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走り出したら  作者: 肉団子
5章
92/124

流されるままに生きている



 学校の備品なのか、歴代野球部員の置き土産なのか、グローブはたくさんあった。柔らかいのは良いが、まとめて籠に入れられていたせいか、変な癖がついている。そしてどれもこれもくさい。なるべく綺麗なものを選んだ。

 野球部のユニフォームに混ざった学校指定のジャージ姿は、俺のほかに一つある。レフトのここからは一番遠いだろうファーストである。

 ここまでくると、付き合いが良いというより自分がないなと反省する。ずいぶん昔から、こういう性格だった。もちろん楽しくてやっていた面もあるのだが、かつての悪さもほとんどは、高梨に誘われたからやっていたのだから。

 空を見上げてため息をつく。受験まであと二日である。どうして野球なんてせねばならないのか。なにより、どうして今さら勉強に焦っているのだ。己の計画性のなさに呆れて物も言えない。

 肺の空気を吐き尽くして、冬の澄んだ空気を取り入れて気持ちを切り替える。

 ともかく野球だ。

 引退試合だのなんだのはどうでも良いが、あの生意気な後輩には一泡吹かせなければならない。

 ストレートは一三〇キロも出ていない。問題はカーブとツーシームである。素人相手に、どうしてなんなに大人気ない投球ができるのか。狙い打ちをできるほど、野球の心得があるわけでもなし。さて、どうしたものか――

 金属バットがボールを捉える、耳に好い音がした。

 はっと見上げる。夕陽がちらつく中、こちらに飛んでくる点が見えた。回転している。外へと逃げる。

 頭の中に球の動きを描きながら、落下地点へとまっすぐ走る。ボールを確認。間に合う。

「捕るな――っ!」

 長谷部の声。捕るな? 何故? 疑問が形になる前に、伸ばしたグラブにボールは収まる。ブレーキをかけながら内野を振り向くと、三塁ランナーがタッチアップしていた。

 減速から反転。ホームに向けてボールを投げながら、ファールゾーンにいたことに気がついた。

 だから捕るなと言っていたのか。判断の鈍さに舌打ちした。

 ピッチャーが後続を三振にとって、攻守が交代する。ショートを守っていた長谷部のほうへ駆け寄る。

「すまん」

「いいや、俺も落ちると思ってたから」

 引退試合は六イニング制で行われる。これから六回の表。三対二で三年生チームのリードである。

 先頭打者がセンターフライを打ち、俺の打順になる。第三打席。これが最後だ。

 バッターボックスの、中央ややベース寄りに足を置き、バットを揺らしながら土を均す。バッティングセンターで遊んだことや、草野球をやった経験はある。それでもこんなに真剣にバットを握ったのは初めてだ。

 投げ始めにタイミングを取ったのでは遅い。慌てて打つことになる。投球フォームに合わせて足を上げて待つ。

 一、二の三でスイング。ボールの下を擦ってファール。踏み込んで体が沈んでいる。

 今度は軸足を軽く曲げて構える。タイミングは先ほどと同じ。軽く沈んだボールは、バットにかすめて真下に落ちる。

 これでいい。必要最低限の機能を残し、感覚が鈍くなる。たぶん実際には研ぎ澄まされているのだと、頭のどこかで考える。それさえも余計なこととして、泡が弾けるように処理された。

 顔面すれすれのボール球。仰け反って避けるが、避けなくても当たらなかっただろう。

 次の一球。テイクバックに合わせて軽く捻った体を、下半身から戻してゆく。

 投げられたボールは、ふわりと浮き上がるように飛んでくる。

 カーブ。ゆやかに逃げていく。体の回転を堪える。力を溜める。着地した左脚で体重を受けて、引き伸ばされた時間に、ぐっと帳尻を合わせる。

 窮屈だった上体を、腕を、外角低めに向けて解き放つ。



 日没後の更衣室に入るのは、初めての経験だった。

 切れているとばかり思っていた蛍光灯がともっており、コンクリートの壁が作り物っぽく照らされている。

 第三打席、対角線を攻めたカーブを俺はライト線に落とした。完全に三振を捕ったつもりでいた二年生投手は、俺を一睨みするやいなや物凄い気迫で三振を二つとると、サヨナラヒットまで打った。

 悔しさをバネにできるのなら、きっと彼は強くなるだろう。野球のいろはも知らないが、漠然と先輩風を吹かせる。

「悪かったな、いきなりで」

 長谷部がユニフォームを脱ぎながら、俺に話しかけてきた。高校生活を野球に捧げた男と、怠惰に過ごした男の肉体には明らかな差がある。

「いや、良い気分転換になったよ」

「そう言ってもらえると助かる」

 愛想笑いを浮かべたが、言葉に嘘はなかった。

 内田の父が発ったことでいよいよ内田と公園で落ち合う理由もなくなった。それまではなし崩し的に続いていた習慣が、どちらが言い出すわけでもなく自然と消滅していた。受験前に風邪を引くのも馬鹿らしい、というのも大きな理由だった。

 日常はひどく単調になっていた。

「しっかし、硬球ってのは痛いな。なんかまだジンジンする」

「俺も一年のときはビビったよ。こんなん当たったら死ぬなって」

「今は?」

「さすがにな。でもまあ、硬式はこれで終わりだなぁ……」

 長谷部はしみじみと呟いて天井を見上げ、眩げに目を細めた。蛍光灯はそれほど明るくはない。たぶん過ぎ去った青春の耀きを見ているのだ。

 魔法のように早着替えをした山本が、満足げな笑みを湛えてやってきた。

「長谷部は大学でやらねえの?」

「どうだろ。まだ決めてない。大学野球って、あんまりイメージないなあ。おまえはやるの?」

「そのつもり。なあ黒沢」

「あ?」

 突然話を振られて驚いた。学ランに袖を通す途中で体が止まる。

「大学でとは言わんけど、一緒に野球やらねえ? おまえ上手くなれるよ」

「……そんなこと言われたの、はじめてだ」

「野球やろうって?」

「そっちじゃない」

 かつて俺はスイミングスクールに通っていた。姉が始めるついでに通うことになったらしいので、記憶があやふやな頃である。小学校を卒業するまで続けたから、それなりには泳げる自信がある。水泳を続けなかったのは、あるときコーチが「修一は陸上のほうが向いてるんじゃないかなあ」と漏らしたことが、ずっと心に引っかかっていたからだった。

 そうして入った中学の陸上部では、練習メニューに鉄棒があった。雨の日にはマット運動も。一向に成績の伸びない俺に、顧問の爺は「体操でもやったほうがええん違うか」とまったく悪気なく言った。

 高校で体操部に入らなかったのは、まさか盥回しを恐れたわけではない。単純に身体が硬いという事情である。

 泳ぎは得意だし、走ることも好きだ。しかしそれらも、自分で決めたという意識がほとんどない。流されるままに生きている。

「おまえらはなんで野球やってんの?」

「はあ? そりゃ好きだからな」と、山本。

「ガキの頃にグローブ買ってもらったからかな」と、長谷部。

 グローブを買ってもらったからといって、それだけで高校まで野球を続けるわけはなかろう。

 山本は俺の肩を叩いて、陽気な掠れ声で言った。

「まっ、すぐにじゃねえよ。中年太りしたくねえだろって話だ」

 彼はすでに、生涯野球をやると決めているらしい。

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