心の痛み
ヨハンは我が目を疑った。自分に替わって毒入りのお茶を飲み干し、苦し気に眉を寄せ、口から血を零す彼女の姿を呆然と見つめた。
ふらりと倒れ込む華の姿が、まるで白昼夢でも見ているかのように信じられなかった。
テーブルクロスが引っぱられ、その上に乗せていた食器も花瓶も地面に落ち、けたたましい音が庭に響いて、ヨハンはハッとした。
「誰か、医師を呼べ!!」
慌てて指示を出した後、怯えるヒナに「そなたは神聖魔法を!」と怒鳴りつけるように声を放った。華に近づく使用人達に「触れるな!!」と怒りを露わに叫ぶと、ヨハンは自ら華へと神聖魔法をかけた。しかし、ヨハンの能力は治癒能力に特化したものではないため、頼りになるのはヒナの魔法だった。
「は……ハンナは、い、一体どうしちゃったの?」
震える声で問いかけるヒナには答えず、「そなたが頼りだ、頼む」と促した。賢明に神聖魔法をかける二人の前で華が苦し気に咳き込み、更に血を吐いた。顔から血の気が退き、痙攣を起こしている。
「ハンナ!! 嫌、しっかりして!!」
ヒナは怯え、ボロボロと涙を零しながらも必死になって神聖魔法をかけた。
王后の庭は騒然としていた。
しかし王后はその中でも一人平静で、異質だった。それでも毒の混入が王后の手によるものだと、使用人達の誰一人として疑おうとはしなかった。ヨハンが訪れた事も、華がヨハンからカップを奪ったことも偶然だからだ。
使用人達は自分達が犯人に仕立て上げられるのを恐れ、皆わが身を心配し騒いでいるのだ。
ヒナは華に神聖魔法をかけ続けながら、王宮の醜怪さを目の当たりにし、身の毛もよだつ思いだった。
「ハンナ、お願い目を覚まして。貴方が友達でいてくれたから、私、頑張って来れたのに……!!」
必死になってヒナは華に神聖魔法をかけ続けた。魔力の喪失と共に体力が奪われ手が悴み、凍り付きそうな程の寒さがヒナを襲う。
「ハンナ!!」
「……ヒナ、ご苦労だった。もう良い」
ヨハンがヒナの前でゆっくりと首を左右に振った。
「ハンナ嬢は、召されたようだ」
身動き一つしない華の首筋に触れ、ヨハンが静かに言った。
「うそ……嫌っ!! そんなの嫌っ!! ハンナ!!」
泣き叫ぶヒナの肩に優しく触れ、「そなたはよくやってくれた」と労うと、ヨハンは華を抱き上げた。
「待って! ヨハン様、もう少し……!」
「これ以上はそなたの身が持たぬ」
「私は平気だから、お願い!!」
「ヒナ……遺体に神聖魔法は効かぬのだ。聖女であるとはいえ、治癒魔法はかなりの体力を消耗する。そなたも限界だろう」
僅かに「え……?」と、声を洩らし、ヒナがふらりとよろめいた。
「誰か、ヒナを休める場所に案内してやってくれ。それと、王宮内にアオイ・ランセルがまだ居るはずだ」
ヨハンはそこで言葉を切った。唇を噛み、腕の中の華を見つめた後、「私の部屋へ呼んでくれ」と口早に言って庭を後にした。
王宮の廊下を、華を抱き上げて歩くヨハンを使用人達が遠巻きに見守った。誰もが声を掛けるのを躊躇する程にヨハンは怒りに満ち溢れており、側を通るだけでピリピリと肌に痛みが走る程の殺気に、近寄る事などできるはずが無い。
真っ白な血の気の引いた顔をした華は、ヨハンの腕の中でまるで人形の様にも見えて、廊下に敷かれたカーペットを踏みしめて進む二人の姿を、使用人達はただただ見送る事しかできなかった。
——大バカ者め。こうなるのを恐れたからそなたとは婚約を破棄しようと考えたというのに。ミゼンの伴侶となった方が、危険を免れたものを……!!
