栄冠③
「いよいよか」
晴天の下その日がやってきた。戦車競走を控えた競技場は徐々に熱を帯び、乾いた風が観衆の頬を撫でる。
会場周辺は普段以上に物々しい。各地から集った戦車、それを引く馬も百頭を超え、ここだけ戦支度をしているかのようだ。
「今日はこれらと競うのね」
「そう、君とネストルが戦う相手だ」
リリスは中に入れないが、外で待つのと中で手に汗握るのはいずれが苦しいだろうか。
この日だけはテオドロスもネストルとともに出走に備えていた。戦車を提供したテオドロスも関係者の一人であり責任も共有している。そして勝負を控えた高揚感は歴戦の軍人も変わりなかった。
ネストルなどは顔をこわばらせ汗を拭いている。
「今日を迎えるまでは一日千秋の想いでしたけど、もう今は早く終わって欲しい気分です」
「できれば勝って、ですね」
「ハハ、そこまでは望みません。ただ安心したいのです」
テオドロスは殊更笑顔を作ってネストルが落ち着けるよう努めた。
「将軍は堂々としたものですね。いつも戦いに臨む時はどんな心持ちなのですか?」
「戦いの時ですか……。身を投げるようなものですよ」
「え……?」
「人事を尽くした後は神々の定めに身を任す、といった感じです」
ネストルの表情が微妙なためテオドロスは視線を逸らす。そこで気づいたが戦車に乗る御者の姿が見えない。
「彼はどこへ?」
しばらく探し回った末、見つかったのは厠の中だった。
「どうした、大丈夫か?」
「ぐぅ……テオドロス様すみません、昨日から緊張でお腹が……」
「……」
スッ……と暑気が薄れたテオドロス。チベ軍が停戦を破った時以上に死神を背後に感じた。
「だいぶ悪いのか?」
「ここから出られそうにありません……」
「では戦車に乗ることは」
「揺れるのは無理です……」
「……」
「……」
「本当に無理?」
「無理です」
思わず天を仰いだが、そうしてもいられないためネストルと話す。
「……終わった」
「ネストルさん、薬はありませんか?」
「あったとしても間に合いませんね」
「……代わりの御者は?」
「余分に買うお金も無かったのです」
元々資金繰りに困ってリリスの支援を求めたぐらいである。特に競技会に出られる御者となると、それなりの金が必要だ。
「急いで代わりに乗ってくれる者を探しましょう」
カリクレスも呼んで伝手を頼った。オリビアへ来るのに馬車を使った人も多いだろうから、その御者を借りれないか声をかけてみる。だがパラス方面からは船で来た者が多い。ようやく見つけた御者も老いていて、激しい競走には耐えられそうになかった。
「もういいですテオドロスさん、諦めます。この場に来れただけで良かったと思いますよ」
「本当にそれで良いのですか?」
問いつつもテオドロスは理解していた。すでに手詰まりであること。そして納得できていないのが自分自身であることを。
(リリスも残念がる……)
結局そこに行き着く。勝たせてあげたかった。我欲かもしれないが、自分にそんな望みがあったことが驚きだった。
「私が乗りましょう」
「は……?」
「御者は私が務めます」
「な、何を言っているんですかテオドロスさん!?」
口をついて出た言葉にテオドロス自身も驚いたが、次の瞬間には決意を固めていた。
「大会運営に交代できるよう頼んできます」
「待ってください、あなたが戦車になんて。だいいち乗ったことがあるんですか!?」
「昔、手ほどきを少々。それにあの戦車は私も試乗しながら作ったものですから」
そうと決めたら行動は早く、運営とネストルを同時に説き伏せる。パラスの英雄に熱弁された運営は気圧され、これを認めてしまった。
***
(見つかりそうにない)
カリクレスは初対面の者にまで声をかけ、御者を借りられないか尋ねた。だが色よい返事はもらえない。テオドロスが頼み込めばともかく、しかめっ面の自分では。カリクレスは虚しく自嘲した。
そうしているうちに時間は迫る。切り上げて戻ったカリクレスはテオドロスの姿を見て静止した。
「何をしているのですか?」
「待ってくれカリクレス。これには事情があってだな」
半裸になったテオドロスがそこにいた。競技会に出る選手の出で立ちだ。
「正気ですか閣下?」
「そこなのだが、お前にはどう見える?」
「正気そうですね、ぶん殴りたいぐらいに」
拳を握りかけてカリクレスは気を収めた。
「申し訳ありません、代わりに乗ってくれそうな者は見つかりませんでした」
「こちらもだ」
「だからといって閣下が乗るなど愚かなことは止めてください」
「愚かだと思うか?」
「はっきり言って愚かです」
「そうなのだろうな。言い方は違うが皆そう言う」
本当に困ったことをすると思う。だがカリクレスには驚きもあった。テオドロスが傷跡のある身体を晒している。人前で肌を晒したがらないこの男がそこまでするかと。
「リリスたちに、戦うことすらできずに終わるような体験をさせたくないのだ」
「そこが肝心ですか……」
カリクレスに若干後悔が生まれる。この件に深入りさせないほうが良かったかもしれない。テオドロスが動き出すと止まらない性質であることは、ここ数年の付き合いで理解していた。
「条件があります、勝ちに行かないでください。高望みすれば命の危険があります」
「分かった、無茶はしない」
「何よりリリスが心配するでしょうからね」
頷くとテオドロスは戦車に乗り、声援渦巻く競技場へ進んでいった。




