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二〇一六年 八月一六日

 肌に憶えがない、ごわごわした肌触りのクッション。徐に起こした自分の頭はそれに埋められていたようであった。薄く開けた目には小奇麗な白いカーテンから差し込む太陽の光が眩しく、視神経をドクドクと痛めつけてきたのですぐに目を閉じてしまった。自らの汗で湿った下着が皮膚に触れる感覚が、如何にも気に障る。気に障るのだけれども、特段不快であるというわけではなかった。やけに汗ばむ、夏の朝の暑さだ。

 妙にすっきりとした頭と恐る恐る開けた目で、ここが知らない家であることを確認する。そんなに広くない、どこの家だろう。でも何だか内装をみていると、不思議と安心感を覚える。そこでふと引力に引かれるようにしてクッションに頭を戻す。

 そうして寝付けもせず、かといって目を開けるのも厭われつつのような時間を三十分ほど過ごしたのち、私は渋々目を開けることにする。上体を起こすと私が寝ていたのはソファであるようで、体を起こすためについた右手がやんわりと沈み込んで、再び倒れ込みそうになる。全体的に白い部屋だ。何とか立て直した体で周りを見回して、初めに思ったのがそれだった。ただその白に無機質な感じはなく、代わりに自然由来の温かさのようなものがあった。再び周りを見回すと、今度は、壁の様子が目に留まった。壁の数か所には木製の突起のようなものがついていて、レコードが飾られている。開けたばかりの目に映る視界は霞んでいてジャケットを判別するには至らなかったが、それらからは年季が入っているような印象を受ける。ポスターもあって、大きなギターを弾く上半身裸体の男だかが映し出されている。照明はついていないようだったが、夏の日差しのおかげで部屋の中は明るかった。カーテンは北欧柄のようなモダンなデザインで、目の前には結構大きなテレビがある。その黒い液晶に、黒いジャージを羽織った私の姿が映っていた。今更のようにそれの抱く意味を知覚し、慌ててリビングのようなその部屋から出て、玄関の方へ向かう。扉に鍵はかかっていなかった。

 扉を開けて外に出る。肩当たりの高さのコンクリートの塀が目の前にあって、その先には唯空が広がっていた。絵具の「あおいろ」一つで塗りつぶしてしまったかのような、非現実的ともいえる色合いの青空だった。近づいて塀の向こうを覗いてみると、下の方に見知らぬ街が広がっている。民家や、団地のようなものがぽつりぽつりと見え、広くもない道路が細々と縦横に根が張るようにして伸びている。遠くには田園だろうか黄土色の空白のような地帯も望まれ、その向こう地平線近くになると連なる低い山々も見える。何処にでもある、通塗な街並みだ。それから私は廊下の左右を見渡して階段を見つけると、すぐさま一階まで降りて行った。エントランスの方まで出ると自動ドアの向こうには堤防、その奥には海が見えた。堤防には見覚えがあって、如何やら家の近くから続くものらしい。少しの安堵はあった。

 音もなく開いた自動ドアを抜けて外に出ると、俄かに風が私の髪を靡かせた。腕に付けていた髪ゴムでそれらを結わえる。あげた腕に陽が当たる。貴石の乱反射が如く目前に広がる海面は跳ね返された小さな無数の光で、暴力的なまでに煌めいている。同時に視界を一文字に切る、寥郭たるその水平線の幽かな彎曲が、海の広大さを物語っている。風に背を押されるようにして私は道路へと躍り出た。そうして堤防に近づいたときに、私はそこから見えたものに震駭した。浜に人が倒れこんでいるのが見えたからだ。どきりと打つ心拍、自発的に停止した呼吸。慌てて堤防を越え砂浜に横たわるそれに近づく。砂を踏む蹠に冷やりと海水の温度を感じる。覗き込むようにして横たわるそれを見れば、如何やら生物ではなく無死体であることが認められた。海水に濡れた髪が張り付いた皮膚は青白く、冷たい印象で満たされている。色彩を亡失した頬は幽かに膨れ、無数の砂粒が付着している。閉じられた瞼についた睫毛が、夏日を受けて影をその白い皮膚に落とす。もしそれが人間であったとしたのなら、彼女はかなりの辨天であっただろうと想像できる面立ちであった。ピアスのようなものが、複数個ついていた。私はスマホを取り出し、恐る恐る無死体についていた砂をあらかた払い落としてしまってからその顔、躰、位置などを写真に収めていく。業務管轄外であっても無死体を見つけた場合にはこのような協力をするように言われているのだ。本体のスピーカーから無為に出力される無機質なシャッター音が、空しく、波の音に溶けて消えていく。

 無死体を後に堤防を越えてまた道路の方に戻り、私も素足についてしまった砂を払い落とす。コンクリートは早くも熱気を孕み始めていて、火傷してしまいそうな勢いだった。堤防に沿って自分の家と思しき方向に向かって歩いていくうちに、スマホのほかに何かがポケットに入っていることに気付いて、中に入っていたものを取り出す。先ほどは気が付かなかったのだが中には見慣れない分厚いピックと、紙片が入っていた。青いそのピックの厚さが1mm以上あるようで、どう考えても私のものではない。ベースのピック弾きに使うような厚さである。いつかスタジオより間違って持ち帰ってしまったのだろうか。紙片の方は、折りたたまれたルーズリーフのようで文字が大量に書き込まれている。それらは間違いなく自分の筆跡だったが、こんなものを書いた覚えはもちろんない。内容は、歌詞の殴り書きのようであった。内容を読もうと思ったところで、何故だろうか、おそらく自分のものであろうサンダルが道の端に脱ぎ捨てられるようにして転がっているのを見つけた。そろそろ、コンクリートの温度に耐えかねたので急いでそれを履いたのだが、コンクリートほどではないにしろサンダルも却々に熱されていた。私はピックとその紙片を再びポケットに戻した。そう、今日も今日とて纏わりつくような暑さだ。続く道の先は蜃気楼に揺れていて、姿の見えない蝉はひっきりなしに泣いている。続く道路の先は蜃気楼に揺らいでいる。誰かの想いを吸い込んで化け物が如く膨れ上がってしまったみたいなあの入道雲も、遠くからこちらを見ている。こんな夏にもいつの日かきっと終わりを告げる。私はまた歩み始める。それは私の意思だった。

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