生なんかもいたのかもしれない。はたして彼らのそれは目的にカウントされうるのだろうか。
ごうごうと耳鳴りみたいにもなって聞こえてくる入店音の奥からは、ヒットソングチャートが流れ出した。いつもならギターのフレーズなんかに耳が奪われるのだけれども、今日ばかりはそうではなかった。なにか、音楽すらも環境の音と化しているような、そういう不思議な実感があった。こうして見る世界ではすべてが、曖昧になっていくのだった。この、概念に於いて足取りの覚束ないような感覚。それを真に求めていたのだった。私とコンビニ、私と世界、私と私、わたしとわたし。そういう所謂ボーダーのようなものとでもいうのだろうか。世界が、認識が全てぼんやりしていく。さすがに思考すらもぼんやりとしてしまっては接客業務に及ばなくなってしまうので、思考能力を「認識は世界か」という命題に幽閉してみたものの、その試みは徒労に終わった。そういう気概さえも、ぼんやりとしていく。でもそのぼんやりがどうにも気持ちがよかった。またそうやってぼんやりと、その金髪の男が存在していることを目で追って証明し続けていると、気付かないうちに「あのう」とレジ前に小さな学生服の少年が現れていた。
「いらっしゃいませ、申し訳ございません」
「あ、いや。じゃあこの唐揚げを一つ」金色のボタンをきっちり留めて、ホックまで留めているその少年がガラス越し、Lのから揚げを指さして言う。指を下ろすと同時に彼は学生鞄に手を入れてその中をかき混ぜるようにし、そこから小さな財布を取り出そうとした。幽かな、小銭の触れあう音。真っ白な店内、真っ暗な店外。朝方に出した商品がもう殆どない冷蔵棚。立ち読みをしている頭髪の薄い中年。五感を超えて情報が混ざっていった。こうした認識を実は皆もしているのかもしれなかった。煙草を見たときに、誰も「タバコの葉と、紙と、紙箱の集合体」という風には考えないだろう。情報を複合する行為は極めて汎用に思えた。
ふと少年が小銭を五、六枚落とした時だった。落ちた小銭と一緒に意識が拡散していくような感覚を覚えたのだ。他の音は圧縮されて硬貨の転がる音だけが澄んで聞こえる。溢した水が何の力を加えずとも地面に広がっていくように、私の視界もレジから拡散していく。自動ドアを抜けて外から眺めたこのコンビニは、暗い田舎の中に佇むオアシスのようだった。陳腐な形容ではあるがそれこそ飲み込まれるような田畑の闇を、一筋にこのコンビニが切り拓いているような、それか黒一色がこの世界の下地ではないことを暗に示しているかのような、そのような気がしてきた。するとそこに勤める私自身の存在も非常に誇らしいように思われ緩やかだった時間感覚は欠如していった。また視点は店内のトイレにも及ぶ。そういえば自分が本日、水回りの掃除の担当であったことを思い出した。案の定数日手を加えてないトイレは非常に薄汚く不潔な様相を呈しており、掃除をしなくては、と思った。掃除道具はどこにあっただろうか。バックの掃除箱の中にあるモップと、それから水を入れておくためのバケツだ。先週、特売だった焼きそばを食べながら何の気なしに流していたテレビがよく落ちる洗剤の話をしていて、それを使おうと思った。が、紗膜に遮られてしまったかのように記憶は途切れており、そこから先がどうにもうまく思い出せない。いったいどうしたのだろうか。
「あの」少年の声で我に返った。心配そうな表情で私をのぞき込む、白い照明に照らされた目を見つめた。まずい。視界の拡散に気を取られていたが、そうだ、私は今接客中だった。どうしなければいけないのかを思い出すために、「ぼんやり」からの遁逃を図るために頭を振る。遠雷のように響く入店音にはディレイがかかっていた。そうだ、私はテレビを見ながら特売の焼きそばを食べていた。
