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魚の夜の歌  作者: f
1/7

1.


  かつて、私は日本が舞台の物語を書かなかった。書くのはたいていファンタジーで、現実世界が舞台でもヨーロッパの物語だった。自分の暮らす場所は、現実から逃れるには距離が近すぎると思ったのだ。


  私はいま、日本が舞台の物語を書いている。今までに描いたどんな物語より(断片的に描いたものを除けば)いちばん長い。まだ書き上げてはいないけれど、滞ってもいない。私は、私が出会った良い経験について書いている。私は空想の中で長いこと過ごしていたが、それでも素晴らしいものにはたくさん出会っていて、一つの物語が(少なくとも、途中までは)書けるくらいにはなったようだ。


  この物語を書き始めて、私は外を歩く時に周りをよく見るようになった。外の風景は情報がたくさんありすぎるので、私はいつも、ほとんど何も見ずに歩く。だからたくさんのものを見逃していた。外には興味深いものがたくさんある。



  私は夜の町を歩く。私は一人で暮らしているから、誰もそれを禁止しない。私は一度も危険な目に遭ったことがない。

  日が暮れてだいぶ経ったあと、私は最寄駅から六駅ほど離れた図書館から、とりあえず一駅歩く。まだ行けるなと思ったら、もう一駅。最初から家まで歩こうとせずに、ゆっくり決めたらいい。音楽は聞かずに、喧騒、街の音を聴くようにする。いつも同じ道は通らずに、一本か二本違う道を通る。そうすると、面白いものに出会うことがある……古い喫茶店や、金魚屋や、不気味なジャンクが山ほど飾られたショーウィンドウなど。


  私はひとりぼっちだ。友だちがいればよかったと思うけれど、私がいちばん安心できるのはひとりぼっちの時だと、私は知っている。


  夜の道は素敵だ。想像の余地を残してくれる。あの道の奥は別の世界へ繋がっているのかもしれないし、あの黒い影は現実には存在しない何かかもしれない。今日は夕方まで雨が降っていたから、想像の余地がたくさんある。

  新しくて綺麗な家も好きだけれど、古くてボロボロの家も好きだ。時間の重さを感じる。歴史はどんな職人も作れない。


  線路沿いで駅も近いから、赤提灯を下げた居酒屋や洒落たバーなんかもちらほらある。私はどの店にも入らない。店員とのやりとりが上手くいかないから。私は人と仲良くなるのは得意だが、ビジネスというか社交上のやりとりを理解できないので、そういう意味では人付き合いが苦手だ。


  たまに神社や祠を見かけると、私は小さくお辞儀をする。私は神を信じていないが、何かしらは宿っていると思う。私は運がいいから、私が挨拶する何かは私に良い運をもたらしてくれているのだと思う。だから私はいつもありがとうを言う。


  ある家の軒先にピンク色の花が咲いていた。夜にもかかわらず元気よく咲いている。なんの花かは分からないが、写真を送れば教えてくれそうな友だちを私は知っている。面白い人と知り合いだということは楽しい……思えば、私は色んな人と知り合った。普通に過ごしていたら友だちにはならなかったかもしれない。私は外の世界と上手くやっていけなかったから、その中では上手くやっていけそうな人を探さなければならなかった。ならなかった、と書いたけれど、良い経験だったと思う。


  目の前を猫が通り過ぎ、家と家の隙間に消えた。そっと覗くと、闇の中で二つの目が光った。


  踏切の中で、私は線路の写真を撮る。私は中間にいるのが好きだ。私はどこにもいられないんじゃないかと思う。サイレンが鳴ったら、私は踏切から出ていかなければならない……出ていかなくてもいいんじゃないかと思うこともあるけれど。私は平和に過ごしたい。


  踏切から少し行くと、病院があった。周りを歩いている途中で、以前、夜中に体調を崩した時にタクシーで来たことがある病院だと気づいた。夜の病院は最低限の人しかいなくて、死ぬほどお腹が痛かったけれどわくわくした。看護師も良い人だった。若かったから、たぶん医大の研修生だろう。結局、その病院では私の不調の理由は分からなかった。



