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解決篇


「先生! それは本当ですか」

 テーブル越しに上半身をぐいと突き出し、吾妻に詰め寄る警部補。その肩を小暮警部がぐいと掴み「落ち着いてください、梶警部補」と苦笑いしている。

「吾妻先生。今の話の流れですと、嶽本克貴の目撃証言が大きなヒントになったようですね」

 穏やかな口調で問いかけた警部に、推理作家は「まあ」と曖昧に頷く。鈴坂刑事の猫目が黒ずくめの男をじっと見つめ、

「釈然としない物言いですね。検討はついたが確証はない、ということですか」

「いかんせん、物証がないからな。状況証拠だけで組み立てた推理ほど脆弱なものはない。ただし――」

「ただし?」

 鷹のような険しい目が、猫目を見つめ返す。

「物証というのは、()()()()()()()()()()()()()犯人を追い詰める決定打になるものだ」

「それは、つまり」

 言いかけて、言葉を切る巡査部長。小暮警部がパイプ椅子を引き、「先生。ご説明願えますか」と丁寧な物言いで頼み込む。三人の刑事と対面した推理作家は、両肘をテーブルについて左右の手をクロスさせると、一語一語を噛みしめるように話しはじめた。

「この事件を最も奇妙にしているのは、八寿子夫人が亡くなっている現場に見ず知らずの男が突如出現し、しかも夫の敦司とその男が互いに罪をなすりつけているという状況です。では、もし闖入者の男――すなわち嶽本克貴が現場に居合わせなかったとしたら、状況はどう変化するでしょうか」

「現場には太田原敦司しかいなかったことになりますし、まず最重要容疑者になったことは間違いないでしょうね。室内には争った様子や過剰に物色されたような痕跡もありませんでしたし、嶽本がいなければ強盗殺人を怪しむにしても証拠不十分だったと思います」

 梶警部補の答えに、吾妻は深々と首肯して賛同の意を示す。

「三人の間に接点が見つからない以上、嶽本が現場に居合わせたのはまったくの偶然と言うほかありません。つまり、太田原敦司が嶽本に濡れ衣を着せることができたのは、言い方が悪いようですが単に運が良かっただけなのです。そう考えて、太田原敦司の行動をよく見直してみましょう。

 仮に太田原敦司が妻殺しの犯人であった場合、なぜ彼は現場を強盗殺人に見せかける細工をしなかったのか。また、なぜわざわざ警官を現場に引き入れるようなことをしたのか。通常、殺人を犯した者の予測される行動としてはまず何よりも証拠隠滅です。しかし、彼にはそのような言動は見られない。では、実はほかに犯人が存在して太田原敦司はその真犯人を庇おうとしているのでしょうか。にしては、嶽本を見た瞬間に彼に濡れ衣を着せようとしましたね。誰かを庇っているという可能性も考えにくいでしょう。

 では、八寿子夫人を殺害した犯人は、空き巣犯の嶽本なのでしょうか。夫人と鉢合わせし顔を見られたから、衝動的に殺してしまった? 事件の流れとしては自然ですね。ところが、彼の行動にも不自然なところがあります。先ほど、殺人を犯した者の行動心理をお話しましたが、嶽本の置かれた立場を考えるとまず最優先に犯行現場から離れたくなるものです。では、嶽本は果たしてそうしたのでしょうか――答えはノーです。彼は、夫人を殺害後に一旦部屋のクローゼットに隠れたり、夫人の亡骸に寄り添ったりしています。前者の行動は、夫人殺害直後に夫が帰宅したためやむを得ず身を潜めたのだと説明できますが、その後の行動はどうでしょう。せっかく敦司が一度部屋を出て逃亡するチャンスができたにも関わらず、嶽本はそうしなかった。

 今お話した二人の男の行動から導き出される結論は何なのか。二人が互いに罪を押し付け合ったのは、たまたま現場で出会ってしまったからに過ぎない。もともと、二人とも己の罪を隠蔽するつもりなどなかったのです。何故なら、太田原敦司も嶽本克貴も、八寿子夫人を殺してなどいないから。私は先刻、犯人の検討がついたと言いましたが訂正しましょう。この事件に、犯人は存在しなかった。あえて犯人がいたというのであれば、それは被害者本人――すなわち八寿子夫人です」



「今回の事件が八寿子夫人の自殺であったとすると、我々が頭を悩ませていたカーテンの問題も、凶器の問題も一応の説明がつくのです。

 まずカーテンの開閉については、おそらく嶽本の証言が正しいと推理できます。嶽本が空き巣に入ってしばらく経ってから、夫妻が帰宅し嶽本は現場のクローゼットに避難した。そして、カーテンが開かれた現場で夫妻が口論を始めた。私は今、嶽本の証言が正しいと言いましたが、正しいのはあくまで()()()()()()()()()という意味です。全体的な証言としては、一部に嘘が混じっていました。たとえば、彼はクローゼットの中から夫妻の様子を見てはいない。彼は、二人が口論し夫人が絶命する瞬間を()()()()()()()なのです」

 ここで、梶警部補が「そうか!」と声を荒げる。

「嶽本が事件の一部始終を()()()()()のだとすれば、カーテンの逆光問題は解消するのですね。なぜなら彼は、二人の口論の様子を()()()()()()()()()()そもそも逆光であろうがなかろうが関係ない」

