天使のだし汁
「おやじ、最近、ラーメンのスープの味変わったよな。言っちゃ悪いけど、レビュー酷かったもんな。『クソまずラーメン』とか、『カップラーメンの方がまし』とかさ。」
カウンター席に座った初老の男がラーメンをすすりながら話しかけてきた。店の常連の富沢だ。近所で工務店を営む彼は、週3回の昼食をこのラーメン屋でとっている。時刻は午後2時を回っていた。1カ月ほど前から店が繁盛し始めたため、最近では混み合う時間帯を避けているようだ。
「ああ、おかげで連日、大行列だよ。」
正吉は表情を変えずに答える。
「なあ、そろそろ、この味の秘密教えてくれたっていいだろう。どうやったら、こんな味が出せるんだ。どこか甘くて、まろやかで、優しい味。」
「言えるわけねぇーだろう。企業秘密だ。」
正吉が奥の厨房へ下がろうとしたとき、若い女性の声に呼び止められた。
「すみません。2時半に約束していた者ですが。」
「ああ、バイト面接の子だな。そこの応接室に入ってくれ。」
10分も立たないうちに応接室のドアが開いた。女性は頭を下げて出て行った。ラーメンを完食して、タバコを吸っていた富沢が振り向いた。続いてドアから出てきた正吉に声をかけた。
「さっきの子、女子大生か?小柄で色白。かわいらしい娘さんだな。よかったな、店の看板娘になるぞ。」
「彼女は不採用だ。未熟すぎる。」
「え?なんでだよ。人が足りねーんじゃねーのか。注文とか会計とか皿洗いとか、仕事ならいくらでもあんだろう?」
「そんなのは妻の芳江と娘の早紀で十分だ。上手いだし汁が作れない女は雇わない。」
「はあ?面接だけで料理の腕がわかるのかよ。相変わらず、意味わかんねーやつだな。」
富沢は水を飲んで話を続ける。
「そうそう、バイトっていえば、うちの娘は、もう40近くになるってのに、夜の仕事とかんとか言って、昼間、寝てやがんだよ。最近やつれてきてな。器量が良いんだから、早く結婚しろって言ってんだがな。」
閉店時間を過ぎ、客が帰った後の店内は静まり返っていた。仕込みの時間だ。正吉は厨房に入った。奥に大きな鍋が置かれている。お湯が張られ、湯気が立っている。
「さて、そろそろ仕込みの時間だよ、奥さん。」
「よろしくお願いします。」
「なんか、最近、やつれてきてないか。」
「いいえ、大丈夫です。」
「俺は味には妥協しねーんだ。やるからにはしっかりやってもらうぞ。」
正吉は女性に濁た液体の入ったバケツを渡した。
「じゃあ、これを全部飲んでくれ。」
「カラダは洗ってきたか? よろしい、じゃあ、入ってくれ」
女性は全裸になると、鍋のお湯にそっと足を浸し、一瞬、熱さに驚いたが、決心して、潜り込んだ。
「いいだし汁を取るには緩急が大切だ。1時間たったら、今度は隣の冷水に10分入ってくれ。それを朝まで繰り返す。俺はそろそろ休むことにする。しっかり頼むぞ。」
正吉は居住空間のある二階へ上がっていった。
「え!?富沢さん、大丈夫ですか!?」
パジャマ姿のまま厨房に下りてきた早紀はビーチチェアから今にもずり落ちそうにぐったりしている全裸の女性を見て驚いた。深夜に目を覚ましてトイレに立った時、ふと気になって下に降りてきたときだった。
早紀が体をゆすると女性は意識を取り戻したようだ。
「あれ、ちょっと眠っちゃったみたい。いけない。」
「だいぶ、やつれてますよ。もうやめた方が良いですって・・・」
「だめよ、まだ十分にだし汁が取れてないもの。」
早紀は鍋に張られたお湯をお玉ですくいあげ、一口だけ味見した。
「うーん。確かにいつもより薄いですね。このままではお客に出せないわね。」
早紀は腕を組んでしばらく湯面を見つめたのち、女性の方を向いて、決意を口にした。
「わかった。残りは私がやる。」
「え、だめよ。あなたまだ若いでしょう?」
「そう。見た目は幼いけど、私だってもう30代半ばよ。十分いける年ごろじゃない?」
「だめだって、あなたのようなきれいな女性がこんな汚れたことしちゃ・・・」
「え?どうして汚れてるの?私が体を張って作った汁でみんなを喜ばすことができるんだよ。私にしか出せない味をだすの。こんな喜びないわよ。」
早紀はパジャマ、下着と順にはぎ取って、白い裸体をあらわにした。少し寝ぐせのついた髪をバンドで束ねると、台に上って足先を湯面につけて、湯加減を確かめ、女性に向けて笑顔を向けた。
「だめよ!もう戻れなくなるのよ!」
女性の声を気にも留めずに、ゆっくりと鍋の中に腰を落としていった。
正吉はだし汁の味見をしている。女性二人は固唾をのんで見守る。
「これは・・・。奥さん、少し体質が変わったか?」
正吉は首をかしげたが、直後に恍惚の表情を浮かべた。
「だが、これはこれですばらしい。なんだか懐かしい味がする。ほんのりと幸せな気持ちにさせる味。まさに天使のだし汁。おれが求めていた味に近い。」
1週間後、保健所が抜き打ちで実施する成分分析の結果、正吉のラーメンが食品衛生法に抵触することが判明した。同じだし汁を作れなくなった店は元のようにすたれていった。正吉はだし汁の開発に試行錯誤を重ねたが、どれもこれもあの天使のだし汁には遠く及ばなかった。