「すみません、洗剤はどこにありましたっけ」夕方のテレビ番組ではよく見るあの司会者の声が、思考に重なってくる。そう、洗剤を水に混ぜて掃除をしなくてはならなかったが、私は洗剤の場所を知らなかった。私を見つめる少年の目に、翳りが過る。違う。少年は私に注文をしたのだ。洗剤の在処を聞くべき相手じゃない。事実を隠すためにも、私は早急に彼が注文したものを渡さなくてはならない。しかし私の手元には、渡すはずの特売の焼きそばはなかった。
「すみません、在庫の方を探してまいりますので」
「あの、その、今手に握られているのは唐揚げではないのですか」
「え」私は自分の右手に目をやった。そこには確かに唐揚げがあった。彼が注文したものだ。そのとき、ふとした混乱の隙間を縫って、また視界が拡散してしまう。薄汚れたトイレ。そう、在庫を確認するために戻るがてら掃除道具を取ってトイレの掃除に行けばよいのだ。
「そうすれば、時間も短縮されますね」
「はい?」
「ですから、少々お待ちください」
思っていることが口に出てしまった。どうにかなってしまいそうだった。兎に角、私は焼きそばを早く提供しないといけない。それも急いで。カウンターに手をつき、蹌踉めきながらも店の奥の方に戻る。視界の端に少年の怯えたような表情が映った。こっちはお前の接客してんだよ、クソが。口に出たのかもしれないけど、もうわからない。
控えには制服に着替えたばかりの、夜勤の鈴穂ちゃんがいた。そういえば鈴穂ちゃんは恐らく今日が給料日だった。私は先日、店先に出ていた数量物のエフェクターを一括で買ってしまったためお金がなかった。借りたお金を返すのはおろか、今月わたしが生活できるかも怪しい。それほど私のお財布もペコペコだった。それだから足りなくなったシールドを補うまとまった金もなくて、エフェクターも出音すら確認してないままだ。不良品だったらどうしようか。掃除用具箱を開けながら、そう思っていると右側が私に声をかけてきた。
「蒼空大丈夫?すっごく気分悪そう。」
「うん。足りなくなった分焼きそば変えようと思って、お客様お待ちだから今ここまでモップとってから行った方が早いと思って。」
「何て?どういうこと?」
「あれ、いま私なんて言ってる?」
鈴穂ちゃんは、はじめはきょとんとしたような表情を浮かべていたが、私が口を開いて言葉を発するごとにそれは怯えのようなものへと変わっていった。
「蒼空、一旦休もう。なんか目がヘンだよ。」
鈴穂ちゃんは何を言っているのだろう。早くしないと、唐揚げも冷めてしまう。安いプラスチックの包みごとレンジで温めてしまったら、プラスチックは溶けてしまうのだ。鈴穂ちゃんの言葉を無視して、とりあえず水を汲もうと思った。更衣室の端の方にある水道までフラフラと駆けていき、バケツを乱暴に置く。蛇口をひねってから暫くして、バケツの中に唐揚げが水没しているのを見て、なんだか溺死体みたいだねと嗤ってやりたくなった。無性に何かに腹が立っているのだ。私も鈴穂ちゃんみたいなショートカットにしたい。
「もう飽きたかと思いましたよ」真っ白な照明に慣れず、目を細めレジに出てからした声、おそらく私が発したのだけれどももうよくわからなくなってしまっていて悲しかった。バケツを取り敢えず先ほどまで担当していたレジの下に置く。気分はいつの間にか立っていられないほどに悪くなっていた。羊水に溺れて、私が唐揚げみたいじゃん。」
