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走り出したら  作者: 肉団子
5章
97/124

忘れ物

 顧問が代わっている。安心する一方で、物悲しさも覚えた。会いたかったのか? いや、まさか。素直と卑屈の間で反復横跳びをしていると、山崎先生がエントランスの陰から歩いてきた。

 ザッキーとあだ名がついていたように思う。骨と皮だけの頼りない外見のせいで、生徒に舐められる節があった。

 ふらりと手をあげ、弱々しい声を絞り出す。

「ああ、久しぶり。突然どうした?」

「どうもです。あの、ちょっと良いですか?」

「ふむ……そこで?」

「あっ、入れてくれると助かりますけど」

 微笑むようにしながら、門の裏手についている解錠ボタンを押した。

「中田先生じゃなくて残念でした」

「いやあ、苦手なんで助かったくらいですけど」

 考えてもみればもう定年を過ぎたはずだ。入学した頃から爺の見た目だったから、なんだかそのままずっといるような気がしていた。

 玄関エントランスの壁に、三年前に卒業制作でつくったレリーフが展示されていた。

「それでどうしたの」

「部室にですね、スパイクがいっぱいあるじゃないですか。あれを一つ持って行きたいんですけど。あ、終わったら返しに来ます」

 山崎先生は興味深そうに、俺の顔をじっと観察する。

「まあ、そのまま持って行ってくれても、問題はないと思うけどねえ。鍵取ってくるから、先に行っておいて」

「あ、ありがとうございます」

 中学の校舎はコの字型をしている。余った一面に体育館とプールが並び、中央が校庭だった。野球部の練習は、高校に比べて迫力がない。

 陸上部の姿を探したが、どこにもいない。河川敷にでも行っているのだろう。

 プールの並びに更衣室があり、その隣に二階建てのクラブハウスがある。一階の一番左は体育用具室。その隣が陸上部の部室である。

 なんとなく落ち着かなくてきょろきょろしてしまう。遠くから歩いてくる山崎先生が見えたので、鍵を受け取りに走った。

 部室の重い扉を開けると、饐えた汗とほこりっぽさの混ざり合った臭いが、じめっとした空気になって流れてきた。

 部室と言っても、ただの物置小屋である。練習に使う各種道具が乱雑に仕舞われ、部屋の右側の棚にはずらりとスパイクが置かれている。現役生のものは下、卒業生の物は上。それが決まりだった。

 たとえば入部したての頃や、大会のために持って帰って忘れた人のために、使い古されたり小さくなったり、中学限りで引退する優しい先輩たちが、代々こうしてスパイクを遺していったのだ。決して処分が面倒だったわけではない。

 砂の散らばった床を踏みながら、埃というよりは土埃に埋まったシューズケースを一つ一つ開けていき、短距離用のピンのついた、自分のサイズの靴を探す。

 ふと目が留まった青い袋。いくつもある中で、懐かしさを覚えたそれを開くと、かつて自分が使っていたスパイクが出てきた。

「あ、ダメだ……」

 サイズが一つ小さい。履けないこともないだろうが、内田の真剣な眼差しを考えると、少しも手は抜けそうになかった。

 山のようにあるスパイクを調べていき、いくつかの候補の中から、もっともしっくりときたスパイクを選ぶ。

「先生、ありがとうございました」

「いいよいいよ。どうせ肥やしにもならないし」

「あの……ついででなんなんですけど、自分のスパイク、もらっていってもいいですか?」

 学校に置いて行ったということさえ忘れていたくせに、ここに遺しては行けないと思った。俺自身の手できちんと処分しなければならない。

 意表を突かれたというように目を見開いていた山崎先生はやがて、じつに教師らしい微笑を浮かべた。

「忘れ物を持って帰ってくれるのは大歓迎です」



 更衣室で体操服に着替える。スパイクを持ってグラウンドに出ると、心なしか奇異の目で見られている気がした。

 陸上部の練習として良く使われているのは、更衣室前の直線路である。西側がスタート位置になり、そのあたりにはまるで練習を見張るためだといわんばかりにベンチが置かれている。

 武内先生はそこに腰をかけ腕組みをしていた。

 そばに寄ると、額に皺を作りながら片目だけを大きく開いてこちらを見る。

「よくわからん」

 口をヘの字に結んで、鼻から激しく息を漏らす。「おまえらはどういう付き合いをしていれば、短距離走をしようなんて話しになるんだ?」

「いやあ、それは俺にも……」

 先日、高梨にも質問された。「どんな痴話喧嘩なの?」と。痴話も喧嘩も否定すると、彼は意味深に肯くなり、年末の予定を心配するふうだった。

 武内先生は腕時計に目をやった。

「まあいい。内田にはもう言ったが、四時半にスタートのつもりで準備しろ」

「はい」

 スパイクをその場に置いて、アップを始める。

 夜の公園や河川敷で、久しぶりのスパイクの履き心地は確かめてある。万全には間に合わないが、それでも走るのに支障がないくらいには、履きなれたつもりだった。そもそもそれほど繊細に走ったこともない。

