残響②
多くの人が死んだ。侵入してきた異民族に村は略奪され歯向かうものは殺された。女子供は捕らえられ、おそらく奴隷とされるだろう。
元々、青海沿岸は異民族や他国との境界が曖昧な土地だった。一昔前には異民族たちだけでなく、アリアナ帝国が船で侵略してくることもあった。だが砦の建設や海軍の配備など体制が整い、ここ十数年は平穏な時が続いていた。
だが事態が変わった。あるいは時代だろうか。東の遊牧民が結集して強大な国を作っていると噂になっていた。それでも人々は、自分たちの静かな暮らしが侵されるとどれだけ思っていただろうか。
現実は無情かつ急速に彼らを押し流し、その中に少年とテオドロスの姿もあった。二人の家族もすでに殺された。子供を逃すため抵抗を試み、有無を言わさず斬られたのだ。今は異民族の虜囚となり悲しむ暇も無く東へ連行されていく。
青海沿岸はヘラス都市連合、アリアナ帝国、そして新興のスキティア王国が交流、あるいは交雑する地域となる。国際情勢に関わらず商船が往来し、地域ごとの豊かな商品を商うが、その中には当然のごとく奴隷も含まれていた。
侵略者はこの時、子供たちを選んで船に載せると帝国系の奴隷商人に売り払った。
枷を付けられ船倉に押し込められた子供たちの待遇は物に近い。それでも時間が経ったことで少しずつ立ち直り、少年は周りを慰め、テオドロスは励まし乗り越えようとした。
だが下船した彼らを待っていたのはより過酷な行程だった。わずかな水と食事だけ与えられ、ひたすら荒野を歩かされた。奴隷商は馬車を使う労も惜しみ、脱落する者は殺すか捨てるかしていく。
それでも子供は比較的だが丁重に扱われた。何やら特別な需要があるらしいが、こちらを見る下卑た視線が不快であり恐ろしい。子供たちは日々恐怖に震え、暗澹たる明日に押しつぶされそうになっていた。
「逃げよう」
ある日、年かさの子供が言い出した。少年も見覚えがある同郷の子だ。先日、奴隷の一人が殺された。見せしめのつもりだったろうが、子供たちの一部で脱走が囁かれるようになったのだ。
無論危険である。賛同する者は少なく小さな波紋に過ぎなかったが、日が経つにつれ同調する者が増えていった。それだけ前途に希望が見いだせなかったわけだが、実際行動に移すにはさらなる勇気、あるいは無謀を要した。
そしてその時が来た。空を分厚い雨雲が覆い滝のような雨が降る。この地域ではめったに無い荒天に子供たちは視線を交わしあった。奴隷商たちは慌てて風雨をしのげる場所を探している。この混乱に乗じて脱走できるのではないか。
この考えにテオドロスが乗ると賛同者が増え、堰を斬るように駆け出した。少年もこれに加わり、何かに憑かれたように危険へ飛び込んでいく。
結果は暴挙に終わった。数日間の逃亡劇の中で逸れる者あり、倒れる者あり。さらには言い出した年長者が諦めたことで逃避行は膝を屈した。
少年の心も折れかかっていた。だが一人だけ目の輝きを死なせていない者がいることに気づく。
「まだ頑張ってみるよ」
テオドロスは俯いた子供たちと別れ再び歩き出した。その隣には少年も並び、二人だけの脱出を続行する。
奴隷商の追手はすぐ近くまで迫っていた。対して子供の脚では遠くまで逃げられない。ただでさえ枷を付けられ、体力も落ちているのだから。それでも懸命に足を進めた末に二人は行き着いた。
「……ま、まさか」
山中で見つけた川。豪雨で濁流となっている。
「飛び込もう」
テオドロスの言葉に少年は尻込みした。確かにここを越えられれば追跡を断ち切れるかもしれない。だが人が泳いで越えられるものとは思えない、それほどに激しい流れだ。
「溺れて死んでしまうよ」
「でも、このままだと捕まってしまう」
奴隷商の怒声と馬の蹄の音が近い。少年はなおも足に根を張っていたが、テオドロスが彼の手を引こうとする。あぁ、そうだ。テオドロスはそういう人間なのだと少年は感ずる。
(君は何もかも飛び越えていける人間だ……)
自分とは違う強い意志の持ち主。彼なら本当に逃げ延びるかもしれない。
「君だけ行くんだ」
少年はテオドロスの体を押した。少年の時間を変えてくれた友を。テオドロスの姿は水に呑まれてすぐに見えなくなった。
自分がいれば足を引っ張る。せめて奴隷商に捕まり、わずかでも時間を稼ぐことで彼の未来を拓く一助になれば。願いつつ悲しんだ。友達との別れを。さよならも言えない別れを。少年は濁流の轟音がしばらく耳に残って離れなかった。