と、どこまでが言葉か判らなくなってしまった。コンビニそのものが回転しているようにさえ思われ、外はまだ暗い。先ほどの少年は少し左にずれていて、私を何か異世界から迷い込んだ、か弱い未知の生物を見るかのような目で見つめている。ビールの缶が並ぶ透明なガラスの向こう側。頭を冷やしたくなった。猛烈に泣きつきたくなった。誰でもいいからぎゅっとしてほしかった。「どうしよう」と、口に出しながらカウンターの外を覗いたが、涙でよく前が見えなかった。背の高い女性が、少年の後ろに並んでいた。ピアスだらけの端正なその顔はどこかで見たことがある。気持ち悪いジジイを左側のレジでサディくんを、対応していた。酷い吐き気がする。冷たい視線の冷たさを肌に感じるように感じた。冷たい。怖い。すごく冷たかった。使った後のアイスピックで、体中を刺されているようだった。溶けだした氷のせいで薄まった、桃色の血液がレジ内を満たしたのは気のせいだった。低体温症の四文字もレジの床を這っている。背後のタバコの箱たちが私を嘲笑している。うっざ。棚を叩くまでが限界だった。そこから先はもう覚えていない。
初めにそれに手を出した時は、若干の躊躇いや恐れもあって瓶半分、だから大体40錠くらいだった。通っていた専門学校に休学の届け出をしてからちょうど二か月、だからコンビニバイトを始めてからちょうど一か月目の日だったのでよく覚えている。それより前の日々の空虚さ、それも今なって尚鮮明に思い出すことができる。何もない部屋でただバイトの時間以外は横になって液晶を眺め続けるだけの、本当にそれだけの時間を過ごしていた。休学してからすぐに訪れた心療内科でも「軽いうつ状態」として特別な診断や薬も貰わず、「そんなものか」と初診料でぺしゃんこになっただけの財布を左手に、延々と揺られ続けていた電車のことも、よく覚えている。バイトしかしていないのに貯金は減っていって、今では私のおなかの方もぺしゃんこになってしまっていて、意味としてはほぼ無死体みたいになってしまっている。ギターにももう触れなくなっていた。
横になってそうしている間、私の頭では「専門学校に通いたい」と初めに相談した時の母の言葉が反復し廻っていた。せっかく偏差値の高い高校に入れたのに、頭もいいのに、という歯牙にもかけられないような言葉の中にあった「純粋に、『ただその動作が好き』くらいの本能レベルの好き度じゃないと、そういう職業って何処かで挫くと思うよ」というものだけが、今でも返しのついた毒針のように私の内部に食い込んで、離れない。結局私が好きなのは、『ギターを弾くこと』でも、『音楽をすること』でもなかったのだった。ただ単に、私は『ギターが弾ける私』が好きなだけだったのだ。本当にギターが大好きで、環境のせいで触れなくなっているだけだったのなら、専門学校の息が詰まるほどの技術を持った怪物たちから離れた今、この六畳間で私はギターヒーローになっていたはずだった。でも、そうじゃなかった。ギターを弾きたくないのではなくて、ギターを弾く気が起こらないだけだった。劣等が脳に住み着いている所為だとしても、それに打ち勝てるほどの『好き』でもなかったということだ。熱意も技術も、なかった。こんな単純なことに私は休学するまで本当に気が付かなかった。あんなものに手を出したのにも、何処か『か弱い自分が好き』みたいな感情があったためであるとも考えられた。とんだ馬鹿な自己催眠だなって、誰かに笑ってもらいたい気分だった。
肌に憶えがない、ごわごわした肌触りのクッションに埋められた自分の頭を起こす。鈍器で殴られたあとみたいだと思ったが、鈍器で殴られたことなんてなかった。薄く目を開けると、小奇麗な白いカーテンから眩しい太陽の光が射しこんでいて、それが視神経をドクドクと痛めつけてきたのですぐに閉じた。やけに汗ばむ、夏の朝の暑さだ。かけられていた薄い毛布を蹴っ飛ばした。意識の明瞭さに欠ける頭で、辛うじてここが知らない家であることを確認できた。そんなに広くない。どこの家だろう。でも何だか内装をみて悪意は感じられなかった。寝付けもせず、かといって目を開けるのも厭われつつ、のような時間を三十分ほど過ごしたのち何か奥の方で扉が開く音がしたので、私は渋々目を開けることにした。やっぱり、重たい病み上がりみたいですべての感覚が冴えない。