10:エピローグ①
空に青。地に緑。遠くに稜線が広がる果てなき草原である。秋が過ぎ冬が到来すれば、この大地が真っ白な雪に覆われるのだ。
人が生きるには厳しい土地である。そんな場所ではるか昔から営みを続けてきた者たちがいた。
それが遊牧の民である。羊や馬などの家畜と共に、豊かな牧草を求めて草原をさすらう。特に騎馬民族と呼ばれる者たちは剽悍な戦士たちで、他の部族や遠く定住民まで侵略することもある。
近年、そんな遊牧民たちを束ねて強大な国家となったのが<スキティア王国>である。
草原の只中に簡易の野営地がある。王国を支配するスキティア族のものだ。戦には小さいその拠点は狩りのためのものか。今は戦士たちが馬の世話などしていて穏やかなものだった。
男が一人、空を仰いでいる。風に吹かれた髪が白く輝いているが白髪というわけではない。歳は中年を過ぎた辺り。だがガッシリとした体格と鋭い目つきは、彼が危険な戦士であることを見る者へ理解させるに十分だった。
「王よ、使いの者が戻りました」
声をかけたスキティアの戦士は銀髪だった。王と呼ばれた男も、周囲のスキティア戦士たちも、多少の差はあれど銀の髪をたなびかせている。
「これへ連れてこい」
スキティア族の族長にしてスキティア王国の王サイクラコスは空を仰いでいる。
使い番の兵士が側の近習に書簡――皮の巻物を渡す。そこに記された文字は、彼らの王が定めたスキティア独自の文字である。
サイクラコスは書簡の内容を確かめ、若干眉をしかめる。
「勝ったのはヘラス人か」
ヘラス都市連合とアリアナ帝国の半年を超える戦争は、都市連合に有利な和約が結ばれ、実質的な勝利に終わった。
「帝国の王ダリウス、存外大した人物でもありませんか」
王の家来たちは嘲りを込めてそう言ったが、サイクラコスは固い表情を崩さない。
「ヘラス人が想像以上ということもありえる」
「それにしても帝国が落ち目となります。今後の戦略について考え直すことは?」
「これまで通りだ。変更は無い」
サイクラコスはきっぱりとした口調で周囲の言葉を切って捨てた。
ふと地上を大きな影が横切った。再び空を仰ぐと、地を叩くような大きな羽音と共に雄々しい猛禽が舞い降りてくる。
「戻ったか」
降り立ったのは巨大な、それこそ熊のように雄大な体躯の鷲だった。大きすぎる鉤爪には狼が子犬のように鷲掴みにされている。
「近頃荒らし回っていた野良犬が捕まりましたか」
「駄犬は間に合っている」
サイクラコスは興味なさげに手で合図し、それを見た巨大な鷲が狼を引き裂き始める。狼の捕食者に似合わぬ悲痛な叫びを背に、サイクラコスは家来を引き連れてその場を後にする。
***
北に白海を臨むリビュアの大地。暑く乾いたこの土地では古くから海洋交易が盛んである。
始まりは東のヌビア地方からの植民だった。ヌビアで栄えた古王国の名の下、トゥネスに町を築いた彼らは、東西に伸びた海路を縦横に行き交い富を生み出してきた。
だがはるか東でアリアナ帝国が急速に勃興すると、隣接する古王国は圧迫されだす。トゥネスはその情勢下で上手く立ち回り勢力を拡大。やがて“自治領”を称するようになる。
古王国は滅びたが自治領は生き残り、今は富裕な大商人たち“三十人衆”が広大な領域を支配している。それが<トゥネス自治領>の成り立ちであり生き方であった。
自治領の都トゥネス市には石造りの闘技場があり、中では剣闘奴隷の戦いや市民の競技会、時には舞台で劇が催されることもある。季節は冬を迎えるが、中は観客たちの熱気で浮かされそうだ。
「殺せ!」
「戦え!」
勝者には名誉が。敗者には死が与えられる鉄と血の世界。それを貴賓席から見下ろす者たちがいた。着飾った衣装に身を包んだ彼らは自治領の支配する三十人衆の一員である。
「いい剣闘士だ。何処で見つけたかな?」
「あれは軍律違反を犯した元軍人さ」
「なるほど、せいぜい役に立ってもらわねばな」
剣闘士には罪人や捕虜が当てられることもあるが、一方で名誉を求めて志願する者もいた。実際、剣闘士の身分から勝利を重ねて立身出世した者もいる。
三十人衆も多様な人種から輩出されている。身分の別なく金さえ積めば出世できる。あらゆる意味でこの国は自由なのだ。
闘技場が歓声に包まれる中、貴賓席にそそくさと踏み込む下人がいた。彼が主に耳打ちすると貴賓席の空気がにわかに変化する。
「都市連合が勝った」
「それは本当か?」
「やはりドレス島沖の海戦が分岐点となったようだな」
その場にいる貴賓たちは思い思いの表情をした。この報告で今後の情勢がどうなるか、それぞれに頭の中で絵図を広げ算盤を弾いている。
「この動乱でまたテオドロスが武勲を立てたようだ」
「あの裏切り者が。ハンノ、お主もとんだ食わせ者を雇っていたものよな」
彼らの視線が一人の男に集中した。三十人衆のハンノ。彼は都市連合のテオドロスを傭兵として従えていた時期がある。だがテオドロスは戦場で裏切り、故国への帰還を果たしてしまった。
おかげで自治領は対ヘラス戦において大きな損失を出し、その穴を埋めるのに数年を要して今に至る。
「まったく、我ながら人を見る目が無いよ」
テオドロスが離反してより数年経つが、彼が活躍するほどにハンノがこうしてつつかれる。もうハンノは苦笑いしながら流すしかなかった。
ひときわ大きな歓声が上がる。闘技場ではちょうどハンノの推していた闘士が敗れ、血に塗れていた。
「貴様の闘士も死んだな。もっと目を養え、それでよく成り上がれたものだな」
皮肉と笑いを浴びながら、ハンノは良いところもなく闘技場を後にした。
屋敷に帰ると多くの使用人たちが主を迎えた。三十人衆の中でも上位の富裕者ともなれば首都だけでなく、それぞれの根拠地にも屋敷を持ち多くの下僕を従える。
ハンノは贅を凝らした食事で腹を満たし、大浴場で汗を流す。そうした後に上物のワイン片手に寝室へ赴けば、ほぼ半裸の女たちがすぐさま腕を絡ませてくる。
「今日は嬉しそうですね旦那様。剣闘で楽しまれましたか?」
「ああ、私の闘士がやってくれたよ」
ハンノは上機嫌で女の胸に顔を埋め肢体を貪る。
(そうだ、テオドロス。私の闘士よ。これから先も邪魔者を消してくれ)




