くちばし
嘴が見える。
女が仕事をしている窓から、黄色い嘴だけが見えている。
結構大きく長い嘴だ。
女は知らなかったが、水鳥が持つような大きな嘴だ。
女が仕事をしているところには、そんな鳥がいるような水辺は近くにない。
さらに言ってしまうと、女の仕事場は五階でオフィスビルなので、そもそも、窓の外に嘴だけ見えるのもおかしな話なのだが、女はそのことに気づかずに仕事をこなしていた。
無論、窓から嘴が見えている事は気づいていたが、今は仕事中などだ。
特に騒ぎ立てることではない、そう考えていた。
だが、今年入社したばかりの若い男性社員が、その嘴に気づいてしまう。
そして、周りを巻き込んで騒ぎ立てる。
女は、いい加減学生気分でいるのをやめてくれ、と思いつつ仕事を続ける。
ただ窓とはいえ、オフィスビルの窓なのだ。
窓ははめ込み式でそれが開くわけではない。
それでもその若い男性社員は、はしゃいで嘴を見るために、その窓に張り付いたようにして、嘴の主を見ようとする。
そこで、その男性社員は、短く、ヒィ! と悲鳴を上げる。
そして、鳥じゃない、鳥じゃなかった、と、狼狽えだす。
女は、遊んでないで仕事をしろよ、と、そう思いつつも、女も気づく。
ここはオフィスビルの五階だ。
窓の外に、鳥が止まっていられるような、そんな場所もないのだ。
なのに、窓から見える嘴、いや、嘴のようなものは、ほとんど動かずに存在し続けているのだ。
女はそのことに気づき、嘴のことが流石に気になりだす。
若い男性社員に、なにが見えたの? と問うと、男性社員は、顔だ、人の顔が嘴の先にあった、と言い出した。
そんなわけはない、と、女は思う。想像もできない。
そこで女も窓に近寄り、その嘴に続くものを見ようとする。
そこには顔があった。
ビルの壁面に張り付くように、歪に歪んだ、それでいて人の顔だと認識できる、そんな物がいたのだ。
嘴だと思っていたものは、その顔の鼻が伸びた物だったのだ。
その顔は、女と目が合うとニィ、と笑って見せた。
そして、ビルの壁面をゆっくりと這いつくばるように登って行った。
女はその場に尻もちをつき、本当に顔があった、と、ポツリと言葉を漏らした。
その後、そのビルでは窓の外に、たまに嘴のようなものが見えることがあるのだという。
ただ、それだけの話だ。
くちばし【完】