「嶽本が二人の様子を見ていたと証言したのは、そのほうが太田原敦司に確実に罪を着せられると企てたからですね。そうしなければ、夫人殺害の容疑は真っ先に嶽本に向けられるから」

 警部補に続いて、鈴坂刑事の腑に落ちたような声。推理作家は「その通り(イグザクトリィ)」と気障っぽく返してから、

「嶽本が夫妻の口論を聞いていたという前提で、彼が耳にした会話を振り返ってみましょう。『頼む、もう一度だけ考え直してくれ』『無理よ。もう無理なのよ』『お願いだ、話を聞いてほしい』『もう、いや。もうすべて終わりよ』『頼む! 聞いてくれよ!』『いやよ! もう……もういやああああ!』『うわああああああ!』――台詞を見ただけでは、たしかに夫が妻を襲った瞬間と捉えることもできます。しかし、これがもし()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だったとすれば」

「ちょっと待ってください」と、ベテラン刑事が吾妻の言葉を制す。「それなら、凶器のナイフには八寿子夫人の指紋が残っているはずでは?」

「失うものが多い立場であるほど、いざとなったら大胆な行動に出てしまう」梶警部補を一瞥し、推理作家はにやりと笑う。「家庭円満をこれ見よがしに自慢していた太田原敦司にとって、妻の自殺という結果はどう見えたでしょうか。おしどり夫婦の仮面の下には、敦司にとって恥辱的な何かが隠されていたのかもしれない。夫人は自殺したという線で捜査が進めば、いずれ自身の仮面も引き剥がされてしまうだろう――完璧な夫を演じ続けていた彼が、戦々恐々とするのは想像に難くない」

「太田原敦司の交友関係を、もう一度徹底的に洗いなおしてみます!」

 パイプ椅子をひっくり返す勢いで立ち上がり、つむじ風のごとく会議室を去る梶警部補。彼の座っていた椅子を丁寧にテーブルの下へ押し込むと、鈴坂刑事はため息まじりに告げた。

「凶器から夫人の指紋が検出されなかったのは、そこに彼女の指紋がくっきりと残っていれば自殺の線が浮上する。それを避けるため、太田原敦司が敢えて指紋を拭き取ったからですね」

「吾妻先生、私は一つどうしても納得できないことがあるのですが。嶽本はなぜ、太田原敦司が現場を去ったあと夫人の遺体のそばにいたのでしょうか。先ほど先生がおっしゃったように、普通であればすぐさま現場を立ち去るのが窃盗犯の心理というものです。実際、そうしていれば嶽本が太田原敦司から罪を着せられることもなかったはずですし」

 小暮警部の疑問に対する推理作家の答えは、

「そうですね……察するに、嶽本は夫人に同情していたのではないですか。案外、二人は似た者同士だったのかもしれませんよ」



 後の調査と取り調べによって、太田原敦司はすべてを洗いざらい白状した。

 仲睦まじい夫婦を演じる一方で、敦司は家庭外で複数の女性と関係を持っていた。それを妻に暴かれ、絶望した彼女は夫の前で自害を図ったのだ。一度現場を離れて警官を呼び止めたことについては、「妻殺しの罪に問われるなんてまっぴら御免だったし、まさか妻を手にかけた者が警官を現場に引き入れるなんて想像もしないだろう。実際、自分は妻を殺してなどいないのだ」と主張しているという。また嶽本を犯人呼ばわりしたことについては、「まさか彼が空き巣犯とは予想もしなかったが、妻の自殺をカムフラージュするチャンスだと思った」と供述している。

 一方その空き巣犯はというと、吾妻鑑の推理通り「夫婦の口論はクローゼットの中で聞いていただけ。しかし、最初は本当に旦那が妻を殺したものと思っていたので、嘘を吐いたという意識はなかった。口論の中で夫人が『あなたが外で女を作っていることくらい知っている』ということを口走っていたが、八寿子夫人を不倫夫に殺された憐れな妻にしたくなかったために言えなかった」と自白。嶽本は半年前、「自分よりずっと良い男ができたから」という理由で元妻から離縁状を突き付けられたのだ。

 自室の書斎のデスクに腰かけ、吾妻はスピーカーモードにしたスマートフォンで小暮警部からの捜査報告を聞いていた。窓に吊るしたカーテンが、時おり初夏の風でふわりと膨らむのを眺めながら。

『のべ数十件の窃盗容疑で逮捕された嶽本ですが、もう濡れ衣を着せられるのは懲り懲りだと空き巣から足を洗うことを決意したようです。これからしっかり罪を償って、二度と犯罪の舞台には上がってほしくないものですね』

「今回の事件は、嶽本にとってもいい教訓になったはずです。カーテンコールに導かれて、彼が再び登壇することもきっとないでしょう」

 言いながら、推理作家は机上にちらと目を向ける。『To be, or not to be, that is the question.』で有名なシェイクスピアの本が、ページを伏せた状態で置かれていた。電話を切り、読みかけていたページからすいすいと目を通していく。男の乱れた髪を、五月の風が微かに揺らす。


 こうして、事件の幕は閉ざされた。太田原敦司と嶽本克貴が、犯罪という名のステージで再び相まみえることは、二度とないだろう。

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