栄冠⑤
合図を受けて御者の出鞭が一発、掛け声とともに馬が走り出す。土煙と地響。車輪の軋む音。そして客席からは悲嘆の声が上がっていた。
「遅れた!」
パウサニアースが立ち上がる。テオドロスの戦車が一際出遅れてしまっていた。淡い期待は風に散らされ、英雄の挑戦は幸先の悪いものと皆が思う。
だがカリクレスは安堵していた。テオドロスは敢えて先頭争いを挑まなかったのだ。彼が戦うべき相手はもっと別にあり、この勝負で危険を冒す必要はない。
一方で車上のノクサは舌打ちしていた。――運の良い奴。開始直後に戦車を寄せてひっくり返してやろうと思っていたが、出遅れたなら構わない。
(所詮、軟弱なヘラス人の出る幕ではない)
後方から追う形となったテオドロス。ノクサの気配に嫌なものを感じて鞭を遅らせたのは正解だった。
自身で改良させた戦車。試乗もしたとはいえ実際の競走は無論勝手が違う。十以上の戦車、数十頭の馬たちで作る大きな流れの中で手綱を操るのだ。
(せめて完走だけはしなければ)
競技場は最大数十もの戦車が走れるほどに広く、それを十二周して勝者を決める。直線を駆け抜けテオドロスは後方、ノクサが中盤につける。先を行く者たちはノクサとの競り合いを嫌い加速する。
「はぁっ!」
最初の折返しが近づいたところでノクサが仕掛け、皆が減速する中で一人加速。そのままでは曲がる時に外へ振られるところだが、外側にいた別の戦車に体をぶつけるようにして無理やり曲がってしまった。哀れなのはぶつかられた方の戦車で、大きく走路を外れ転倒してしまった。
観衆から悲鳴が上がるも競技は継続される。テオドロスは後方に位置したまま折り返したが、その分だけ全体の流れは良く見えていた。
(勝負は前に重心が働いているな)
テオドロス自身はその外縁に甘んじているが、堪えるように手綱を握りなおす。己の技量はわきまえていた。今はカリクレスらを心配させないよう走り切る。
***
競技場の外では係員がリリスに詰め寄られていた。
「だからちょっと見るだけ、中に入れてよ」
「なりませぬ。天上の神々が見ておりますぞ」
その係員は神官でもあり、男神を祀るオリビア祭の都合上、競技場は巫女以外の女人を入れてはならない。リリスもそれは承知して、また冒涜する気もない。だがそれでも急き立てられるように食い下がった。
「じゃあ一つだけ教えて。テオドロスが戦車に乗ったというのは本当なの?」
「パラスのテオドロス将軍ですか、ええ確かに。変わったお人ですね、危険な競技にあえて挑まれるとは」
「やっぱり本当なんだ……」
信じたくなかったが、あの男ならやりそうな気もする。立ちくらみするリリスをガトーが支えた。心配になった係員は、ふと思いついて口を開く。
「貴女はテオドロス将軍の関係者でしたか?」
「えっ」
「ご家族か……もしや奥方で?」
そう言われてリリスは真顔になったが、すぐに微笑みで切り返す。
「そう私、テオドロスの妻ですの」
「いやぁそうでしたか。旦那様が急遽このようなことになって、さぞ心配でしょう」
係員は心から気にかける表情で何やら思案する。
「特別に中へお入りいただいてもよろしいですが」
「本当に?」
「物陰からこっそり見るだけですよ」
「構わないわ」
「では神殿に寄付をいただけますか?」
露骨な要求だがもともと無理を言っていることは承知している。リリスはその場で適当な額を書き付け係員に握らせた。
「ありがとうございます。神々は人々の愛と寄付を嘉みし給うでしょう」
裏手の通路へ案内されると巫女の服を渡された。それに着替え人目につかぬよう観戦することが条件である。
競技はまだ序盤のようだった。競技場の中央には分離帯が設けられ、柱に掲げられた標識がまだ三周目であることを示す。だが外縁ではすでに数台の戦車が乗り捨てられていた。事故で競走中止したものたちだ。
(テオドロスは……)
姿を求めて視線をめぐらすリリス。その目の前で、曲がりきれなかった戦車がまた一台弾き出され、御者を地面に激しく転がしていった。
(これが本物の戦車競走……)
***
競技は危険な気色に染まってきた。ノクサが先頭集団に食いかかると折返しの内側に切り込む。前の戦車は並びかけられると、遠心力で外に押され、最悪の場合は弾き出されてしまう。それを嫌がり接触を避ければノクサが前に出てしまうが、この男に力勝負を挑むのは極めて危険に思われた。
それがノクサの戦い方なのだった。強引に先頭へ出ると、後方から追ってくる者を次々と潰していく。馬も戦車も大型なためそうそう当たり負けはしない。
だが思惑通りにはさせない。他の戦車たちは小振りなぶん加速に優れるので、直線でノクサを抜きにかかる。まず外から一台並びかけるが、これは一度当たられると後退した。その隙を見て内側の戦車が迫るも、すぐノクサに当たられ中央分離帯に激突してしまった。
馬はそのまま駆けていったが哀れなのは御者である。路上を転がった御者は後ろから来た戦車に轢かれ動かなくなった。
歓声と悲鳴が飛び交う中、係員が御者を運び無人となった戦車も確保されていく。血が流れてしまったが、それすらも神への捧げ物と言わんばかりに競技は続けられる。
まるで神々が血に飢えているか、あるいはチベの背信に怒っているのか。この競走がさらなる流血に染まるのを人々は目の当たりにすることとなる。




