1.錯綜
(結局眠れなかった。)
アサギリは、スマホのホーム画面を見て一度目を閉じた。
時刻は朝の7時過ぎ。彼からの連絡は届いていない。
予想はしていたが、実際この時間帯に連絡が来ていないことに、心拍数が上がる。
最悪のことを考えてしまうからだ。
その一瞬で何かが脳内で爆ぜそうになった。
「今日、母の日か」
日にちは5月の12日。母の日だ。
何も用意していない。けれど、何かしらおめでとうの言葉や、ギフトでも送ったほうがいいだろうか。
去年はネットで、老舗お菓子屋の茶菓子と丸っとした水苔の中心に一輪咲く胡蝶蘭とのセットを頼み実家に送った。
ぽっと蝋燭の火が灯るような、気持ちを和ませてくれる可愛らしい黄色の花だった。
あの胡蝶蘭はまだ、綺麗な花を咲かせているだろうか。
SNSのショートメッセージで弟に「母の日何か送った?」と聞いた。
おそらく返事は昼過ぎぐらいだろう。
何もする気が起こらず、けれどこのどうしようもない渦巻く気持ちをただ抱えて寝具で横になる気分にもなれずスマホとイヤフォン、そして水をそそいだカップを持ってベランダに出た。
外は雨が降っていた。
海風に晒されてすっかりと色褪せ、新品の時よりもだいぶ座り心地が悪くなった一脚のアウトドアチェアに腰を下ろす。
携帯と水入りカップは、砂ほこりの汚れが目立つベランダに直置きした。脳内の雑音をかき消すかのように、スマホでお気に入りの音楽を耳に垂れ流す。
片方の耳はイヤフォンを外して、雨音をミックスさせた。雨音が次第に横殴りの強いものに変わる。
彼からの連絡は着ていない。今日は仕事だったはず。
仕事終わりに連絡が入るか、遅くとも今日中には連絡があるだろう。そう願って。
いろんなことが重なって起こりすぎてる。
彼のこともそうだが、母の日を素直な気持ちで祝えない自分がいる。去年みたいに形式的なお祝いはできる。それは、今年はもう違う気がした。
私も誰かみたいに心の底から母の日をお祝いしたい。
母が欲しいものをプレゼントしたい。
喜んでほしい。笑ってほしい。
愛していると言ってほしい。
「ハハっ…」
変わらず音楽を聴いていたアサギリの口からは、乾いた笑みが出た。
大丈夫、乾いているけど笑えている。
俯瞰できている。淡い願いが炭酸水の泡みたいにシュワシュワ浮かんでは消えるを繰り返す。
母の日については、おそらく今年も望んだ答えは出ない。
けれど去年とは違った賽の目が出た。去年の自分がこれを予想できただろうか。
いや、できなかった。去年のような答えならば自分の心に嘘はつけたかもしれない。
でも、この姿も私なんだ。
そんな自分を受け入れたい。
大丈夫、きっと来年には答えが出ている、はず。
誰も抱きしめてくれない私を、私が抱きしめたい。
雨が小降りになったのがわかった。スマホのボタンを押して音楽をとめ、イヤホンを両耳から外した。だいぶ体が冷えてしまったようだ。
部屋へ入ろう。体が温まる洒落たカプチーノを入れるようなことはしないが、ベッドに横たわり毛布にくるまろう。
きっとようやく眠りにつけるから。
途中、雨が止むだろう。
けれど、起きた頃には、また雨で迎えて。