7:濁流①
大陸歴一〇四四年。春先に始まった辺境の戦争は終結が見えないまま八月に突入しようとしていた。戦況報告は逐次届けられているが、市民の耳に入る情報は玉石混交、様々な憶測を生んでいる。
「おい聞いたか、テオドロス将軍が蛮族たちを倒して追い払ったそうだぞ」
「いや俺は、スキティアの王様が直々に攻めて来て、将軍も負けちまったと聞いた」
「帝国が裏で糸を引いていて、すでに軍を出撃させたって噂だ」
パラス市では未だ期待と不安を抱えながら、遠い辺境の戦いが耳目を集めていた。
「アルボアの方なら少しは涼しいかしらね」
書類を団扇代わりにしたリリスはため息交じりに呟く。現在彼女はパラス市内外の情報を集めてはテオドロスに手紙を送り、返信から戦況の詳しい情報も得ていた。
「でも彼ったら、心配しないでの一言も書かないの」
呆れたような言い方だが苦笑を浮かべているリリス。テオドロスが手紙に感傷的な言葉を書く質でないことはもう分かっている。
だが対面して話を聞くマヌエル執政官の気配は重い。市の重鎮であるこの年長者は過去にリリスの世話役をしたこともあり、今でもたまに様子を見に来る。
「よくまあ君はテオドロスを支援するものだな」
「そういう人多いでしょ、この町」
「町の英雄としてな。だが君なら、彼が英雄でなくとも同じようにしたと思うが」
「投資だもの」
「そうかね?」
のらりくらりとした答えにマヌエルは咳払いした後、踏み入るよう言葉を選ぶよう口を開いた。
「彼との関わりは止めた方がいい」
「貴方も彼を危険人物と批判したいの?」
「彼が戦争に傾いていると評する者はいるがね。私はそれより、何か言いようのない危うさを感じるのだよ」
感じる、というのは正しくない。マヌエルは以前テオドロスの胸の内を一部見せられ、そこに危険な情念が潜んでいると確信していた。
「彼が少々負けるならまだ良い。物事に均衡が保たれる。だが彼が勝ち続ければ、いつしか市民、いやヘラス人たち皆が増長し、彼と共に坂を転げ落ちる。そんな時が来るのではないかと不安になるのだ」
「世間のそういう所は気づいている。彼って遠くを見て立ち止まれない質よ。だから私、側で見ていてあげないとって思うの」
「いずれ君も巻き込まれるぞ」
マヌエルはリリスの父と友人だった。しかし、マヌエルが方々飛び回っている間に友人は没落して借金を抱え、その形にリリスが初老の資産家に嫁がされた。マヌエルが戻ってきた頃にはもう友人は失踪していた。そのためリリスが若くして未亡人なった時、今度は何としても守ってやりたいと思ったのだが。
そんな彼女が提携しだした男がよりにもよってパラスの英雄だった時は複雑な心境で、それは今も変わらない。
「私も今は一人の大人よ。自分のことは決められる」
「そうかな。君は彼を使って世間に傷跡を残したいのではないか? ちゃんと周りは見えているのかね?」
この言い方にリリスの目つきが変わり、マヌエルはすぐに口をつぐんだ。
「すまない、言い過ぎた。君が心配なのだよ」
「あら、そうまで気にかけてくださるなら、私があの老人に売られた時に、父が困り果てていた時に助けてくだされば良かったのに」
完全に尾を踏んでしまったとマヌエルは後悔したが、それ以上にリリスの表情が死んでいくことが悲しかった。普段の明るく物怖じしない彼女はそこにいない。昔の名残あるか弱い少女の顔があった。
「……まだ傷は痛むのだな」
「痛むというほどじゃあないの。ただ空っぽなの」
「彼、テオドロスに惹かれているのかい?」
「……分からない。愛を知らないまま大人になってしまったから」
これ以上は心が保たぬとマヌエルは辞去した。残されたリリスはテオドロスの手紙に目を落とす。果たして自分と彼の関係はどんな言葉で表されるものか、彼女自身にも分からない。今はとにかくあの余裕ぶった顔を側で見て、その頬を引っ張ってやりたい気分だった。
「会いに行くか」
かねてより進めていた計画もまとまりつつある。リリスは方々の商人に掛け合って支援物資を集め、それを運ぶ船の手配も済ませていた。その船に同乗して青海の北まで足を伸ばそう。そうと決めたら気力が湧いてきて立ち上がるリリスだった。
同じ頃、都市連合各地ではようやくまとまった兵数の援軍が組織され始め、それぞれにアルボア救援に動き出した。その指揮系統は先行したパラス市に委任され、テオドロスが統括することとなる。