私のすべてを薄いラップが包んでいるようだった。上体を起こすと私が寝かせられていたのはソファだったらしかった。全体的に白い部屋だ。ただコンビニと違ってその白さには自然由来の温かさのようなものがあった。周りを見回すと壁の数か所には木製の突起のようなものがあって、レコードが飾られている。開いたばかりの目は霞んでいてジャケットを判別するには至らなかったが、どこかそれらには年季が入っているような印象を受けた。ポスターもあって、大きなギターを弾く上半身裸体の男だかが映し出されている。照明はついていないようだったが、部屋の中は明るかった。夏の日差しが部屋を代わりに照らしていたからだ。カーテンは北欧柄のようなモダンなデザインで、目の前には結構大きなテレビがあって黒い液晶に私の姿が映っていた。
そこでやっと、薄膜を突き破るような焦燥、危機感が私の胸に訪れた。ドクドクという鼓動の動きを直に感じる。私は服を身に着けていなくて、上も下もどちらも下着姿だった。知らない部屋で、私こんな格好でいる。小さなメープル色の机の上に昨日来ていたジャージが折りたたまれているのが視界に映ると、私は急いでそれを何かから奪い取るみたいな速度で手に取り、着た。ジャージのチャックを閉めたところあたりで、リビングの入り口あたりに人が一人立って居るのを認めた。怒りの分量の方が大きくなっていて、少し涙目になっていたかもしれない。その人は「おはよ」と歯磨きをしながら私に語りかけたが、そんな場合ではない私は玄関らしき方向目掛けて一目散に走り、扉を開けてそこから飛び出した。勢いよく出てしまったために目の前にあったコンクリートの塀に肩からぶつかる。どうやらマンションだったらしく、下の景色が視界の端に映って転落してしまいそうな憂虞を刹那感じる。如何にか姿勢を戻して通路の左側を見ると、目と鼻の先に階段があったので急いで駆け降りる。階段を駆け下りていく最中、履いてきた靴が自分のものではないことに気が付く。少し冷めた頭で私は階数を数え、三階分降りたところでエントランスへの入り口が見えた。遠くから扉を開ける音と「おーい」と呼ぶ声が聞こえる。自動ドアを抜けると、目の前には堤防があって、その先には海があった。そのおかげで私は自分の位置をすぐに確認することができた。このままこの見覚えのある堤防に沿って歩いて行って、砂浜になってきたくらいのところに私が働いているのとは違うけどコンビニがある。荒い息の中、とりあえず人がいる場所に移動しようと考えた。
海から吹く、磯の香りと湿度を孕んだ風を受けながら私は昨日からのことを思い出そうと試みた。シフトに入る直前までのことははっきり覚えていたが、そこから先の記憶は極めて断片的だった。中学生くらいの少年の接客をしていたことや、バケツに水を汲んだことなど、その映像についてはところどころ思い出すことはできた。やおら、その中で見えた一つの顔が、朝方の記憶と結びつく。ピアスを複数個外していたのですぐに判別がつかなかったが、部屋にいた女性は少年の後ろに並んでいた客の一人だった。倒れた私を介抱してくれていたことが、躰に異常がないことを知覚していくうちに明らかになっていって、いきなり飛び出して申し訳ないことをしたなという罪悪感も伴ってじわじわ膨れ上がってきた。太陽は燦燦と、私の背中を焦がすかのように照っている。縺れる千鳥足を支えようと道脇のガードレールに手をつくと、やたらにそちらも熱くなっていて矢庭手を引く。掌が塗料で白くなっている。蝉たちの喧騒は鼓膜を嫌に刺激して私に追い打ちをかけ、道路の先の陽炎が意識の境界を揺さぶる。引かない頭痛と重い足取りを以て、十数分ほどでなんとかコンビニにたどり着いた。軽快な入店音と、「いらっしゃいませ」の声、それからあの人工的な冷気が私を出迎える。レジ打ちをしていた店員と、その付近にいた客らの目が一斉にこちらに向けられる。彼らばかりではなく立ち並ぶ菓子パン、冷蔵庫の中に立てこもる大小さまざまのペットボトル、医薬品、袋に入った駄菓子、陳列された煙草などまでもが白い目で、噂話をするときの横顔についているような目で私の方を見てくるみたいだ。ジャージの左ポケットには五百円玉が一枚と、そのほか数枚の小銭が入っていたので、アイスクリームでも買おうと冷凍ボックスを探した。
