失恋
「ふ……ええ……!!」
王宮の中庭の隅で蹲り、華は必死に泣き声を必死に嚙み消そうとしながらも、嗚咽を洩らした。
——私、何で泣いてるんだろ……。ハンナは悪役令嬢なんだから、いつかヨハンに婚約破棄されるのは分かってた事なのに……。
零れ落ちる涙を手の甲で何度も擦りつけ、華は肩を震わせた。
——だめ。全然止まらない。どうしたらいいんだろう。蒼壱、話したいのに……。
『私の望みを叶えてくださるのでしたら、陛下。私とヨハン第一王子殿下との婚約を破棄頂きたく存じます』
華の脳裏に蒼壱の言った言葉が浮かび上がった。
——一体どうしてあんな事……。全然分かんないよ。蒼壱が、まるで蒼壱じゃない様に見えた。どうして先に何も相談してくれなかったの? 一体どうして……!? 私が、そんなに頼りなかった? 私、蒼壱の姉さんなのに!
芝生を踏みしめる足音が聞こえ、華はハッとして身を小さくした。華の今の姿は騎士の服装だ。アオイ・ランセルが無様に泣いている姿を誰かに見られるわけにはいかない。
——お願いだから、こっちに来ないで!
ぎゅっと唇を噛みしめて祈ったが、足音は華の側へとどんどん近づいてきた。
「……そこにいるのか?」
ヨハンの声だった。華はサアッと血の気が退いた。
「こっちに来ないで、ヨハン!」
慌てて声を放ったというのに、ヨハンはずかずかと華の側へと歩み寄って来るので、華は「来ないでってばっ!」と、顔を隠した。
華の身体を、ヨハンがそっと抱きしめた。
それは、優しい抱擁だった。乱暴な様子が微塵も感じられず、まるで大切な宝物を壊れない様に大切に抱く様だった。
「……ヨハン?」
「泣いているのか?」
優しく問いかける声に華はカッと顔を赤らめると、慌てて誤魔化そうと言葉を発した。
「えっと、気管が! 咳き込んでちょっと!! ケホケホッ!」
「何故泣く? 私との……いや、ハンナ嬢と私の婚約破棄が辛いのか?」
ヨハンに言い当てられて、華は少し躊躇った後、素直に頷いた。
「うん……どうしてか分からないけど、悲しい……」
「そうか……」
ヨハンは小さくため息を洩らした後、「私もだ」と言った。
——え……?
ヨハンは、ハンナと婚約破棄したがってたのに……? あ、でも、確かに謁見の間で、ヨハンはしきりに婚約破棄を受け入れなかった。ヨハンにとってはヒナと婚約した方がずっと都合がいいはずなのに、一体どうして……?
「私も、ハンナ嬢との婚約が撤回されてしまうことが悲しい。おかしな話だ、私はずっと、他人に興味を示さず、感情がない冷血王子と言われ続けてきたというのに」
「ヨハンも、悲しいの……?」
華を抱いたまま、ヨハンが静かに頷いた。
「ああ。哀しくて堪らぬ。だが、まだ間に合うだろう。幸いあの場には他の貴族達が招集されてはいなかった。正式に公表するまでの間、どうにか父上を説得しよう。それが叶わぬのなら、私は王位を継承せずとも良いと思っている。ミゼンも最近は落ち着いてきた。国を任せても問題無いだろう。私がサポートしてやれば良いだけの話だ」
真面目でお堅いヨハンが、そんな無責任な発言をするとは思いもよらず、華は困惑した。
「ヨハン……? どうしてそうまでしてハンナとの婚約破棄を阻止したいの?」
ヨハンはすぅっと息を吸い込んで、意を決した様に言葉を吐いた。
「……私は、ハンナ嬢を愛してしまった様だ」
——ヨハンが、私を……!?
……ん? ちょっと待って? ヨハンの言うハンナって、蒼壱の事でしょ? ってことは、ヨハンは女装した蒼壱を好きになっちゃったって事!? そ、それはまずい!! ホントにBLになっちゃう!!
華はヨハンの腕を払いのけて慌てて立ち上がると、青ざめた顔でヨハンを見つめた。
「そ、それはダメ!!」
「……む?」
「好きになっちゃ、ダメっ!!」
華の言葉に、ヨハンはまるで叱られた子犬の様に瞳を潤ませて華を見上げた。
「……ならぬのか?」
「うん! ダメっ!!」
「それは一体何故だ? 今まで私がハンナ嬢に冷たく当たっていたからか? ……嫌われてしまっているのだろうか」
「ち、違うよ! 嫌ってなんかいないけど、でも、どうしてもダメなのっ!」
華はそう言いながら、ハッとした。
『蒼壱と性別交換したら良いいのに』
淡い恋心を抱いていた相手から言われ、辛辣な程に胸に突き刺さったあの言葉が華の脳裏に響いた。
——あの時と同じだ……。前に、私が憧れてた先輩と同じ。ヨハンは、蒼壱が扮するハンナの事が好きなんだ……。
私の事は男友達としか思ってない。
「……ヨハンは、本当にハンナが好きなの?」
呟く様に言った華に、ヨハンは力強く頷いた。
「ああ。心から愛している」
ズキリと華の心が痛みを発した。
冷や汗がつっと背を伝い、華は戸惑いを隠せなかった。ヨハンはその様子を見て不安気に眉を寄せた。
「どうした? もしや、謁見の間でのハンナ嬢の発言は、そなたも同意の上だったのか? そなたも、私とハンナ嬢との婚約破棄を望んでいるのか?」
「え……?」
——私が、ヨハンとの婚約破棄を望んでる……?
