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魚の夜の歌  作者: f
6/7

6.

 

声に出して語る言葉とは泥土のようなもの、存在の側で照らし出されることはなく、存在の断末魔の苦悶の側で照らし出されるのだ。

   アントナン・アルトー


 好きな画廊で久しぶりに展覧会をやっていた。展示品と共にグランドピアノにリュート、ダルシマー、ヴァイオリンなどが置かれた部屋は古い音楽室のようで、そこではいつも子供時代の魔法を取り戻すことができるように思う。オーナーも茶目っ気のある魔女のような人で、何らかの魔法が生きていることは間違いないはずだ。


 そこから歩いて家に帰ることにした。長い散歩は久しぶりで、どんな路地や坂道や細い階段にもわくわくした。そして、ああ私はこういう小さな魔法に囲まれて生きたかったのだと思った。

 秋の淋しい空気が好きだ。私の孤独に共鳴しているように感じる。私は何かが終わっていくのを見るのが好きだ。日は短く植物は眠りにつき、人びとも心なしか静かだ。私はできるだけ入り組んだ道を選ぶ。都会の住宅街は色んな家があって面白い。新しくデザイン性の高い家、空間を上手く使ったアパートメント、倒壊寸前の古い家、おそらくそのへんの住人しか来ないのであろう年季の入った喫茶店や理髪店や金物屋、取り壊されている廃屋。それから一風変わった家……どんな家かは一概には言えないが、つまり魔法を持っている家だ。絡まる蔦や珍しい植物、奇妙な間取り、風変わりな扉や窓。私は人と関わることが嫌いなのに、そこの住人と関わることがないのを残念に思う。


 『影をゆく人』を書いていた頃、そういう日常で見落としそうな小さな魔法について描きたいと思っていた。あれは長く引き伸ばしすぎて駄目にしてしまったから、この感覚を書き残したいと思うなら、一つ一つの小さな物語をぽつぽつと書いた方が良いのだろう。私が見ている魔法は大がかりなものではなく、ただ心に余韻だけを残すものだから。つまり、秋の夕暮れの薄暗い光の中で悪戯のように現れる幻のような。


 私は人と関わることができず、こういう魔法を共有することもできないから物語を書こうとするのかもしれない。一人だけで物語を抱いていると、内容がすっかり変わってしまったり、手の中からすり抜けてしまうことがある。私は記憶力の良い子どもだったが、大人になって、記憶していても感覚は失われることがあると知った。そう……子どもの頃、物語は現実に対する砦だったが、そこから逃れられないと理解した今、自分は物語が砦になるほどの狂気を孕んでいないと気づいた今、大人になった私は、感覚を呼び覚ます鍵として物語を描くようになった。隔絶された夢想では自分を救うことができない。舞台はあくまでも現実で、そこにいることが耐え難くならないように、その中で魔法を見つけるのだ。

 それすらも失えば、いよいよ何もできなくなるだろう。


 私は死ぬまでどこにも行けないだろう……物理的にも。現実はあまりにも複雑で、そこへ行っても私はすぐに疲れて元の場所に戻ってしまう。それに戦争も始まったし、どの国の政治も不安定だ……この数十年騙し騙し続けてきた積み木の基礎が、いよいよ耐えきれなくなっているようだ。

 私が生まれた時には、この国は既に下降していた。ずっと降り続けて、いまだにどこが底か分からないが、あと数年のうちに辿り着くかもしれない。その時に自分が今よりましな状況にいるという希望はない。

 幸福な人間には希望は必要ない……私は幸福ではないが、希望を持っていない……おそらく必要がない。少なくとも、私は自分がどんな人間か分かっている。


 ともかく、魔法を探す散歩ができるくらいの余白がなければ生きられないとあらためて思った。



 そういえば、家の近くにいた猫たちはみんないなくなってしまった。どこかへもらわれたのか。そうではなく、きっと死んでしまったのだろうと私は考えている。あんな生活はそう長く続かないだろう。




omnia quae video falsa esse

(私が目にするものすべては偽りである)



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