未だに拭い去れぬ既視感の正体を辿っていく。ピアスの女性は私と同じ専門学校の一つ上の学年の先輩であった。楽器は定かではないが恐らく記憶の中で背負っていたカバーからしてベースだろう、耳はもちろん鼻や下唇や目じり、いたるところにピアスをつけていたので恐らく直接見たのは数回だったがその容貌は極めて印象的だった。顔立ちも、なんというか髪形相まって「端正」という言葉が如何にも相応しいというようなもので、やはり映像として記憶に残っている。
「百五十九円になります」ポケットから百円玉一枚と、五十円玉一枚を取り出して青いトレーに置く。左側では中年の店員が、中年の客が指示する煙草の番号を聞いて棚からそれを探している。レジの上のスピーカーから流れているチャートソングには聞き覚えがあって、然しそのピッチは幾分外れているような気がした。耳が如何にかなってしまったのだろか。私が差し出したその硬貨を、東南アジア系の顔立ちの女性の店員は暫く、何か怪訝な表情で見つめてから指差しで数を数えるようなそぶりを見せて、片言の日本語で「あの、百五十九円、」と重ねて言った。私もよく見てみると、トレーには百円硬貨一枚と五十円硬貨一枚の、計二枚しかなかった。しまったと思ってポケットからもう十円取り出してトレーに置く。「あれ」が始まったのはその瞬間からだった。
躰の自由が全く剥奪され得るような恐怖を覚えたことはあるだろうか。恐怖、という表現には語弊があるかもしれないが、凡そその類で間違いはないだろう。唯、生命の危機に瀕するか否かでそれは発生するとも限らないが、人間はある一定の状況に即し恐怖を覚えた時、それに躰が支配されてしまうのだ。刹那身体や思考はそれに搦捕られ、正常な適応がままならなくなる。そのような体験。
言葉が繋がらなくなってしまう。その時私が覚えた恐怖だった。
そう言ってしまえば簡単だったがこれは如何様にも耐えられない、ふと気でも抜こうものなら発狂しかねない不安だった。十円を取り出す。それは、取り出した十円玉に纏わる、意味の共有点を持つだけの自分の中に内在する記憶のパーツが全て出鱈目につながって、無意識に口から溢れ出てしまうような。言葉にはしづらいけど、自分にとっては文脈として成立している言葉が、何かこれも自分の中にある狂った回路でグチャグチャに掻き回されてしまうような。或いはこれは世界と私のインターフェイスが完全に遮断されてしまったと思えることからくる恐怖なのか、とにかく何かは断言できないけれども、現に私の口からは「おしぼりをください」の九文字が出せない。出てこないのだ。
レシートだけを乱暴に受け取って、冷房の効いた店内から急いで出る。自動ドアに蹴躓いて、失態を誇張するかのような大きい音が鳴った。緊張のためか、それか暑さのためか、体中から汗が噴き出るのを感じる。堤防に沿ってもと来た道を戻る。海風が頬の左側を撫でていき、片手に持ったアイスクリームから冷たい結露が滴り落ちる。
