8.エピローグ①
<超帝国>を伝説の時代とすれば、<ヌビア古王国>は歴史の時代を先駆けた国家といえる。千年を超えると言われる長大な歴史は様々な文書で伝えられるが、それが物事の全てを明るみにしているわけではない。
クシャはニール川を再び遡上していた。今度は州都よりさらに川上へ、ごく少人数の船旅だ。
船の舳先にはケペシュが立っている。今度はクシャの敵としてではなく案内人として流れる水の先を見据えていた。
「もうそろそろです」
ケペシュの声にネフェルティティが頷く。その後方ではクシャと、それに従ったストラトス、ククルらが船に揺られている。
「今度こそ待ち伏せて虜にされませんかね?」
「大丈夫だろう。彼女からは敵意の気配が失せている」
上陸すると馬が用意されていた。クシャたちは導かれるまま乾いた丘陵地帯を進んでいく。
「あれが“王家の谷”です」
ネフェルティティが指差す先に、巨大な彫刻や岩を削った神殿が見えてくる。王墓とは別にヌビアの王族が葬られた場所。静かで荘厳な歴史の息吹がクシャたちを迎えるようだった。
「我々の先祖は国が滅びた後、様々な場所に隠れ潜みました」
「あの王墓のように、ですか」
「普段から王族以外は近づかない場所です。そうした所に先祖たちは秘儀を施していました」
彼女が言う秘儀というのが魔術であり、王墓の隠し扉なども魔術式の仕掛けのようだった。ただ帝国の魔術とは趣がいささか異なる。
「詳しいことは長老たちが話します」
神殿の一つに通される。松明を灯すと壁中に掘られた文字、文様が浮かび上がって目を引いた。やがて奥に行き着くとネフェルティティが壁を押し、岩壁が左右に割れて道が開く。
「こんな仕掛けがあちこちにあるわけか」
ストラトスの声音には警戒感が残っている。ヌビアの民が方々に潜みながら抵抗を繰り広げれば脅威だ。その気持は分かる。だが王墓での一件の後、ネフェルティティたちは静かに剣を収めると、クシャたちを彼女たちの隠れ家に案内してくれたのだ。
「新たな総督を連れてきました」
厳かな空間があった。帝国の神殿で執り行われる儀式を思い出すが、より暗くより静謐。その中で数人のヌビアの老人が待ち構えていた。
「大王の代理人ですな」
「貴方がたは古王国の末裔、その長老たちですね」
「この度は一部の者がとんだ非礼を働き、真に申し訳なく思っております」
長老たちは一斉に頭を下げて謝罪する。傍らではケペシュがかしこまる気配もした。帝国の代理総督を誘拐するなど反逆行為以外の何物でもないが、クシャとしては事を荒立てる気は無かった。無論そこには打算も存在する。
「顔をお上げください。今回のことは行き違いがあってのことと思っています。敢えて罪を問いはしません」
「寛大なお言葉、痛み入ります」
「皆様方はこのヌビアで歴史ある一族と聞いています。今後は民の暮らしを取り戻すために力をお貸し願いたい」
足元を見るようだが、これが互いの衝突を収める最良の選択だとクシャは思う。何より王族の末裔という貴重な存在は味方にしておきたい。
「ネフェルティティ姫を無事に帰してくださり、罪も問わぬという。断る理由はございませんな」
「ありがたい。今後ともよろしくお願いします」
「時に、後ろにおります娘が……」
クシャの陰からククルが顔を覗かせる。長老たちに手招きされおずおずと近づいていった。
「瞳を見せてくれるか?」
「はい……」
「……姫から聞かされていたが、確かに金色の瞳ですな」
「長老、<授け手>とは何を意味するのですか?」
先日ネフェルティティが口にした言葉である。クシャの問いに長老たちはしばし視線を交わしあう。
「ここに招いた時点でお話することになろうとは思っていました」
長老は立ち上がるとクシャたちをさらに奥へ誘った。
「ヌビアの歴史は千年を超える。その全てとは言いませぬが、断片的な記録が壁に刻まれています」
「総督よ、この壁画を見てください」
ネフェルティティが人々の描かれた壁画を示す。民衆がヌビアの王にひれ伏し、その王と並び立つ人物がいる。瞳には金があしらわれていた。
