それぞれの分岐路②
「実はマフターブ様は帝都から失踪していたのです」
「失踪……?」
ナヴィドの言葉にクシャは身を固めた。にわかに事件の臭いがしてくる。
「……と言いますと大げさですが、行き先も告げずにふらりと消えてしまわれたのです。クルハ州の兄君には使者を遣りましたが、こちらに来ていたのですね」
「マフターブに何かあったのですか?」
帝国は今戦争中である。帝都の部隊は待機中とはいえ大王の傍を離れるとは、断罪される恐れもある。
「原因には思い当たることがあります。我らが大王陛下です」
「大王が?」
「陛下はマフターブ様に求婚なさったのです」
「きゅっ」
クシャは言葉の意味を理解するのに手間取った。事件には違いない。大王も人間、いずれは結婚もするだろう。親友であるし、めでたいはずだが、あのマフターブに求婚するとは想像もしなかった。
「いや、マフターブで悪いわけではないが。……それにしても驚いた」
「ですがマフターブ様は返事をなさらないまま、今のこの状態となりまして」
それはそうだろう、とクシャは思う。だいぶ慣れたが元々上がり症のマフターブだ、ろくな返事もできず、逃げるように帝都を飛び出したのでは、と想像できる。
「兄君は、ゴバード殿は了承しているのですか?」
「それはまだ。今使者が向かっている頃でしょう」
どうやらダリウスは、家長たるゴバードに断りなくマフターブ本人に話したようだった。これは大王の悪い癖だが一方で複雑な事情もある。
マフターブとゴバードは折り合いが悪い。彼女自身は独立独歩の気風があり、兄とはいえゴバードに結婚云々を決められるのは嫌がるだろう。
「それで陛下は何と。連れ戻すよう命令でも出ていますか?」
「いいえ、特に命令はありません。陛下は、クシャ様のところへ向かったかもしれない、とはおっしゃっていましたが」
「ほう、私を訪ねると思っていたのですか?」
「お二人は普段から仲がよろしかったでしょう」
「それはまあ」
「クシャ様の下であれば、ひとまず安心です」
(時間を置くということかな)
まだ驚きが抜けないが、求婚したダリウスの考え、それを受けたマフターブの気持ち、いずれも時間を必要とする気がした。
***
夜になると砂漠の熱は冷め、肌寒いほどの静寂がヌビアの地を包む。
マフターブは庭園で風に吹かれていた。この屋敷の主は相変わらず庭に薬草を植えるのが好みなようで、花の香りに混じって難しい匂いが鼻をくすぐる。
(落ち着く場所だ)
彼女にとって故郷クルハ州は兄の存在が重くのしかかる。帝都では将軍として周囲に負けまいと気を張ってきた。そんな中で、見知った顔の集まる場所はクシャの屋敷だった。
だからここに来てしまったのだろう。大王ダリウスから王妃となることを求められた時、わけが分からなくなって帝都を飛び出した。そして逃げるように向かった先がクシャの赴任先だった。
(妙なものだな。戦場でも恐怖を感じたことは無いのに、安心できる場所を求めていたのか)
……足音が近づいてくる。少し離れたところで気を使ったように止まり、また歩みだす。その仕草で相手は誰か、マフターブには何となく分かった。
「ここにいたのか」
「……クシャか、お邪魔している」
「話はナヴィドから聞いた」
――やはり知られたか。ナヴィドが来た時からそうなるだろうと覚悟はしていた。
「大王陛下は怒っていないようだ」
「……そうか。他に何か言っていただろうか?」
「特に何も。しばらくのんびりしていけば良い」
その言い方はクシャの優しさだったが今のマフターブには痛い。この戦時に愚かなことをしている自覚はあるのだ。
「陛下は……何故私にあんなことを言ったのか」
「求婚したことか。まあ、意外ではあったけれど、おかしなことでもない」
「そうだろうか?」
マフターブも太守の妹、貴族に属するが母親の素性が知れぬ身である。何より戦場で槍を振るい血と泥に塗れる人生を送ってきた女だ。
「私など陛下の后に相応しくない」
「それはまあ、お姫様という感じではないよな」
「ハッキリ言われると癇に障る」
「いやでも、マフターブは十分に」
「何だ?」
「……きれいさ」
クシャらしからぬ言葉だ。本人もそう思っているから微妙な沈黙が流れた。
「だけど陛下は。……ダリウスは自分を支えてくれる人がどんな相手か、あいつなりに考えていたのだと思うよ」
「クシャには分かるのか」
「ああ。傍にいて心強いと思ったのだろうさ」
(心強いか)
ダリウスが大王として日々どれほどの重圧にさらされてきたか、想像に難くない。それを少しでも肩代わりできたならとマフターブも思うが。
「マフターブの気持ちはどうなのだ?」
「……まだ短い間だが陛下に尽くしてきた。尊敬もしている。だがそれは忠誠であって……」
「愛情だとは考えていなかったか」
「考えたこともなかった。私と陛下では違いすぎる」
「忠誠が愛情に成長しても罪にはならないだろう」
クシャの言うことは分かる。だがマフターブには未知への不安と、もう一つ心に引っかかるものがあった。
「スタシラ様に申し訳ない……」
「……気づいていたか」
大王ダリウスとスタシラ姫は義理の兄妹である。二人の母たるアンビス太后は、遠縁のダリウスを宮廷に迎えたうえでスタシラと結婚させ、血縁の薄さを補強しようと考えていたはずである。ダリウスにその気が無くともスタシラは……。
「……」
「ともかくマフターブ、じっくりで良いから逃げずに考えるんだ。そのために来たようなものだろう」
クシャは一つ言い残してこの場を後にした。その背中に視線を送りながら、マフターブは何故自分がここに来たのか、誰を、何を当てにしていたのか納得してしまうのだった。