  人気が多くて明るい通りに出る。近くに大学があるからとても賑やかだ。そういう場所にある居酒屋をちらりと覗いては通り過ぎる。私が関わることのない人々、私が経験することない出来事。そういうものを垣間見る。学生たちは限りある自由を謳歌している。私もかつては彼らのように、仲間たちと夜の街を闊歩したが、やっぱり分かるようにはなれなかった。いつか、私は彼らを理解できるようなるのだろうか。


  このあたりにはマンションの内見に来たことがある。結局、いま住んでいる所に決めたのだけれど。それで良かったと思っている。近くに映画館もあるし、一年ほど前に古本屋を見つけた。今日は定休日だが、昨日、閉店時間を過ぎてから店の前を通るとまだ開いていたので、店先の本を眺めていた。しばらく突っ立っていると店長が出てきたため、私は逃げた。私は突然人が来るとびっくりしてしまう……部屋にいる時に、部屋に近づいてくる足音を聞くのも、話しかけられるのも嫌いだ。自分で話しかけに行く方がいい。古本屋の店主とは何度か話したことがあるから、私のコミュニケーションが歪なことは伝わっているかもしれない。でも、ちゃんと話をすれば良かったと私は思っている。


  高架下を通る。私は架道橋が好きだ。ここも一種の境界だと思っている。私は架道橋の裏側を見上げる。足組があるものもあるが、今は暗くてよく分からない。


  再び住宅地に入り、散髪屋の真っ暗な店のウィンドウを覗く。自分と、夜の町が映る。昼間に来たら、また別の風景が見えるだろう。でも私は夜の方が好きだ。


  最寄り駅まであと二駅というところまで来て、私は家まで歩くことに決める。

  信号で立ち止まると、向かいの外国人たちの会話が切れ切れに聞こえる……Japanese said — it’s different from us — I mean, I mean it’s less stronger......


  私は賑やかな大通りに出る。ここの駅は急行も止まるので大きな店がたくさんあり、夜でもとても活気がある。最近通い始めた深夜までやっている喫茶店に寄ろうか考えたか、まっすぐに帰ることにする。少しお腹が空いたが、最近は夕食は食パン一枚で済ませてしまうことが多い……なんとなく食べる気にならないのだ。おかげて朝はとてもお腹が空いている。一日の栄養をぜんぶ朝食で取ってしまっているのかもしれない。


  このあたりまで来るとだいぶ散策を済ませてしまっているが、私は見落としが多い。だから、まだ新しい発見があるかもしれない。街灯の下で水たまりが輝いている。雨の日は、濡れたアスファルトが光を反射するので、私の目はいつもより疲れる。でも今日は静かで良い気分だ。


  少し疲れてしまったが、最寄駅を過ぎてしまったからあとはずんずん歩くほかない。

  一ヶ月ほど前、道の真ん中で蝶がジタバタしていた。死にかけているのかと思ったが、蝶は二羽で、交尾をしていた。黒くて赤い斑のある、綺麗な蝶だった。こんなところにいたら踏み潰されるぞと思いながら立ち去った。あるいは茂みの方に避けてやればよかったのかもしれない。


  架道橋の近くを歩く。子どもの頃、電車の通り過ぎる音が嫌いだった。何かの叫び声のように思われて、とても怖かった。今では特に感慨はない。感覚が麻痺してしまった。


  住宅地に入る。もうすぐ家に着く。このあたりは地域猫が多い。触らせてくれるやつもいるので、私はここに家を決めて良かったと思っている。どこからか猫よけの音がする。私は大人だが、耳はまだ良いらしい。


  家が近くなると、私はそこを素通りして、ずっと歩き続けたいと思う……夜明けさえ来なければ、ずっと歩き続けられる……でも、夜は明けてしまう。


  そうこうしているうちに家に着いてしまった。ここはシェルターでもあり、檻とも呼べるかもしれない。私は外に出る決心をするのに時間がかかるから。

 夜の町が素敵だということを、私は覚えておきたいが、きっと忘れてしまうだろう。私は書き記すが、出来事をとらえることはできない。

  私は穏やかな今が続いて欲しいと思う、でもそうはいかないだろう。



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