心の中で華を責めて、腕の中で瞳を閉じている彼女を見つめた。
ヨハンからカップを奪い取り、戸惑う様な視線を向けた華の姿が脳裏に浮かぶ。
……私の責任なのか? そなたを信用することができなかった、私の。
全てを話す事が出来て居れば、このような事にはならなかっただろう……。
ヨハンの心臓がぎゅっと収縮し、痛みすら伴う程の悔しさと怒りに、発狂しそうだった。いつも冷静沈着な彼のそんな様子を、使用人達は初めて目の当たりにし、廊下は静まり返っていた。
「兄上!!」
使用人達が見守る中、声を張り上げて呼び止めたのはミゼンだった。ミゼンは緊張した面持ちでツカツカとヨハンの側へと近寄ると、華の顔を一目見て眉を寄せ、手を伸ばした。
「触れるな!!」
ヨハンが怒鳴りつけ、ミゼンはピタリとその手を止めた。
「ハンナ嬢は、私の婚約者だ」
「分かっています! ですが……!!」
「黙れ。何も言うな。私は今そなたをどうにかしてしまいそうなのを必死に堪えているのだぞ!」
「彼女は、もしや母上の茶会で……」
ドッ!! と、ヨハンがミゼンを蹴り倒した。使用人達がざわめき、ヨハンは「何も言うなと言った!!」と、睨みつけ、そのまま歩を進めて廊下を歩いて行った。
ミゼンはすぅっと立ち上がり、ヨハンの後ろ姿を見つめた後、踵を返し足早に王后の庭へと向かって行った。
自分の母を初めて諫める気なのだろう。
——アオイに合わせる顔がない。
華を自室のベッドの上に寝かせると、ヨハンは傍らの椅子に腰掛けて項垂れた。
「何故だ? そなたはあのお茶に毒が入っていると気づいた風だった。それなのに、何故飲んだ? 私を庇ったとでもいうのか? 私は……そなたに冷たかったというのに」
ヨハンの組む手が震えていた。
「そなたは、私を嫌っていたのではないのか?」
茶会での無礼の詫びの品をとランセル家に送った物をことごとく受け取らないばかりか、凱旋の時も労いの言葉一つヨハンにかけず、彼女はヨハンに対して塩対応をする塩令嬢なのだと王宮内で噂となっていた。
アオイの出征の時は『冷たい人だ』と罵られた。
生誕祭に贈ったドレスも着てはくれず、見せつける様にミゼンとのダンスを目の前で披露された。
剣技大会の授賞式の後、婚約破棄を公表すると言った私に、そなたは無言で受け入れたのでは無かったのか?
どう考えても嫌っているとしか思えない行動をとっておきながら、何故私を庇ったのか……
「そなたが分からぬ。それなのに、理由を聞けず仕舞いになってしまうとは、酷な事をしてくれる」
——目を背けていたのは、私なのだろうか。
人に愛される事にあまりにも臆病になっていた。彼女を最初に避けたのは、確かに私だ。
『人の上に立つならもっと皆に気遣いできてこそでしょ! 貴方みたいな人が王子だなんて、この国の人達は皆可哀想!』
ハンナからの茶会の誘いを何度も断り続けていたというのに、いざ向かってみればそんな言葉をぶつけられ戸惑った。
ヨハンから絶交を切り出すどころか、ハンナの方から手厳しい言葉を受ける事になるとは思いもよらなかったのだ。
「ハンナ、そなたは私にどうして欲しかったのだ? この国を護る者として、私は心を凍り付かせ立ち向かわねばならぬのだ。そうでなければ弱い人間になってしまう!」
横たわる華を見つめ、ヨハンはハンカチを取り出すと、身を乗り出してその口元についた血を優しく拭いてやった。
——苦しかっただろう。毒の苦しみは、私にも経験がある。そなたに味わわせる事になるとは……。
華の前髪がサラリと零れた。
「……何……?」
華の額についた傷を認め、ヨハンは思わず声を洩らした。震える指先で華の額に触れる。
——この傷は、フォルカーとの打ち合いでアオイがつけた傷ではないのか? 先ほど私がこの目で検めたのだ、間違いない。
「………アオイ?」
——どういうことだ?
「そなたは……一体何者だ?」
ヨハンは華の頬に触れた。女性らしい柔らかさが指先に伝わる。首筋を見ると、化粧でごまかしているとはいえ、矢傷の痕が残っていた。
それを見たヨハンに戦慄が走った。
——これは、私を庇ってアオイが受けた矢傷……?
体中に鳥肌が立ったかと思うと、ぶわりと脂汗が浮かんだ。吐き気がヨハンを襲い、手が震えた。