違う。望んでなんかいない。前はそうだったけれど、今はそうじゃない。
でも、蒼壱は考え無しにあんな行動を取る子じゃない。
じゃあ、どうして……?
『俺達の目的は“現実世界に帰る事”だよ。その為には、アオイルートである必要なんかない。ヨハンルートになったって構わないんだからね。一番避けなきゃいけないのはバドエンドだ』
蒼壱の言っていた言葉を思い出し、華はぎゅっと唇を噛みしめた。
——そっか、蒼壱はきっと、ヨハンルートにする為にハンナと婚約破棄するように言ったんだ……。
ヨハンが王位継承をしないと、ゲームのストーリーが成立しないから。バドエンドにするわけにはいかない。
現実世界に帰る為に、ヨハンルートにしなきゃって……。蒼壱はきっとそう考えたんだ。
でも……どうしよう、蒼壱。私、ヨハンルートになるなんて嫌だ。ヨハンがヒナと結婚するだなんて……凄く嫌……。
そう考えた瞬間、ドキリと華の心臓が強く鼓動した。
——私、ヨハンの事が好きになっちゃったんだ……。
必ず、お別れになっちゃうのに。どんなに好きでも絶対にずっと一緒になんか居られないのに!!
離れる運命が決まってるのに、こんな気持ちになっちゃうって分かってるのに!!
私、なんてバカなんだろう……!! ヨハンは私じゃなく蒼壱が扮するハンナ嬢が好きなのに……。蒼壱がこの世界にのめり込むなって何度も忠告してくれてたのに。それなのに、私は……!!
華はパッとヨハンに背を向けると、拳を握り締めて言葉を放った。
「ごめんね、ヨハン。ヒナのところに行ってくれる?」
震える言葉を吐く華に、ヨハンは眉を寄せた。
「……何故だ?」
「何故って。ヒナは聖女だもの」
「泣いているそなたを放っておけと言うのか?」
「私は大丈夫。稀代の英雄アオイ・ランセルだもの。だから、ヒナのところに行ってあげて」
「……嫌だ」
静かに言葉を放ったヨハンに、華は更に淡々と続けた。
「お願いヨハン。彼女を慰めてあげて。ヨハンは第一王子なんだから、聖女を大事にしないと駄目だよ。国王陛下の言った通り、ヒナと婚約して王位を継承しなきゃ」
「私に、ハンナ嬢との婚約破棄を甘んじて受け入れろと言うのか? アオイ・ランセルを想っているヒナを無理やりに娶れと?」
華はズキズキと痛む心を無理やり押さえつけ、意を決して答えた。
「……うん。大丈夫、無理やりなんかじゃないよ。ヒナはヨハンの事嫌いじゃないもの」
ヨハンは驚愕の表情を浮かべ、必死に縋りつくような瞳を華へと向けた。
「何故だ? ハンナ嬢は、私を想ってくれているのではないのか? 私を嫌っているのか? そうなのか?」
華はヨハンの言葉に、心臓が大きく鼓動した。
——大好きだよ、ヨハン……。嫌いなはずないじゃない。
「想ってなんか……ない」
華は震える声で更に言葉を続けた。
「ハンナは、ヨハンにずっと冷たくされてたから。今更ヨハンの事を信用できないと思う……」
シンと、静まり返った空気が、まるで固まっているかのように二人の間で凍り付き、華は呼吸ができずに唇を噛みしめた。
ヨハンはため息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。その場から離れる事を躊躇うように暫く佇んでいたが、何も言わずに踵を返し、王宮へと戻って行った。
——これで良いんだよね? ……蒼壱。
華の頬を幾筋もの涙が伝い、ぽたぽたと地面へと零れ落ちた。芝生に落ちた涙が弾けて細かな光の粒へと変わる。
ヨハンの姿が確実に見えなくなるまで、華は振り返る事ができずにいた。ヒナの元へと向かうその背中を見たく無いと思ったのだ。
——ごめん。ごめんね、ヨハン! 傷つけちゃってごめん!! 信用できないなんて嘘だよ。私は、こんなにも、苦しいくらいに貴方が大好きなのに……!! でも、ヨハンが好きなのは私じゃなく蒼壱なんだもの……。それに私達は必ず離れ離れになる運命だから……!!
華は蹲り、肩を震わせながらたった一人、中庭で泣きじゃくった。




