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魚の夜の歌  作者: f
5/7

5.

« Als das Kind Kind war,

wusste es nicht,

dass es Kind war, — »

      „Der Himmel über Berlin“ W. Wenders


 好きな映画の監督が職場にやってきた。はじめは気づかなかったが、クレジットカードの名前を見て分かった。

 私は思った。


 Verweile doch!


《俺がとある刹那に向かって

 だが、立ち止まれ!お前はあまりにも美しい!と

 言うことができたなら、お前は俺を好きに調理するがいい、

 俺は喜んで滅んでゆく!》

   『ファウスト』 J. W. v. ゲーテ

 

 彼は本を数冊手に入れ、名乗ることなく去った。


 これは私の中でそれなりの存在感のある出来事だった。彼の中では多くの出来事の中の一つだろう。


《結局のところ、人は出来事のようなもので、行為する人格のようなものではない、とそれだけのことなのね。》

   『静かなヴェロニカの誘惑』 R. ムージル


 私の中で他人とは人というよりも出来事、あるいは物語だ。面白ければもっと知りたいが、つまらないならそれまで。出会っても交わることはない、他人は他人で、自分の外で起きていることだ。

 私は人と関わるのが苦手だ。だが私は刺激が欲しい。現実の痛みを紛らわすための刺激が必要だ。私は本を読み、映画を観て、芸術に触れる。街を歩く。そして想像する。あるいは人と会い、その出来事が持つ物語を眺める。その間は現実を忘れられる……忘れられた。

 いまでは現実は大きすぎる重さを持っている。


 手始めに(おそらく)美術館へ行くのが億劫になった。なんだか集中ができない。映画を観ることも、あまりにも時間がかかりすぎるように思われた。休む時間、完全なる空白が欲しい。そして長らくまともに本を読んでいない、ということに思い当たる。頭の中に言葉がない、緩慢な絶望を緩和するものがない。

 私は物語ることに疲れたのかもしれない。あまりにも現実が押し寄せている。


 私は人に会いたいのだろうか。

 どこへ行けば人に──会ったことのない、興味深い人に出会えるか、私は知っている。このことをみんな不思議に思っているようだが、変わった人物はいたるところにいて、彼らは物語を持っている。

 私は長く人付き合いを続けるのが苦手だ。私はどうでもいいことをたくさん喋るが、他人に触れられるのが嫌いだ。もしかするとこれは奇妙なことかもしれない、私の中は空っぽとは言わないまでもガラクタだらけだ。私には面白く感じられても他人にはただのガラクタだ。彼らは何も気づかないだろう。いや、下手に触れられて毀されるのが嫌なのかもしれない。

 私は人に会いたくはない……心の交わりという意味では。心は交わらない。私はひとりが好きだ。ただ刺激が欲しい時があるが、おそらく今は必要ではない。


 私は物語に触れることに疲れた。物語は現実を押しとどめる役に立たなくなってしまった。大人になって、想像力が麻痺しすぎてしまったのかもしれない。もう現実をどうにもできないというくらいに。


 本当は今日は映画を二本観に行きたかった。私はきっと観に行かなかったことを後悔するだろう。だが私はどうしようもなく空白が欲しい。どんな物語でも、私は自分を救うことができない。


 ずっと前から分かっていたことだった。


 いったい、私は物語を語ったことなどあっただろうか?ただ寄せ集めたガラクタを並べ替えていただけなのではないか?

 そうだとしても大きな違いはない……少なくとも、かつては私の慰めになっていたから。

 ガラクタはガラクタに過ぎない……私はガラクタが好きだ。なんの意味もないから?意味を持たないがゆえに想像次第でなんにでもなったから?

 いまはガラクタをどうすることもしない。ただ目を閉じてうずくまり、この世にはなにもないと言い聞かせる。

 私は疲れた。現実は言うまでもなく……想像すること、考えること、存在すること、すべてが毀れている。


 郵便配達のバイクの音がした。もう眠った方がいい。



《私は自分の中にあるものをいうことができるが、それを言ってしまえば、私は空虚になってしまう。わたしの体は腐っていき、形をなくし、散り散りとなる。君たちは腐らなくてもいいように生きなさい!腐乱するなんて恐ろしいことだ。》

   『牧師エフライム・マグヌス』 H. H. ヤーン


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