途方に暮れている
コンビニや自販機ばかりがいつもと変わらぬ姿をする街で、ここだけが普段よりも賑わいを見せている。
鳥居の両脇に提燈が吊るされ、参拝客目当ての屋台まであった。
ぞろぞろと境内に入り、手水で身を清め、拝殿へと向かう。いまさら清めずとも良いのではないかと思えるほどに、空気は冷たく澄んでいる。空を見上げると、鎮守の杜に切り取られた空は、どこまでも深い闇だった。儚げに星々が散らばっている。
「ねえ、ここって黒沢くんのアルバムにあった場所?」
内田がきょろきょろと首を回していた。
「え?」
「千佳ちゃんと初詣って写真、なかったっけ」
「あっ」
千佳がぽんと手を叩いた。「あった。修ちゃんが大泣きしちゃったやつだ」
「あ? 泣いてないし。俺生まれてから一回も泣いたことないし」
俺の言葉を無視して、千佳は前方を指差した。
「あのね、ほらちょうどあそこの、階段あるでしょ」
ほんの三段ほどの段差である。「大吉ひいて喜んで走ってたらあそこから落ちたのよ。それでわんわん泣いちゃった」
「……マジで記憶にないんだけど」
慰めるように俺の肩を叩いて、同情たっぷりに誠が言った。
「人間ってのは嫌な記憶を忘れるらしい。修一は泣いたことがそんなに悔しかったんだな」
それからチャンネルでも切り替えるように明るく、「つつけばつつくだけ面白い話が聞けそうだ。千佳、教えてくれ」
あっさりと俺を裏切った。
ん?
俺が首を傾げるのと同時に、内田も考えるように目玉をきょろりと上へ向ける。
「今、下の名前で呼んだ?」
と、やはり高梨が反応した。遠慮しそうな場面で一切ためらわないのが彼の特徴である。なんなら、考えていないからためらう余地もない。
千佳が気恥ずかしそうに俯いた。明かりや寒さのせいではない赤みが、頬に浮かんでいる。
あー、と誠が聞こえよがしに声を出す。明後日のほうを向き、落ち着かない様子で顔を触る。
「来年からそうしようかって話をしてたから」
「ほぉう。そんなもんなんか」
上手くやってるなと思う一方で、自分がひどく情けなくなった。横目で盗み見た内田は俺の少し前を歩いているせいで、表情はうかがえなかった。ただいつもより、丁寧に編まれたハーフアップの髪の毛が、心許なげに揺れている。
いくらかの順番を待って、賽銭箱の前に立つ。
五円玉を投げて、二礼。二度の柏手のあと、はたと気付いた。
願うべきことがない。
健康とか、受験とか、漠然とした希望はあるのだが、神様に祈るほどに願っていることは、何一つとして見当たらない。
いつもはどうしていたっけ……。
たぶん考えもなしに、見よう見まねの動作だけ行っていた。そこに何かを考えたことなどなかった。
拝殿への階段に座り、立派な柱に背中を預ける。神楽おみくじを引いて、その結果を読みながら、しかし目はあとから来る参拝者へと向けられている。
彼らは何を神頼みにきたのだろう。やりたいこと、叶えたいこと、どうにもならないこと。一年の無事だろうか。
何故だか突然に、全ての人が自分とはまったく違う種類の生物に思えてきた。
「黒沢くん?」
悪かったらしいおみくじをくくりつけ終えた内田が、心配そうに俺を覗き込む。顔の片側だけが神社の灯りで橙色に染まっている。
いつか屋上で見た美しさはない。
それはたぶん、顔貌の話ではなく精神的な問題だ。俺のものか彼女のものかは、わからないけれど。
「なに?」
できるだけいつもの調子で答えた。
「ずいぶん長かったけど、何お願いしてたの」
願い事をしていたわけではない。それを探しあぐねるうちに、時間が経っていただけだった。
「内田は?」
「秘密」
「じゃあ俺も秘密」
答えながら、俺は夜空を見上げた。庇が真横に空を区切っている。灯りが近いせいだろう。星はよく見えない。
まったく不意に、時間の前後を失ったようだ。
俺は何を願っているのだろう。何を願って生きてきたのだろう。今の俺は、かつての俺が目指した自分なのだろうか。自分の将来像を思い描こうとしても、おぼろげに浮かぶのは、幼い頃、純粋に慕った父親の幻ばかりだった。
過去も未来も存在しない。今ここで途方に暮れる俺だけが、段ボールから空を見上げる捨て犬みたいに、ぽつんと座っているだけだ。
目が霞む。家を出てまず、そう思った。
何度か瞬きをしたがやはり霞む。指で擦ったり揉んだりしても改善しない。