それは吐瀉物を意図せずまき散らしてしまいかねない恐怖と似ていると思った。醜い獣の姿に変えられてしまう呪いのようなものがあれば、それだとも思った。自分が発そうとした言葉、意思凡てに苛まれ、悖られるような感覚。そういった暴走と眩暈を引きずって、涙をためて歩いているうちにまた後頭部の方で頭痛がした。顔の側面に触れる自分の髪の毛さえも煩わしく思える。暫くそうやって歩いていると道路の曲り角、堤防の湾曲した角の方に階段があるのが見えた。腰を下ろして、膝に顔を埋める。息が上がっている。怖い。皮膚は暑いのに心の芯の方は冷えているみたいでなんだか気持ちが悪かった。夏の太陽を吸ったコンクリートは熱く、臀部は灼けるようである。しかし、私は動く気にもなれなかった。すぐ後ろにあるテトラポットにぶつかる波の音がやけに遠く聞こえる。ふと異臭がしたので曲がった左側の道路を見てみると、道路の真ん中に人が倒れ込んでいた。それは恐らく無死体だった。蜃気楼で揺らめく地面との境界線上で蠅が飛び回っているのが見えたからだ。
誰でもいいから、話さなくても安心して抱きしめられる何かが欲しいと切に想った。鈴穂ちゃんの家まで行くにしろ、誰とも話さずにたどり着ける自信がなかった。次誰かと会話でもしようものなら泣き崩れてしまうだろう。思考はできるのに言葉を紡げない状態が、こんなにも恐ろしいものであることを知らなかった。前にしたときは、予定も何もない家の中だったし量も半分だったから、こんなことになるなんて思いもしなかった。初めて、昔の自分をぶん殴ってやりたくなった。
どれだけそうしていたかわからない。死体に群がっているのであろう蠅たちの羽音が絶えず聞こえる。暑さはやがて行動の気力すらも奪っていって、やがてもう顔を上げるのも億劫になっていった。頭痛は少しマシになったようにも思えたが依然としてぐるぐる回るような眩暈は続いていて、皮膚の感覚だけが冴えている。灼けるように、黒いジャージは太陽の光を掻き集めていて、斜めにしていたので買ったアイスクリームは蓋から溶け出してしまい、手にまとわりついては地面に滴っていった。意識が或いは断続的であったかもしれない。いつの間にか、道路に人の気配があった。シートが擦れ合うような音が聞こえる。少しばかり目を開いて道路傍を拝むと、複数人の作業服の男が先程の無死体にブルーシートを被せていた。おそらく近隣住民からの報告があって、処理に来たのだろう。やがて彼らはそれを終えて、何事もなかったかのように白い業務用車で、その場から去っていった。私も連れて行って欲しい。生きていたくない。
さらに時間が経つと蝉の鳴き声や、テトラポットを打つ潮騒も現実から遊離した効果音みたいに思えてきて、言葉を話せない私と世界をつなぐ証明は、もう夏の暑さだけになってしまった。だからどれだけ暑くても、暑さだけは手放したくはなかった。
ガタガタとよくわからない音を立てる、軽トラックほどのサイズであろう車が通り過ぎて暫くしてから、同じ方向より誰かが駆けてくる音がした。近づいてくるにつれてより鮮明になってくるジャラジャラとした金属音で「さては」とも思いもしたところで、足音は止んで代わりに荒い吐息が聞こえる。
「いやー探したよ」と音の主が私の肩を抱いた。顔を上げると、やはりそこにはピアスの先輩がいた。私を探したのに、歯磨きの後ピアスをつける余裕はあったのだなと思うと、少し笑えもしたが、すぐにまたあの焦燥感が脳のリソースを掌握していった。「顔真っ赤じゃん、お前」小刻みに震える私を傍目に、ピアスさんはあたふたとしてから正面を向き直り「とりあえずしゃべらなくていいから、乗って」と、再び目を伏せかけた私に次はその背中を向けた。何でもいいから会話を媒介しない何かに縋りたかった私にとって、それは何にも代えがたい救済の福音みたいに聞こえて、それで私は抱き着くようにして背中に飛び乗ってしまった。「お前小さいし楽勝だな」と腰を上げてピアスさんは歩き出した。いつの間にか泣いていた蝉たちの声にはヒグラシのものも混ざっていて、まさかと顔を上げるともう外は夕暮れ模様だった。時間さえも私からは剥離しているみたいで、自業自得なうえに自分が惨めにも思えてきて、思わず泣き笑いのような声を出してしまった。襟足だけ長いピアスさんの髪に顔を埋めると、彼女は「体熱いし、こりゃ重症だな」と呟いた。背中が焼けるように熱い。縋れる何かがあって恐怖が少し遠のいたようだった。
