序:始まり
雷鳴が轟く中を走った。冷たい雨が顔を打つ。この地域ではめったに無い豪雨だ。地面は水浸しになり、昼間だというのに辺りは暗く沈んでいた。
あるいはそれが契機だったろうか。
年端も行かぬ少年たちがどしゃ降りの中をひた走る。視界も足場も最悪だが四の五の言っていられない。
──急げ!
できるだけ早く。できるだけ遠くへ逃げねば。奴らが来る前に。
彼らは皆、手枷足枷をつけられている。全員が奴隷だった。鎖を鳴らしながら走るのも思うに任せないが、彼らは文字通り命がけだった。
数日前、彼らの仲間の一人が殺された。それこそ動物でも殺すように、無慈悲に。
その哀れな奴隷は体を悪くし動けなくなった。彼らを捕らえる奴隷商たちは、薬を与える代わりに刃をくれてやった。連中がその奴隷に見出した値打ちは、死んで見せしめとなることぐらいだったのだ。
それより前には壮健な大人の奴隷が殺された。歯向かったからと一刀のもとに切り捨てられ、死体は今ごろ獣が片付けているだろう。
奴隷たちは恐怖に支配された。だがそんな中でも諦めることを知らず、恐怖を勇気が凌駕してしまう例もあった。
このままではいずれ殺される。あるいは生きたまま地獄を味わわされる。ならばいっそ――。
そんな無謀と生への執着が合わさった結果、彼らは脱走という危険な賭けに出た。
夜になった。周囲は完全な闇に包まれ足下もおぼつかない。それでなくとも疲弊しきっている彼らはようやく休むことにする。
足枷が邪魔をして距離を稼げていない。大きめの石で叩いてみるも、簡単には壊れそうになかった。
気温はぐっと下がるが暖も取れず、少年たちは身を寄せ合い震えながら一晩過ごす。
朝が来ても体力はあまり回復していない。奴隷商たちからはわずかな飲食しか許されなかったため、遠くへ逃げる体力は元々ない。
仲間の一人が動けなくなっていることに気づいた。熱がある。意識も朦朧としてうわ言を繰り返すばかりだ。
彼らでは手の施しようが無いため、その病人は岩陰に横たえたまま、後ろ髪引かれる思いで歩き出す。
今自分たちが何処にいるのかも分からない。ただ西から連れ去られたという事実だけを頼りに、陽の沈む方角を目指し進む。そのうちに足を痛めた一人が立ち止まる。すでに全員が足の裏から血を滲ませている始末だ。
また一人置き去りにして行き場の無い逃避行は続く。休んでから追いつくと言っていたが、もう二度と会えない気がした。
彼らの危険な冒険は、そう長くは続かなかった。
遠くから馬蹄の音が響いてくる。もう追手が来たのかと彼らは茂みに身を潜めた。ちらりと見えた髭面には覚えがある。確かに彼らを探す奴隷商たちだった。自分たちの決死の逃亡が、何ら効果をなさないものだったのかと絶望感を覚える。
だが見つかるわけにはいかない。逃亡を図った奴隷がどんな仕打ちを受けるか、想像するだけで身が竦む。
追手が離れたのを見計らって再び駆け出した。足取りは重い。
雨雲さえ去れば照りつける太陽が容赦なく身を焦がす。日に日に力が落ち、交わす言葉も絶えてしまった。
やがて一人が膝をつき呻く。
――もう諦めよう……。
ここで飢えて死ぬより、奴隷商のところへ戻るほうがマシだと泣きそうな声で訴えた。
一同は心を抉られた。その少年は一回り年長であり、この逃走劇を最初に主張したのも彼だったのだから。
皆が心の支えを失ったようにうなだれる。そんな中、二人だけ顔を上げて前を見据える少年たちがいた。
――まだ頑張ってみるよ。
動けなくなった少年たちの安全を祈りながら、二人はまた歩き出した。
向かう先は険しい山中だった。奴隷商の追手が馬で探していたため、岩場に踏み込めば捕まりにくいと考えたのだが、飢えた子供の体には過酷な道だった。
しばらく歩いては岩陰で休む。どこまで行けば逃げ切れるのか分からない。終りが見えないことが辛い。
そしてついにその時が迫った。
地鳴りのような音を聞いて耳をそばだてる。再び追手が迫る蹄の音か。
二人は知りようもないことだが、別れた少年たちが追手に捕まり、彼らの口から逃げた方角を知られてしまっていた。
追手が近づいてくる。だが少年の耳は別の音を捉えていた。その音のする方へ連れ立って行くと、とてつもない奔流が待ち構えていた。
川が先日の豪雨で増水し、泥混じりの濁流となっている。
――飛び込もう。
片方が言った。ここを越えれば振り切れると。だが相方は首を縦に振らない。
――こんな流れ泳げない、溺れて死んでしまうよ。
――でも捕まるわけにはいかない。
決意がつかない。焦燥が募る。その時、木々の向こうに騎馬の影が見えた。
――見つけたぞ小僧ども!
奴隷商の怒声に背筋が震えた。もう猶予は無い。
川に飛び込もうとする少年は相方の手を引こうとした。が、伸ばした手は空を切り、直後に体を衝撃が襲う。
――君だけ行くんだ。
彼は押された。最後の仲間の手で濁流の中に。何かに掴まろうともがいた手は虚しくさまよい、そして体は荒れ狂う水に飲み込まれた。
***
どれほど時が経ったかろうか。少年は気づけば河原に打ち上げられていた。辺りはすでに暗く月明かりだけが冷たく照らす。
体中が痛む。しばらく身を横たえて休んだあと、少年は這うようにして岩陰に移った。
大きな石を拾い足枷に打ち付ける。何度も何度も。手に血が滲んできた頃、ついにその枷は砕けた。次に手の枷を岩に打ち付ける。腕が重い。傷が痛む。それでも繰り返した。心の底から沸き起こる感情をぶつけるかのように。
何度目かも分からない衝突で手枷も砕けた。すでに空が白み始めている。地平線の彼方から太陽が顔を見せ、少年は眩しさに手をかざした。
鎖は無くなった。その手はもう自由だ。この時ばかりは憎しみも哀しみも忘れ、かざした手の隙間からその輝きを噛み締めた。
それが始まりだった。