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魚の夜の歌  作者: f
2/7

2.


  髪を切った。長さはほとんど変わらないが、サイドの刈り上げは綺麗にしてもらった。美容師は何年か前から同じ人だ。たまに私の名前を間違えるが、私の名前は難しいので特に訂正はしない。


  美容院から歩いて帰る。1時間半はかかりそうだ。

  私はダリの時計が書かれたTシャツ、黒のスキニーとブーティ、ジージャンという格好をしている。このジージャンは母の友人からのお下がりで、その人は去年亡くなった。ずっと癌で闘病していたのは知っているが、悲しいという感情は起こらない。私には心から誰かの死を悼むという機能がないのかもしれない。友人も家族もどこか遠くに存在する人々だ。私が死んだ時に、彼らが私の死を悼むとしたら妙なことだと思う。少なくとも私は、誰にも今ひとつ思い入れがない。


  私が死んだ時は葬式はして欲しくない、と思う。葬式に来て欲しい人が思い浮かばない。時間の無駄だ。誰も来ないで欲しい。身の回りのことは出来るだけ自分で整理して、遺体の処理だけどうにかしてもらえればいい。たぶん両親の方が先に死ぬと思うけれど、遺産やら何やらの手続きが面倒だから先に死にたい。少なくとも姉よりは先に死にたい。葬式の、あの儀式めいたものは嫌いではないけれど、死んだ人間に多少思い入れがないと居心地が悪い。私は共感力というものが上手く育たなかったので、人の輪にいるとだいたい居心地が悪い。

  私の葬式に来たい人はいるんだろうか?私は結婚式に呼ばれたこともない。それは友人が、私の居心地の悪さを知って呼ばないでくれたというケースもあるけれど、私がいなくてもさして困らないのだ。共感力のある人は私が死んだら悲しむのかもしれない。いてもいなくても困らないのに死んだら悲しいなんて不思議だ。私が生きていても死んでいても、その人の人生は変わらないのに。

  どうして死んではいけないのか分からないままなので、私はいつまで経っても生きる意志に欠けている。


  気づいたらいつも死のことを考えている、積極的に死にたいというより、あまり生きる気になれないだけなのだが。


  高機能自閉症、特にその女性は自殺率が高いのだという。これを知った時、私はいくらか安堵した。私の生きていたくないという願望に、わずかなりとも正当性が生まれたように思われたからだ。やはりこの種の人間は生きるには向いていないのだと。



  あたりは少し暗くなってきた。通りすがりのアパートの通路の照明が左から順にぽつぽつと点いた。


  夜がずっと続けばいい。



*********



  私は自分がまだ若いのか分からないまま、自分の若い時代が過ぎ去るのを眺めていた。私は歳をとってからの方が幸せになれると言われたことがある。私が仲良くなるのはたいてい、一回りくらい上の人だ。同世代とはなんとなくリズムが合わない。みんな若すぎるのだ。未熟だという意味ではない。未熟さなら私の方が上だ。彼らにはエネルギーがある。私は十三年近く、だだすり減ってゆくだけだ。



  私は箍を外すことができるのだろうか。

昔、私は万引きを試みたことがある。十歳の時のことだ。自分は箍を外せる人間なのか試してみたかったから。結局、私は何も盗まなかった。でも、どうやったら箍が外れるのかは分かった。

  以前、私は夢の中でウサギを絞め殺し、血をカップに溜めたことがある。何のためかは忘れた。私はそれが夢だと分かっていた。分かっていたが、夢の中でできてしまうなら、現実でもできてしまうのでは、と考えた。


  私は誰にも、私の人生に干渉されたくなかった。私の心は自分でいっぱいいっぱいだ。他者を入れる余裕なんてない。

  私は誰にも干渉されないように、砦を強くした。自分を責めてはいけない。私がある意味で不出来なのは間違いないが、それはどうにもならない。その上で、どうやって誰にも脅かされることなく過ごすか。自分をいじめている暇はない。

  私は自分をある程度有能に見せることができた。私は自信に満ちた振る舞いができた、なぜなら自分が不出来だということが分かっていたし、それを悪いとも思っていなかったからだ。私は見せかけほど器用ではなかった、昔も今も。私はずっと生きるのが下手だった。歳を取るにつれて、そのツケはどんどん大きくなっていく。

  私が不出来であることは、多少関わりのある人間は知っているだろう。だが、私が実際にどれだけ不自由を抱えているかということは分からないだろう。私は弱みにつけこまれないようにしてきたし、人は他人にそこまで興味がないから。私はできるだけ一人で過ごしたいから、あたかも自力で生きられるように見せかけてきた。私は上手く生きられない。私は助けを求められない。私は誰とも繋がりたくない。



  夜の公園のベンチに座る。昔はとても怖かった。何か得体の知れないものが現れるような気がしたから。今はなんとも思わない。静かで心地よい。どちらかというと、気にしなければならないのは人間の方だ。住宅街とはいえ、都会の夜の公園に若い女が一人でいるのは危険なことかもしれない。

  一匹の猫が公園にやってきた。一瞬私のことを気にしたが、すぐに顔を背けた。それから木の下で身をかがめ、バネを使って木の枝に飛び乗った。猫はしばらく枝の上を行ったり来たりしていたが、気がすむと地面にぴょんと飛び降りた。

  猫はトコトコと公園の中を移動し、そこに別の猫もやってきた。二匹は戯れるでもなく公園の中を徘徊した。


  風がとても気持ちいい。この季節はまだ虫もいない。猫はまだうろうろしている。

  子どもの頃、どうして夜の公園なんかを怖がっていたのだろう。私を傷つけるものは何もいない。

  一時間くらい経っただろうか。私は公園を出る。


  猫はいたるところにいた。黒、ブチ、三毛、キジトラ。ある白猫は私が近づくところんと寝転がってお腹をなでさせてくれた。

  道の真ん中にガマガエルがいた。去年、ガマガエルを見つけた次の日に道路にぺっしゃんこになっていたことがある。あんなに綺麗に潰れてしまうのか、と思った。私は博物館で見たカエルの骨を思い出す。私の握力でもぺっしゃんこにできるかもしれない。

  それからヤモリ。いまの家に引っ越した時、戸棚の中にヤモリがいた。それを摘んで逃しながら、きっとここは良い家なんだ、と私は思った。実際とても良いところだ。最近でもたまに、ヤモリが窓に張り付いているのを見かける。

  そういえば、たまにネコではない小動物を見かけることがある。このあたりはそこそこ緑がある。あれはハクビシンかイタチだろうか。子連れでトコトコ歩くあの生き物をちゃんと見てみたい。


  私は歩道橋の上から道路を眺める。夜でもそれなりに車の往来がある。夜がずっと続けばいい。私はここでずーっとぼんやりし続けられる。

  もちろんそんなわけにもいかない……私は諦めて家に帰る。


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