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走り出したら  作者: 肉団子
5章
96/124

駆け落ちしたの

『お昼食べれる? 遠野と約束してるなら明日でいいけど』

 中原千佳が休み時間に携帯電話を確認すると、内田からそんなメールが届いていた。言外に、遠野以外であれば断れと言っているようにも取れる。

『大丈夫。どこで?』

『迎えに行きます』

 わざわざメールしてきたことなんてあっただろうかと身構える。まさかあのヘタレがなにかをしでかしたか。さすがに無防備な女の子を一人残したのはマズかったろうか。いや、それならば一週間も後になってからというのは遅い。

 考えてもしかたないやと、中原は頭を切り換えた。

 つい先日の入学試験も手ごたえは十分にあったが、ここで気を抜いてはいけない。うっかり落ちていれば、そのままずるずると浪人ということもありえるのだ。

 授業そっちのけで内職に専念する。それを咎める教師ももういない。たまに生真面目な先生が「提出物だけは出せよ」と注意を促すくらいだった。

 昼休みになると、走って来たのでと思うほど早くに内田は現れた。寒い廊下を走ってきて暖かい教室が余計に暑いのか、ブレザーのボタンを外して、窮屈そうな胸を解放しながら中原の前の席を横に向けて座った。

 目がどことなくとろんとしている。そこそこ悩んでいる証拠だ。少なくとも中原の見立てでは、ストレスが睡眠欲に直結する子だった。

「当ててあげよう。修ちゃんのことだ」

 うっと内田がたじろいだ。

「最近ねえ、麻衣さんってば私のことをあいつのデータベースか何かだと思ってらっしゃらない?」

「そ、そんなことはないよ……まあ、増えたけど」

 バツが悪そうに床を見る。そういう仕草はとても子供っぽくて可愛いが、いかんせん机に押し付けられた胸が大きい。中原は内心羨ましかった。

「修ちゃんの家に泊まったとき、何かされた?」

「されてないよ」

 何を想像したのか、かあっと耳を赤くする。欲求の変換でも行うように、弁当に箸を伸ばした。

「家を出た後にみんなで話してたのよ。修ちゃんが手を出せるか。満場一致でそれはないってなったけど」

「私だってそう言うよ」

「本人も言いそう……で、何の用?」

「あ、うん」

 突然本題を促されて、眉をぴくりと動かした。「中学の陸上部で、黒沢くんと仲の良い女の子いなかった? 背が大きくて、おっぱいも結構ある子」

 特徴を聞くまでもなく、中原には心当たりが一人いた。

「あー……たぶん、茅野ね。茅野……チエコだったか、チエリだったか」

 中原だけではない。高梨も、当時あの学校に通っていた人間であればおそらく、全員が同じ名前を答えるだろう。

「その茅野さんって、どういう人なの?」

「そうねえ……」

 どう答えるべきかを考えていると、内田が不愉快そうに眉根を寄せる。

 たぶん自分も難しい顔をしているなと思ったが、中原は取り繕うことができなかった。彼女のことを聞かれるとは、思いもしていなかった。

「今朝、黒沢くんに質問したときも、同じような顔してた」

「あー……まあ、ねえ。それにしても、どうしていきなり?」

「ふと思い出したと言うか……」

 言葉を濁す内田は、どこか恥ずかしそうだった。

 逃げるように視線を窓へ向けると、寒暖差で結露ができていた。ラクガキの跡から、水滴が垂れている。

「なるほどねえ」

 アンニュイなため息を漏らす。

「それで、どんな人?」

 話を逸らしそれとなく打ち切ってみたが、内田は誤魔化されなかった。意志が強いのは結構だが、彼女には工夫が無い。直球勝負しか知らないのだろう。意志薄弱なくせにやるとなればあの手この手を使う誰かさんとは正反対。

 だからお似合いに見えるのだろうかしら、と中原は腹を括った。

「一言でいうと、私が修ちゃんを好きだった頃、修ちゃんが好きだった子よ」

 半ば以上想像していたのだろう。内田はやっぱりという顔をして、吐き尽くすような長い息を漏らした。

「中学二年の夏だったかな、あの二人ね、駆け落ちしたの」

「かッ――――けおちぃ?」

 これには驚いてくれたようで、叫びながら立ち上がる。教室中の視線を独り占めにして、内田は、閉じない口をひくひくとさせた。昼休みの放送がよく聞こえたが、やがてざわめきの向こうにかき消される。