ドアを開けると、冷房はついていないみたいだったが外よりは幾分か涼しく、また眩暈も多少恢復した。帰るなり彼女は「取り敢えず風呂入んな」とシャワーまで案内してくれたので、私はすぐに入った。蛇口を捻ると、頭上より冷たい水が降り注ぐ。それが火照った体を冷やしていくのが気持ちよくてそのまま蛇口を全開にして呆然と、足元にあった石鹸類のボトルを眺めていた。床に叩きつけられて離散し飛び散った飛沫がボトルについて、大きな水滴を作っては流れていく循環があった。昔から私は五感の何かに集中しているとき、それよりアナロジー的に連想できる妄想と、現実を重ね合わせることができた。頭上に降り注ぐシャワーは私が意識さえしてしまえば、いつでも私が育った団地や街を濡らしていったあの雨になったし、高校の卒業旅行で訪れた熊本の外れにあったあの小さな滝飛沫になった。きっと、明日から背中を焦がされるようなことがあるたびに今日のことを思い出すことになるだろうと、虚ろにそう思えた。
シャワーを止めて脱衣所へと出た時には、あれだけ酷かった頭痛はもう殆ど無くなってしまっていた。暫くぼんやりとしていたために、ひどく長い時間入っていたので心配に思われたのか、奥の方から扉越しに「おーい大丈夫か」と声がした。上がったばかりだった私は少し動転気味になって、勝手に横に置いてあったバスタオルにくるまってしまった。「上がったなら洗濯機の上に趣味悪い柄のTシャツあると思うから、それ着て」、「はい」辛うじてではあったが短い返事でも返せたことには返せたので、少しうれしい気持ちになった。
風呂場から出ると食卓には二枚の皿が並べられていて、それぞれにミニトマトと、レタスのサラダと、サラダチキン、それからトンカツのような揚げ物が乗っていた。昨日の夜から恐らく何も口にしていない私はそれを見るなり、腹の虫を鳴らしてしまった。キッチンから二人分の麦茶が入った透明なグラスを運びつつ出てきたピアスさんが、薄っすらと笑みを浮かべながら「食べな」と言ったので少し恥ずかしい気持ちになって、頭を下げるふりをして顔を伏せた。
「福山蒼空ちゃんだよね、二年生でギター弾いてた」ピアスさんがメンチカツを頬張りながらそう聞いてきたので、私は黙って肯いた。ピアスさんは笑いながら、「いやーギター専攻の人多いからさ、自分でも覚えててびっくりしたよ。人の名前覚えるのは前から割と得意だったけど。」専門学校はそこまで治安が悪いといったようなところでもなかったが、半分不良上がりのような人種が一定数いたのも事実としてあり、初めてピアスさんを校内で見かけたときにはピアスさんも、そういう部類の人間だと思っていた。しかしこうして話してみると思ったよりはカジュアルではあるものの、何より優しさが伝わるような喋りをする人だった。『みんなの姉貴』みたいな肩書がつきそうだなあと思ってもみたが、そもそも優しくて物好きの帯域ほどで面倒見の良い人間でないと、バイト先で倒れたほぼ初対面の後輩を家に上げてまで介抱なんかしない。
「ミニトマト、苦手?」私がくだらないことばかり考えて彼女の方を見つめてばかりいたので、皿にミニトマトだけを等閑にしてしまっていた。斜めに傾けた彼女の黒い瞳に見つめられる。「いえ」と短く首を振ってそれを手に取って頬張ると、噛んだ瞬間口内いっぱいに爆ぜるような酸っぱさが広がった。思わず口を窄めて目も細めてしまうと、前に向き合って座っていたピアスさんもミニトマトを食べて同じような表情をしていた。まるで涙が出るのを我慢するように瞼をくしゃくしゃに閉じている。それがなんだか無性におかしくて口を窄めながら不意にもにやけてしまった。久しぶりに笑った気がした。