おかしいなと思いながら自転車を漕ぎ出した。首元から入り込む外気が冷たくて、ボタンを一番上まで閉める。
出身中学の前を通ると、挨拶と身嗜みにうるさい校風を守るべく、教師が待ち構えていた。見知った顔なので挨拶をすると「おーう」と太い返事が追ってきた。
冬休みはあっという間に終わってしまった。「願い事がなかった」という些細なことで、なぜだか自分がからっぽなのではないかという妄想にかられ、鬱々と過ごすうちに貴重な最後の長期休暇は終わってしまった。
しかし暗鬱を誤魔化すように、自分の虚を埋めるように勉強は捗った。ある意味現実逃避だったのかもしれない。机に向かってひたすら問題集を解いたり、単語を書き連ねたりしていると、余計なことを考えずに済んだというのが、正直なところだった。
机に向かう。
ただそれだけのことで「受験生」という立場が保障されたような気がした。
足元さえ確かならば、その上にいるのがどれだけ曖昧であってもそれを忘れていられた。
初詣からこっち、世界が霧に包まれたみたいだった。
「……霧?」
俺は周囲を見る。橋のちょうど真ん中あたりにいたが、どちらの岸も白い帳の向こうに消えている。川面を覗いてみても、同じような景色だった。
欄干も道も、遠くへ行くほどに白い闇に飲みこまれていた。
「霧だ、これ」
目の霞みではなかった。物理的に霞んでいる。
あまりに物珍しくて、辺りをきょろきょろしながら登校した。小学生の頃、スキーに行ったときに突然天候が荒れて、吹雪く雲の中に入ったときを思い出す。
それは俺の記憶にある唯一の、父親と一日以上を共に過ごした、最初で最後の旅だった。
姉が中学にあがった最初の冬で、これからはもうそんな時間も取れなくなるから、という理由だったと思う。何時間も車に揺られ、一度吐いて気絶するように眠って目が覚めると雪国だった。
一日目は転び方から止まり方、滑り方、曲がり方と、基本的なことを教わった。二日目には初心者コースを滑りながら前日の復習。相当に楽しかったのだろう。その日のうちに、おおかた問題なく滑れるようになった。
そして三日目。中級者コースに出向いてその斜度に慄き、初心者コースを幾度か滑ってまた挑戦し、とスキーを満喫していた。
そろそろ日が傾き始めた頃、リフトでゆらゆらと登るうち、にわかに気温が下がりだして。鉛色の雲がスキー場の上に流れ込んできた。
リフトが頂上に着いた頃には、雪が横殴りに吹き付けてきた。俺よりもよほど下手だった姉に父親が付き添い、急いで下ることになった。
どうせ初心者コースだ。俺も特に何を心配することもなく、父親の後を追っていたら、滑り出してすぐに、周囲ほとんどの視界を失った。雪のせいか、雲の中なのか、ともかく不安でいっぱいになる。それと同じくらいに、物珍しい景色に視線がうろちょろとした。
よそ見をした一瞬、何かに乗り上げるようにして俺は転んだ。どうにか起き上がったときに、父親も姉もどこにもいなかった。
雪が踊る。
木々が鳴く。
生まれて初めて、スキー場とはいえ、自然の只中にぽつねんと取り残された。怖くなって叫んだ「お父さん」という声は、吹雪に飲み込まれてしまった。
どうにかコース上にいることは、斜面がなだらかで、障害物がないことからうかがえた。
これはどうしようもないのだと悟り、外れたスキー板をつけなおして、ゆっくりと斜面を下り始めた。幽霊みたいな不確かさで、木々が並んでいた。
悪い記憶では、ない。
怖さや不安感の分だけ、楽しさや好奇心も刺激され、良い経験をしたと思っている。
それでもその後すぐに、姉の部活が忙しいという理由で、ふた月に一度になっていた父親との面会は、俺一人で行くことが多くなった。それからである。俺が父親を、いったい何と呼ぶべきかと悩み始めたのは。
父親を親だと保証していたのは、どうやら姉の存在であるらしい。姉弟を前提とした繋がりを父と規定していただけであり、父親と俺個人を結んだ直線上には、名付けるべき関係性を見出せなかった。
しいてあげるならば「血縁上の父親」である。
実際にはそれからいくらかの期間があったはずだが、ぎゅっと圧縮された過去はあの雪山を境にして俺は父を失った。
「お父さん」という言葉は雪に呑まれたままで、ホワイトアウトした世界に、今も一人ぼっちで途方に暮れている。