「どうどう、落ち着け」

「いやいや、落ち着けって……。したの? 黒沢くんが」

「まあ、そういう噂があったってだけ。……でも、二人だけでしばらく失踪したのは本当。どっちもそのときの話をしないから、今でも駆け落ちしたって思ってる人は多いわ」

「そう、なんだ」

 内田はしゅんとしたように箸を咥える。「なんていうか、似合わないね」

「私もそう思う。修ちゃんにそんな行動力があるとは、ちょっとねえ。当時の陸上部の連中だったら、何か知ってるのかもしれないけど……。私が茅野について知ってるのなんて、あとは……ああ、そうだ。修ちゃんが陸上部をやめる原因になった、かもしれない」

「どういうこと?」

「昔、愚痴ってたのよ。真面目にやってない女子といい勝負だ、陸上は才能だ……って」

 内田は何事かを考えるように窓を見た。というよりは、視線をそらしたというほうが正しいだろう。

 重い沈黙が二人の間に横たわったが、内田はそんなことにも気付かぬふうで、じっと一点を見つめている。気の遠くなるほどにそうしていたが、おもむろに中原のほうに向き直った。

 眠たげだった二つの瞳は、決意に燃えている。

「ありがとう」

 声にも剣呑な緊張感が満ちていた。


          ○


 卒業した学校を訪問するのには、いくらかの勇気がいる。さんざ問題を起こしてきた場所であればなおさらである。

 正門はいつも閉じられており、脇に設けられた鉄柵の扉が通用口である。

 見知らぬ後輩が出てきた。その隙に入ってやろうかと考えたが、やはりそんな無謀はもうできそうもない。

 覚悟を決めてインターホンを押した。カメラに硬い表情を晒す。応答があるまでの長い間に、どうしてこんなことになったのだろうと考える。

 ホームルームを終えるなり、内田がまっすぐに向かって来るのが見えた。並々ならぬ気迫を感じて、俺はその場で動けなかった。

「ねえ、黒沢くん」

「はい」

 もうこの時点で完全に飲まれていた。身長差の分だけ俺が高いはずなのに、内田が大きく感じるほどだった。

「今週末、私と一〇〇メートル走で勝負して」

「……え?」

「ダメ?」

「いやダメではないけど……」

 朝には茅野のことを訊ねられて動揺したが、それがどうすれば徒競走になるのだろうか。理由のわからない睨み合いを、クラスメイトは野次馬のように見物していた。ささやき合う声が耳に障る。

「じゃあ、金曜の放課後ね。武内先生には私がお願いしておく。足は何センチ? スパイクは――」

「待って。スパイク履くの?」

「そりゃ勝負するんだから」

 当たり前でしょうというふうに肯いた。つまりそれだけ本気でやれということだ。金曜の放課後というのも、準備期間を設けようということだろう。

「……わかった。スパイクは自分で用意する」

「よろしく」

 低く、刺すように鋭い声だった。周囲からはざわめきと「どっち?」という声が聞こえてきた。

 なにかをしでかしただろうかと考えたが、そんなことはないはずだ。朝のことを怒っているのであれば、俺のせいだろうけれど。しかし釈然とはしない。その後あったことと言えば、昼休みに教室を飛び出していったことくらい。

 おそらくは千佳から何かを聞いた。状況からして茅野のことを。しかしどれだけ考えても、それが徒競走に繋がる理由は見つからない。

『はい』

 しわがれた声にはっとする。緊張を誤魔化すように、唇を舐める。

「あの、三年前に卒業した黒沢と言います。えっと陸上部でした。顧問の中田先生はいらっしゃいますか」

『黒沢……ああ、あの黒沢君ね。中田先生は退職なされたよ。今は山崎先生が兼任してくれてます。呼びますか?』

「えっと……はい、お願いします」

 インターホンの切れる音がした。細いため息を吐きながら、気持ちを落ち着ける。

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