「そんなに古くから……」
「<授け手>はヌビアに現れると、ワシらの先祖に秘儀を与え王国を栄えさせた」
「長老、彼らはどこから来たのでしょう?」
「東から来たとしか伝わっていませぬ」
「アリアナ地方かバーラタ地方?」
「それかもっと奥地。辺境の果て」
「東域……でしょうか」
遊牧民たちの草原をさらに越えた先。そこまで行けばもう世界の果てといった風情だ。そんなところに人が住んでいるのかと疑問に思う。
「だがやがて<授け手>は姿を消した」
「それは何故?」
「詳しくは分かりませぬ。王位を巡って泥沼の戦いが続いた時期があった。彼らは我々を見限ったのか……。入れ替わるように東でアリアナ帝国が勢力を伸ばし始めた。魔術という力をもってして」
「魔術と秘儀……それは同じ力でしょうか?」
「おそらくは。だが使い方が異なります」
壁画のところどころに王の業績が記されているが、一部は奇跡のような出来事が含まれる。水を治め、雨を降らし、大地を潤す。それを実現した力が秘儀であろうか。
「秘儀とは王族に与えられた奇跡の力、民を治めるための力。だが帝国は多くの魔術師を揃え他国を侵略した」
「それは……」
それが魔術の全てではないが、否定もできない。クシャ自身その力を争いで使うことに疑問を持ってこなかった。
「ヌビアや帝国だけではない。今や大陸各地で奇怪な力が働いていると聞きます。彼らが水面下で動いているのかもしれませぬ」
「ですがククルは何も知りません」
少し離れたところでククルが壁画に見入っている。ネフェルティティに読み聞かせてもらう姿は年相応の少女でしかない。
「当人の意志に関わらず、物事は進んでいるやも」
「それはどういう?」
「総督よ、貴方様が授かる者に選ばれた。そう考えたことはありませんか?」
「まさか……」
それは違うとクシャは思う。授かったと思しき者たち――サイクラコス王やガランの側には金眼の導師がいた。だがククルとの出会いは偶然でしかない。誰かの意志が介在しているとは考えにくいし考えたくない。
だいいちクシャを選んで何をさせようというのか。クシャには国造りの構想など無い。他者から奪いたいものも無い。己が何処へ向かうのか探している途中で、それはククルと変わりないのかもしれない。
「……それはそれとして。そろそろ本題に入りましょうか」
「本題?」
「まさか、老いぼれの昔話を聞きに来たわけではありますまい」
「あぁ、そうだった」
***
その日、長老たちは夜通しクシャと対話した。あの若者はヌビアの統治について大王の構想を熱心に語り、そのための実務計画も披露していった。聞くべき点はあったが一朝一夕で返答できることでもない。ひとまず総督一行を休める場所に案内させ、改めて仲間たちだけで相談する。
「あの男をどう思います?」
ネフェルティティが長老たちに問うた。両者を引き合わせた彼女だが、まだクシャという人物を測りかねている。ただククルの存在が興味を引いたのは事実だった。
「あれは支配者向きの男ではないと思う」
修羅場はくぐってきたようだが、どこか甘い。素朴で欲に薄く、権力という毒沼とは程遠い人柄。それが長老の感想である。
「そもそも人の上に立つ経験に乏しいようだが」
「手強くても困る。甘いくらいのほうが与し易いのでは?」
「恭順か抵抗か……」
いっそクシャが無能か悪人であれば分かりやすかったのだが。しばらく意見を交わしたところで最長老が議論をまとめにかかる。
「大王がこの地に力を注ぐことは間違いない。今のヌビアに対抗する力は無く、彼らに恭順することが民のためでもある」
「ですがあの男、信用できるでしょうか?」
「会ったばかりで信用などできぬ。する必要もない」
言うと最長老はネフェルティティに向き直る。
「姫よ。ヌビアの民を率いるのは貴女です。あの男を尊重しなされ。そして利用するのです。味方に引き込みなさい。民のために、あらゆる選択肢を考えなさい」
「あらゆる選択……」
「時にあの男、未だ妻帯していないそうですな」
「はい?」




