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走り出したら  作者: 肉団子
5章
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幸せな夢

 お日様のにおいがする。

 何日か雨が続いていたから、紫外線が気持ち良い。クラスメイトの村西さんは、どうして日焼け止めをベタベタと塗り、そのうえ日陰を選んで歩くのかしら。内田にはまったく理解ができなかった。そもそも自分が、あまり日焼けしないというのもあるけれど、殊更それを忌避する理由もわからない。

 周囲を見ると、慣れ親しんだ競技場の入口前を歩いていた。自然と植え込みのほうに視線が向かう。学校名は失念したが、黒沢修一のいる学校が、いつも陣取っている。

 女子部員は少ないようで、たいてい一人か二人しか見なかった。荷物番をしているのか、彼はその数少ない女子部員の子と親しげに話している。冗談を言っただろう、彼女は笑いながら黒沢の肩を叩く。その仕草に内田は、いわれない嫉妬心を覚えた。

 もう知らない。

 早足に歩き去ろうとしたところ、遠慮がちに肩を叩かれた。

 振り返ると、目の前に黒沢の顔があった。目線の高さはほとんど同じだ。

 おや? と、内田は首を傾げる。

「財布、落としたよ」

 彼の差し出すそれは、たしかに自分の物だった。ジャージの素材が悪いのかよく落ちてしまうのだった。

「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 お礼を言われてこそばゆいのか、はにかんで立ち去ろうとした彼の腕を思わず掴んでいた。

「うん?」

「あの……どうして部活、やめたんですか」

 詰問するような鋭さが、内田自身を驚かせた。

 黒沢修一の背中を追うことが、内田の部活を続ける理由だった。一人だけ体操服で、一年生で、ずっと遅くとも、まっすぐ前を向いて必死に走っていた背中に、追いつきたいと思った。

 それは憧れだった。

 同じように……いや、もっと本能的な執着が、黒沢の部活動への原動力な気がした。彼と親しげな、身長が高くて胸も大きい女子と、深い仲なのではないかと疑っていた。

 黒沢は少し困ったように目を動かして頭をかいた。

 それからまったく唐突に、腕をとった内田を引き寄せて。優しく包み込んだ。

「えっ……ちょっと……」

 抵抗しようとした手も、すぐに力なく垂れた。彼に頭を預けると、不思議とぬくぬくした気持ちになった。



 お日様のにおいがする。

 わずかに開いた視界は、しかし薄暗かった。それではいったい、この快いにおいと、身体を包む暖かさはなんであろう。

 もぞもぞと動いた拍子に、黒沢の匂いがした。掛け布団を引き上げて、頭まですっぽりと埋まる。寝ぼけた頭がさらに麻痺するような錯覚。

 まどろみに沈んでいく。きっと幸せな夢の続きが見られる。

「……え」

 真っ暗になった布団の中で考える。今日はいつ? 私は誰? ここはどこ?

 本当ははっとした瞬間には全て気付いていたけれど、そのままでは少し受け止められそうになくて、一つずつ順番に整理した。

 周囲の気配をうかがうように、そろりと身体を起こした。夜明けが近いのか、部屋はうっすらと水色だった。見慣れない家具の配置は、昨夜訪れた黒沢修一の部屋そのものである。カチコチと時計の振り子だろう音のほかは、しんと静まり返っている。

 眠っていた? いつから? 勉強をしていて、蜜柑が運ばれてきて、遺伝子の話になって、小難しいなと思った。この話が終わるまで休憩しておこうと思って寝転がったら、炬燵が気持ち良いものだから、うとうととして……内田はたまにぶつかる黒沢の足が離れければ良いのにと思っていたことを思い出す。

 だからあんな夢を見たのかも。

 思い出すと顔から火が出そうで、内田は崩れ落ちた。ぼふんと枕に顔を埋める。枕からは黒沢のにおいがする。

 夢のにおいも、温度も、感触も、波打ちぎわのラクガキのように薄れていく。形を留めようと思い返そうとするほどに、どんどん輪郭がぼやけていき、やがてほのかな幸福感だけを残して消えた。

