何プレイなのよ
勝手に鞄を開けることが憚られ、出しっぱなしになっていた筆記具や教科書を片付ける。
内田と二人きりで自分の部屋にいるというのが、どうにもくすぐったくて、早く出ようと急かすと、内田は足元を見ながら首を左右に振る。
「コートは?」
「あっ、ハンガーに掛けといた」
部屋の奥のラックに向かうと、「あっ」と内田が声をあげた。
「それって学ラン?」
コートの隣にかけていた、高校の制服を指して言う。
「そうだけど」
「ずっと着てみたかったの。いい?」
「どうぞどうぞ」
手がすっぽり隠れるほどに袖が余っていた。腕まくりをしてボタンを閉める。角度のせいか丈のせいか、裸学ランに見えてしまう。
「どう?」
よくわからないが得意気な様子で俺を見る。
「可愛いんじゃないでしょうか」
「うん」
にへらと表情を崩すと、内田はそのまま歩き出した。「じゃあ家まで着てて良い?」
「なにがじゃあかはわからないけど」
そろそろと廊下を歩いて玄関に向かう。部屋の前を通った気配からして、母もまだ眠っているらしい。
ようやく玄関にたどり着き、手の隠れてしまう内田が靴を履くのに苦労していると、背後に人の気配があって振り返る。姉が俺たちを見下ろすように立っていた。
「おはよう」
「あんたさあ……趣味やばくない?」
「あ?」
「学ラン着せるって何プレイなのよ。しかもそれで帰るって……」
「お姉さん、違うんです。私が着てみたいって言ったから」
内田が庇ってくれたが、姉は疑わしげに俺を見るばかり。俺の腕にかかった女物のコートに気づいて、いっそう眉を寄せる。
「えっと……何ちゃんだっけ?」
「内田です。内田麻衣」
「そう、内田ちゃん。またね」
愛想笑いを浮かべる姉から逃げるように家を出た。気味が悪い。
肌が突っ張るように寒い。自分と世界との境界が痛いほどくっきりとしていた。
明け方の街はひっそりとしている。夜中よりもこの時間帯のほうがずっと人気がないのはふしぎなことだ。太陽さえもまだ顔を見せず、白んだ空が映りこんだように、空色の大気が淀みなく流れていた。
夏であればすっかり日は昇り、しかし夏の朝独特の清々しさがある。姉と二人、ラジオ体操に行ったことを思い出した。
「手なんか繋いでな。姉ちゃんってば、放っておくと大通りも信号無視するから俺が止めてんの」
おどけて話すと、内田は周囲を憚るように、ぶかぶかの学ランで口元を隠して笑った。
いくらか歩いたところで、ふいに内田が手を打った。布同士が当たって、軽快な音は鳴らない。
「ねえ、日の出を見ない?」
断る理由はどこにもなかった。少々遠回りかもしれないが、比較的視界の開けている土手へと向かう。
「寒いね」と、内田は自分を抱きしめる。服が絞られて、胸が自己主張をする。
「寒いな」
「でもいいね、これ。あったかい」
「だろ?」
堤防に続く鉄橋は、歩くたびにガンガンと音を響かせる。スズメがしきりに鳴き交わす音に、そればかりが人工的な音として混じる。
ビルの向こうが、にわかに明るくなった。無意識にそちらを向くと、山稜にのぼった曙光が、まばゆく瞳を射抜いた。
凍った夜の空気をじわりと融かすように、陽の光は街を包み込んでいく。黄金色の世界。
「綺麗……」
そう呟いた内田の黒々とした虹彩が、朝陽をきらりと反射させる。
「綺麗だなあ」
「私ね、夕焼けよりも朝焼けのほうが好きなんだ」
「へえ」
「夕方はさ、みんな起きてるでしょ。でも朝陽って、独り占めしてるみたいだから好き」
「……なるほど」
シルエットになった橋を渡る車も疎らである。「ははあ」と、感嘆の息を漏らすと、
「あっ、白い」
と、内田が声をあげた。小さな口から出てきた吐息は、たしかに白く色づき、ふっと朝陽にのまれていく。
「ね?」
「白かった。今年はじめてだ」
「私も」
ご満悦そうに言った。
内田の家は複雑に入り組んだ路地の奥地にあった。瀟洒な区画がある一方、ほとんどあばら家と表現したい一角もある。明治維新から現代までを民家を、無造作に敷き詰めたような不思議な路地だった。
たった二段の階段を下り、私有地なのか道路なのかわからない、トンネルのような空間を抜けた先に「内田」の表札があった。
ささやかな門があって、一畳ほどの植え込みの向こうに玄関扉。外観からして築三十年ほどのありふれた一軒家だ。見上げると、屋根には瓦が並んでいる。
「そういえばさ、名字、どうなるんだ」
「え?」
内田はきょとんと首を傾げてから、笑いを堪えるような恥らうような、よくわからない顔をして俺を見る。
「そのことなんだけど、いつか言っておいたほうが良いかなとは思ってたんだよ。母さんに詳しく話を聞いて、父さんに電話して、とりあえず籍は残しておくことになったの。ほら、途中で名前が変わっちゃうと、面倒だからって。とりあえず私が大学卒業まで、別居って形にしてもらったの」