 走りながら時計を見る。三十分ほどで本番だということを考えて、あれこれと準備の計画を立てる。

 速度を上げて校庭を大きく一周して、校舎と体育館を繋ぐ廊下で柔軟をする。ほぐす順番にさしたる意味はないが、おそらく部活動でやっていた流れに沿う。

 寝そべると背中がひやりと冷たい。腿裏、外側を伸ばし、腰をぐっと捻る。

 頭のそばに人影が現れた。覗くつもりもないのにスカートを手で押さえるのは、中原千佳だ。正面からでは特に何も感じないが、見上げると綺麗な鼻をしている。

「内田に何言ったんだ」

「やっぱり私のせい?」

「知らないけど。茅野のこと、訊かれただろ」

「うん」

 千佳は肯くと、俺の隣にぺたんと座った。どこかを見ていると思って視線を追えば、遠くに内田が走っている姿があった。

「私が知ってることなんて、そんなになかったから。修ちゃんが駆け落ちしたって話と、陸上をやめた原因の一つじゃないかって話をしただけ」

「ふうん」

「それでどうしてこうなるのか、私にはわからない」

「俺もわからない」

 半分は嘘で、半分は本当。

 長くない付き合いではあるが、悪く言えば短絡的なところがあることは見知っている。彼女の中でどういう複雑な心の動きがあったかはさておき、陸上の話が出たから競走をしようと考えた。それだけは断言できる。

 因果関係がわかっているだけで、その根幹については何もわからない。半分はわかっているとも言えるが、何もわかっていないのと同じである。

 俺にできることは、せめて本気で走ることだけ。

「あのとき、茅野と何があったの」

 千佳はこちらの反応を確かめるように、慎重な口ぶりで言った。

 たぶん俺はこの何年かの間に、そう答えようと考えたはずの、決まりきった答えを返した。

「何もなかったんだよ」

 それ以上の追求を恐れて、柔軟が終わったのを良いことに適当な挨拶をして逃げた。



 黄土色の校庭に、白線のレーンが二本引かれている。距離はきっかり一〇〇メートル。

 内田がどう頼んだのかは知らないが、スターティングブロックもちゃんとセットされてあり、わざわざスターターピストルを構えた武内先生が、ゴールラインで待ち構える陸上部員に確認を取っている。

 隣に立った内田はポニーテールを風に揺らしながら、まっすぐにゴールを見据える。

 顧問まで参加しているせいで、外周に出た長距離部員以外は、すっかり練習をやめて観客のようである。

 温まった身体に冬の空気が心地良い。深呼吸をすると頭が冴えた気がする。

「位置について」

 武内先生が声をあげた。スターティングブロックに足をかけ、スタートラインに指をそろえる。

 大丈夫。土や小石の形に歪んだ白線を見つめながら息を吐く。

「用意」

 腰を上げる。膝を軽く曲げる。見つめるのは一歩先。

 無理なく肺に空気をためて、自然と呼吸が止まる。

 内田が飛び出すのと号砲を聞いたのは同時だった。わずかに遅れてスタートを切る。

 一瞬の遅れが顔を上げたときには確かな不利に変わっている。内田の加速ははやい。じわと距離が開く。

 スパイクが地面をしっかりと掴み、一歩ごとに体は前方へと押し出される。

 五十メートルを超えた辺りで速度差が逆転する。徐々に内田が近づいてくる。

 腕をかく。地面を踏む。脚を振る。飽きるほどに繰り返した動きを、嫌というほど繰り返す。

 十数メートルの並走。全身は激しく動くが、視線はゴールラインの向こう側の一点に定まっている。

 体の緊張を解くと、さらに一伸びの加速。内田の気配が隣から消えた。そのままゴールラインを超えて、やっと力を抜いた。

 堰き止めていた空気を循環させる。全力疾走で燃え盛る体内を冷ますように、冷たい空気が滑り込んでくる。

 夕空に蒸気を吐いて停止する。肩を上下させながら振り返った。

 膝に手をついて体を支えた内田は、悔しげに喘いでいる。気を取り直したように身体を起こす。夕陽を背負うようにした内田は、いつもより血色の良くなった顔を恥ずかしそうに斜めに向ける

「追いついたと思ったんだけどな」

 複雑な胸のうちを一言にまとめればそれになるのだろう。吐き尽くすように言った。

「いや……」

 あがった息を整えようと唾を飲み込む。「正直、負けるかと思った」

 自然と笑みがこぼれた。たぶん自己ベストを更新しているはずだ。それでさえ女子の内田と肉薄している。すっきりとした。自らの短距離的才能の無さを、すこしの未練もなく受け止められた。

 長く一人で走っていたように思う。先頭なのかビリなのかもわからない、延々と続いたレースのゴールテープをようやく切れた。

 才能の壁に、練習環境に、負けてはならないと思っていた。そうならないように逃げ出して、ずっと後ろ髪を引かれていたのだろう。

 僻みっぽい悲観はなくて、清々しい諦観ばかりだった。敗北を認めることが何かを閉ざすことのように感じていた。それはたぶん間違いではない。

 けれども絶たれるのは未来ではなく過去だと思った。

 そしてそれは決して切り捨てるような非情なものではないはずだった。

 俺の笑顔が予想外だったのか、内田は目を瞠って荒い呼吸は落ち着いてゆく。

 ポニーテールをほどくと、ふんわりした癖っ毛に太陽が透けて、稲穂のように耀いた。風に乗って内田の汗のにおいが届く。

「私、負けないから」

「おう?」

 決意なのか宣誓なのかはわからないが、俺はとりあえず肯いた。

 内心で首を傾げながら、家に帰ればとりあえず、スパイクをゴミに出そうと考えた。三年越しに、俺はやっと引退するのである。

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