 きっとものすごく幸せなことがあったのに。

 枕をぎゅっと抱きしめて、幸福をたっぷりと吸い込んだ。

「……って、そんなことしてる場合じゃないや」

 我に返る。目はすっかり覚めていた。こんなに寝覚めが良いのはいつ以来かな。

 音を立てないように注意して歩く。ゆっくりとドアを開いて、廊下に出る。

 暗い。壁を伝うように指先を触れて、抜き足差し足で進んでいく。階段を降りると、洗面所が正面にある。

「お借りします」

 誰にということもなかったが、強いて言えば黒沢家に断って水を流す。氷のように冷たい。軽くすくって顔を洗い、うがいもしておく。

 壁にかかっていたタオルを、やはり申し訳なく感じながら使っていると、いきなり電灯がついて、鏡に女の人が映り込んだ。

 心臓が止まったのは気のせいだけれど、呼吸は間違いなく止まった。叫び声を上げなかったのは、堪えたというよりは叫び方を忘れていたというだけのことだ。

「うっ……わー。びっくりしたぁ……」

 一度見たことがある。そうだ、黒沢のお姉さんだ。

 内田は精一杯に動悸と混乱を飲み込んで、冷静さを取り戻そうとしていた。

「あのっ……えっと……」

「使って良い?」

「あ、はい……」

 きびきびした動作で洗面台を空ける。帰って良いのか悪いのかがわからずに、内田は黒沢の姉が歯磨きを終えるのをじっと待った。

 口をゆすぐと、パジャマの袖で水気を拭い、内田に向き直った。

「千佳ちゃんかと思ってた」

 薄く笑って、頭をちょいと傾ける。含みをもたせるような言い方だった。返事を言いためらううちに、言葉の意味に気がついた。

「あの、昨日勉強しててそのまま寝ちゃって……だからまだそういうのでは……」

「まだ?」

 眉を跳ね上げて、意地悪そうに訊ねてくる。

「そういう意味じゃなくてですね……」

「まあ冗談だけどね」

 内田のことを見定めるように黒目をあちこちに動かす。しかし値踏みするようないやらしさはない。最後に頭から胸へと視線が動いた。

「同い年?」

「い、一応は」

「へえ」

「あの、黒沢くん……あ、修一くんどこか知りませんか?」

「部屋にいなかった?」

「たぶん。ベッドにはいませんでした」

「そう、ちょっと探して来てあげる」

 洗面所を出て行く際に「ベッド」と、震える声で呟いた。変なことを言っただろうかと首を傾げている間に、家を一周して戻ってきた。

「部屋だよ、たぶん。炬燵じゃない?」

「あっ、そうですね。探してませんでした」

 頭を下げてから、逃げるように黒沢の部屋に引き返した。記憶を頼りに壁を探すと、照明のスイッチがあった。何度か瞬いて、朝の特別な光に満たされていた室内は、当たり前の明かりに切り替わる。

 他に人のいない黒沢の部屋。妙にドキドキする。気持ちを落ち着けようと深呼吸したはずなのに、余計に緊張する。

 自分のパーカーが置かれていることに気がついた。そういえば着ていなかった。袖に腕を通しながら注意深く炬燵布団に注目していると、いた。

 頭を半分だけ出して、亀のように隠れていた。

 炬燵布団をそっと外すと、黒沢は毛布に包まっていた。電源は切ってある。

 彼の無防備な寝顔を見るのはこれで三度目だ。昼休みのベンチと、保健室のベッド。あのときの傷はもうずいぶん治っていたけれど、まだすこし色が違っている。

「おーい、黒沢くーん、朝だよー」

 軽く肩を揺すると、意味不明な呻き声を漏らして瞼をぴくぴく動かして、ゆっくりと目を開けた。

「おはよう」

「あれ? 内田? なんで……ああ、そうか……」

 目を擦ってから、ぐっと伸びをする。ガタゴトと炬燵に体をぶつけながら這い出してきた。

 大きな欠伸をしながら「おはよう」と言った。じわりと目に涙が浮かぶ。

「ごめんなさい。寝ちゃってたみたいで」

「ま、グースカ寝てたな。起こそうとしたらえらい不機嫌だったし」

「えっ、うそ、ごめん」

 記憶にない。寝ているのだから当然だけど、またなにか余計なことをしてはいないだろうか。ない記憶を掘り起こそうとしていたら、黒沢が息を漏らすような笑いをこぼした。

「冗談だよ」

 言いながら首を回すと、間接が景気良く鳴る。「それで、どうする? これから」

「これから?」

「朝飯とか」

「あー……家に帰るよ」

「そうか。じゃあ送ってく」

「ええっ、いいよ悪いし」

 胸をときめかせながら、両手をぱたぱたと振って辞退した。

「いいや、送る」

 内田の期待通りに、黒沢は宣言した。


          ○


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