たびさき
この忙しい時期に急に出張を男は言い渡された。
もうすぐ年末の時期で忙しいのに、と思いつつも男に断れるわけもない。
あまりにも急だったので、ビジネスホテルすら予約を取れなかったのだが、部長の知り合いの旅館に無理に泊めさせてもらうことになった。
男はその点だけは感謝だ。
旅館に着くまで、男はそう思っていた。
なんとか出張先での仕事を終え、旅館に着いた男は唖然とした。
旅館とは名ばかりの廃墟に思える。
年季のある建物は良いが、手入れができておらず、廃墟に見えなくもない。
少なくとも現在も経営している旅館には見えない。
だが、住所も旅館の名前も、廃墟を指し示している。
男が立て付けの悪い戸を開けると、中はちゃんと清掃の行き届いた建物だった。
受付には白髪のおばあさんがいたので、そのおばあさんに向かい、社名と部長の名を告げる。
そうすると、そのおばあさんは、聞いてますよ、と笑顔を向ける。
そして、部屋に通される。
おばあさんが言うには、あまり急な話だったので普段あまり使っていない部屋だそうだ、その分、宿泊代は安くなっているので簡便して欲しい、と言うことだ。
確かに旅館の客室というよりは、従業員の休憩所のような部屋だ。
だが、男は寝られれば良いと特に気にしない。
なにせ、温泉はあるし、食事は良い物をと、言ってくれていたのだ。
それに宿代だって会社もちだ。
お食事を用意しておくので、先にお風呂に、と、男は言われ、浴場へと行く。
天然温泉だ。
建物自体が古くはあるが、浴場自体はよく掃除が行き届いている。
なんで、入口だけあんな廃屋のような、と男は思うが、もしかしたら男が入っていった場所は裏口だったのかもしれない。
男は、でも、受付もちゃんとあったしな、とそれを考え直す。
温泉を出た後、部屋へ戻ると狭い部屋には似つかわしくない豪華な食事が用意されていた。
刺身や固形燃料で焼く個人用の焼き肉など、盛りだくさんだ。
この食事と温泉だけでも男に文句を言うつもりなどなくなる。
これが会社の金で楽しめるのだから、と。
ただ、食事が終わると急にやることが無くなる。
この部屋にはテレビもない。
後はもう寝るしかやることがない。
だが、急な出張だったし、それなりに遠くまで来ての打ち合わせだったので、男も疲れた。
明日はこのまま会社に向かい打ち合わせの内容も報告しなければならない。
なら、もう寝てしまうのもありだと、男は布団の中へ入る。
部屋は狭いが布団は良い物のようだ。
これならすぐに眠りに付ける、そう思った時だ。
枕元に誰かが座っている、男は直接見たわけではないがそう感じた。
なにより誰かがいる気配がする。
枕元に誰かが正座し、男を覗き込むように見てきている。
直接見たわけでもないのに、男の脳裏にはそんな光景が浮かんだのだ。
だが、男は目を開けない。
いや、開けられない。
目が開かないのだ、なのに、枕元に誰かがいると、そう感じ取れる。
覗き込んでいる者は、ブツブツとなにかを言いながらも、クチャクチャとなにかを口の中で噛みながら、男をただただ覗き込んでいる。
そして、その覗き込んでくる者が、口内でクチャクチャと噛んでいるものが、男の顔に落ちて来る。
生暖かくべちょべちょしたものが男の顔に触れる。
と、言ったところで、男は目を覚ます。
大慌てで、手をばたつかせながら、男は起きる。
荒くなった息を吐き出し、そして、自分の顔を手で触る。
そこには何かが、よく噛み砕かれ涎まみれの何かが、べっとりと顔についていた。
男は悲鳴を上げ、それをテッシュで拭きとり顔を洗う。
結局、顔に何が付いていたかなどわからない。
翌日、そのことを、旅館のおばあさんに言うのだが、首をひねるだけだった。
今までそんなことは起きなかったと、不思議がるだけだ。
男が会社に帰り、そのことを含めて報告する。
そうすると、肝試しにと、その旅館の格安の部屋に泊まることが恒例となってしまった。
男はもう自分は行きません、と、それだけは宣言したそうだ。
ついでに、その旅館の格安の部屋で、三人に一人は男と同じ目に合ったので、しばらくして中止となった。
ただ、それだけの話だ。
たびさき【完】