「へえ、そうなんだ。おめでとう?」
「どうだろうね。二人が本当はどうしたかったのか、よくわかんないから。いつか納得できるのかな」
「さあ、どうだろ」
俺は両親の気持ちどころか、自分の気持ちさえわからない。何がしたいとか、どうなりたいとか。それなのに無責任に「いつかわかる」とは、答えられなかった。たとえそれが推定であったとしてもだ。
「まあとにかく、迷惑はかけないように浪人はしたくないかな。黒沢くんも明日受験でしょう。どう?」
「さあ、どうだろ……」
「頑張ってよ。応援してるから」
「応援されたんじゃ、頑張らなくちゃなあ」
気の抜けた返事がおもしろかったのか、内田はくすくす笑う。それから思い出したように学ランを脱ぎ始めた。
だんだん見慣れてしまい忘れていた。俺が腕に引っ掛けてきた内田のコートと交換する。
「それじゃあ」
「またな」
ひらりと手を振って、来た道を引き返す。
ハァと息を吐いてみたが、もう白くはならない。トンネルのような道を抜けて振り返ると、内田はまだ玄関先に佇んでいた。もう一度手を振って、家路についた。
頑張ると言ったのだ。頑張らねばならない。
十二月も半ばに差しかかると、徐々にではあるが登校しない生徒が出始めた。ほぼほぼ出席日数を満たし、二学期の期末試験を終えたということで、もはや高校に用はないということだろう。
試験を三日もボイコットした挙句、なぜか登校しているよくわからない生徒もいた。誰あろう、信楽焼きの狸によく似た信楽君である。口を半開きしにしてぽけーっとしているので、並べてみても区別がつかないだろうと思われる。ギャル美がおもしろがって写真を撮っている。
噂によると彼女に振られたとか、入試がてんで駄目だったとか、あだ名が気に入らないのだとか、様々ささやかれていたが、さして重要ではない。
「そんな信楽君いじめて楽しそうだけど、ギャル美はどうなんだよ、受験とかさ」
「受験?」
俺を見返りピースサインを向けてくる。「一発よ。あんまりあっさりだったから、親にはもう少し上を受けなさいって言われてて、調整中というかなんというか」
「へえ、おめでとう」
「黒沢はどうなの?」
「え」
どこから聞いていたのか、登校してきたばかりの内田も、まっすぐに俺の席に歩いてきた。先週から巻き始めたマフラーに、襟足がくしゃりと広がっている。朝が早いせいか眠たげである。
「私も気になる。どうだったの?」
「え……」
つい先日、迅速に合格通知が届いたが、不思議なことに葉書が一枚きりだった。なお不思議なことには、不合格と書いてあった。人にはそう言うものの、わかっている。落ちるべくして落ちたのだと。
「不合格通知をいただきました……」
「え」
内田は半分以上シャッターの閉まった目で、無感情に見下ろしてくる。睡魔のせいだと信じたいが、どことなく嘲った風があるのは被害妄想だろうか。
そもそも勉強不足だったというのも、もちろんある。何よりそれが一番だ。
しかし試験日前夜のことだった。内田に宣言した手前、その日は一日集中して試験勉強をしていた。心地良い疲労を抱いて布団に潜り込み、目が冴えた。
布団や枕から、心をくすぐるような甘い匂いがしていたのである。内田のにおいだった。
そうだよな、一晩寝たしな。風呂にだって入ってなかったし。自分に言い聞かせれば言い聞かせるほどに、目は爛々と耀いてしまう。どんな体勢をとっても向きを変えても、そこに内田を感じるのである。眠れというほうが酷な話だ。
ようやくうとうとし始めたのは、明け烏の声がし始める頃だった。
「頑張るって言ったのに」
残念そうに目を伏せる。
「まあ、頑張ったつもりだったんだけどなあ」
「じゃあね、聞きたいことがあるんだけど」
「じゃあの意味はわからんけど、なに?」
「中学の陸上部のときに、仲の良かった女の子いなかった? 結構大きい人」
「大きい……」
結構大きくて仲が良いとなれば、心当たりは一人しかいない。彼女の顔も声も、おぼろげになっている。陽炎の中に、幽霊みたいに佇む姿が浮かぶ。
どう答えることが正しいのか考え込む。「いた」とだけ答えると、いかにも何かあったふうだし、かといって言い添えるべき説明は、どれも間違えているような気がした。
言いためらっていると、内田はまるで言葉を取り返そうというふうに、手をぱたぱた振った
「ちょっと気になったから聞いただけだし、別にいいんだけど」
「あ、いや……」
助け舟を出すように、あるいは引き裂くように、始業のチャイムが鳴った。
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