「一応、数日休むかも、とは伝えておいたから」というピアスさんの一言でバイトのことを思い出した私は、用意してもらった布団に潜り込んでスマホをつけてみた。メールには五件ほど通知が来ていて、三つは鈴穂ちゃんからだった。「お姉さんがたまたまいてよかった」というような旨の文章が届いていたので、なるほど、ピアスさんは自分のことを私の姉だという風に説明したのか、と合点がいった。布団の中から出ると、遠くでピアスさんがシャワーを浴びる水音が聞こえた。私が気にしすぎであるだけかもしれないが、いつもはもっとフランクな鈴穂ちゃんからのさっきのメールには、繕ったみたいな、腫れ物に触る時のような不自然さみたいなものがあった。それはできれば距離を置きたい、というような暗喩が知れないうちに埋め込まれているような気持ちの悪さだった。無理もない。傍目から見れば明らかに何か薬物に手を出した人間か、病気でどうにかなってしまったようにしか見えないだろう。前者については正解であるのだが。もうできれば話したくもないのだろうなと思えたからか、はたまた暗闇の中で液晶を見つめていたためか滲んだ涙を、ジャージの袖でふいた。
思いのほかすぐに寝入ってしまった。しかしそれは浅い眠りで夜半、前触れもなく薄く覚醒してしまった。うっすらと目を開けると、දෙවිくんが枕元に立ってこちらをじっと見つめていた。私はずっと彼の顔を窺う機会というものを狙っていた。彼はいつでもどこでも現れる時には現れる。専門学校のスタジオの中、舞台の準備室、アパートの階段の途中、家のキッチン、コンビニの更衣室。もっと遡れば高校生くらいの時からいた気もした。課外終わりの夕日のオレンジで満たされた教室、彫像の立ち並ぶ美術室の倉庫、二階から三階に登る途中にある踊り場、帰りの電車の向かい側の席、帰路にある駄菓子屋のベンチ、狭かった家の風呂場。でもやっぱり今日といい、彼はいつでも光の方向に現れるので逆光によって顔はいつも暗くって見えない。やはり今も私を覗き込むその顔は、どのような表情を浮かべているのかさえ判らない。部屋が薄暗く、後方より月明かりがカーテンの隙間を縫って微かに差し込んでいるせいだ。口を開こうとして、また言葉が絡れた。恣意が言葉を借りてまた暴走し始めてしまいそうになる。折角また会えたのに、私は自分のせいでこんな機会まで失ってしまうのだろうか。動悸が喉元まで嘔吐感を伴って迫り上がってきた時に、දෙවිくんが口を開いた。
「蒼空は、いっつもどんな本読んでるの?」
දෙවිくんは春の光が暖かい教室で、ずっと自由帳に独りで迷路を描いていた。定規でしっかり線をひいて、一面にびっしり。虫も大好きだったらしいけど、いつか六年生に捕まえた奇麗な蝶々を力づくで奪い取られたのが悔しくて、まだ外に出られないというようなことを話していた。しかもそのときに、お気に入りの眼鏡も割れてしまったらしいのだった。දෙවිくんは迷路の他に、たまにではあったけど虫や動物なども自由帳に書いていた。でも、殆ど迷路。ずっと迷路。小学生の行動にメタファーを見出すなんて馬鹿げているとは思うけど、ずっと一貫してわけわからない彼の行動には、何か迷いは一切ないように思えて、迷路を書くという行為に彼のそんな様相が集約されているふうにも思えたのだった。右の席に座って居た彼は私の顔を覗き込むように見て微笑んだ。私は、読んでいた江戸川乱歩の少年探偵団シリーズの「電人M」の表紙をチラリと見せた。図書館の貸出本にはツルツルのコートフィルムが貼られているから、それを媒介して窓から差し込む麗らかな太陽の光線がදෙවිくんの顔に反照した。彼は眼鏡の向こう光に目を細めて、それを見るとただ一言「悪そうなロボットだね」と言った。私にはそれで満足だった。