俺がいた
第二打席。バッターボックスで構え、二年生エースを睨みつける。
あの野郎、素人相手に変化球を投げやがった。聞けばいつぞや盗塁してみせると挑んだときの投手らしい。いい性格をしている。天職なのだろう。
彼はゆったりとしたフォームから、スイッチを切り換えたようにボールを投じた。胸元への真っ直ぐ。
――本当にいい性格してやがる!
バットの根元に当たった。骨に響く衝撃。痛みに歯を食いしばる。軟式ボールとはまるで違う重さ。
詰まった打球は力なく宙を漂って、おそらくはショートフライ。
いつの間にか引き受けさせられた、野球部引退試合の数合わせ。受験前に俺は何をやっているんだろうと、自分で呆れながら打球を視線で追っていると、轟音を立てて上空を行き過ぎる飛行機と重なった。
徐々に高度を下げる機影を、ぼんやりと見つめる。
数百キロの速度で移動する飛行機は、三度という浅さで着陸するらしい。
「はーい、みなさんこっち向いてくださいねぇ!」
校舎の三階から声が降ってきて、視線をそちらに戻した。カメラを持ったおじさんが、左手をぶんぶんと振っている。受験などでいない連中を入れても三百人と少しである。ぎゅっと集まってみれば少ないように感じた。
卒業アルバムに載るという、学年集合写真撮影は、十一月の末に行われた。
日がすっかりと短くなり、昼間であってもどことなく辺りは色づいて見える。どうせ記念に残すのであれば、あらゆる物が輝いている夏のうちに撮って欲しかった。しかしまあ、学生服にブレザーという格好をさせたいのだろうという学校側の気持ちもわからなくはない。
「あ、そこのマフラーの女の子、男の子の陰になって見えないから、そうそう、ちょっと寄ってねー。はい撮りまぁす!」
業者のおじさんはちょこちょこ身振りをまじえ、なるだけ見栄えの良い集合写真に仕上げようと躍起である。
たしかこの後に各クラスの集合写真だったなと、黒板に書いてあった予定表を思い返す。個人写真は少し前に撮り終えていた。
「はい、じゃあもう一枚!」
おじさんの声に、背後からブーイングが起こった。組体操をしている男子集団である。
「高梨はあれに混ざらなくていいの? 目立つぞ」
「馬ッ鹿おまえ、みんなと一緒じゃ意味ねえのよ」
「ふうん」
遠野誠は定期試験で抜け駆けるのと同じように、首尾良く千佳の隣に逃げた。「ああいうのはいかんな」と、高梨とさんざん貶したら虚しくなったのでやめた。
そうして幸せな二人を求めて視線を動かすだけで、視界にちらついて目立つ金髪は、誰あろうギャル美のものだ。高校三年間は金髪を貫き通すという信条のために推薦入試を捨てた筋金入りだ。記念撮影だから黒染めしなさいという教師の声など、まるで木枯らしに転がる落葉のささやき程度に聞き流していた。
桜の紅葉はほとんど散って、だんだんとモミジだかカエデだかが赤みを帯びてきた。毎年思うことだが、案外紅葉は遅くて冬のかかりに見ている気がする。
「はぁい! ありがとうございまーす!」
おじさんは指で丸を作ってから、両手で作り直した。
「それじゃあ、一組から順番に撮るぞぉ! 他の組は教室に戻れ!」
先生の号令など待たずに、俺たちはぞろぞろと引き上げていた。
クラスごとの集合写真は決まった場所はなく、各クラスの希望する場所で撮影するのだが、同じ場所では撮影禁止と暗黙の了解があった。毎年のことだそうだが、人気ナンバーワンは屋上だ。この機会でなければ上れないから、である。
我が七組も立候補した。運良く対立候補は一クラスだけで、代表五名ずつによる、じゃんけんで決めた。責任を取りたくない奴らから体よく押し付けられた俺は、断りきれずに大将じゃなければという条件で引き受けた。ここぞという場面で失敗するという、否定できにない指摘が脳裏をよぎったからである。考えてみれば、この数ヶ月の間に、二度もここぞという場面で下手を打つ奴にじゃんけんをやらせようというのが、そもそもの間違いな気がするが。
その采配が当たったか、無事に屋上での撮影権を獲得したのである。
一組から順であるから、どうせしばらく暇だろうと思ってトイレに立った。小便器の前に立っていると、
「よう」
と、わざわざ眞鍋が横に立った。俺は一つずつ隙間のある男子便所が美しいと思うのだが。
「おう。寒いな、トイレって」
「ま、そんなもんだ」
出し終えた後の身震いをし、手を洗う。水道水もキンキンに冷えている。無言と寒さを紛らすためだけに、俺は思いついたままを口にする。
「床暖房トイレって流行るかな」
「なんかやだな……だいたい、スリッパ履いてるだろ」
「あー、そうか。床に触れなきゃ意味ないな。眞鍋の家って床暖房あるの?」
「いいや、ないよ」
眞鍋も用を足し終えて手を洗う。彼を待つつもりで、意味もなく覗き込んだ鏡に映る俺の顔は、ずいぶんと疲れて見えた。トイレの鏡というものは、光の具合なのか、およそみすぼらしくなるような気がするが。
「そういやさあ、あいつ、良いの?」
ポケットから上等そうなタオルを出し、濡れた手を拭う眞鍋の所作は、どことなく品があって、育ちの良さをうかがわせた。
「あいつ?」
「ほら、なんてったっけ」
トイレのドアを開けると、鮮やかな金髪が目に飛び込んできた。
「うあっ」
と、身を竦め、一歩後退るギャル美。なぜか警戒するように両手を胸の高さに上げた彼女を、眞鍋は「こいつこいつ」と指差した。
「なに? 私の悪口?」
「肝の据わった奴だなって」
ギャル美の疑い深げな瞳をいなして逃げる。
たしかに俺ならばとうの昔に黒染めなり丸めるなりして、金髪なんてやめているだろう。
眞鍋はずいと顔を寄せて耳打った
「見たかぁ? あの目。おっかねえなあ」
「そう? あれで案外可愛いけどな」
「そういうのを、内田にも言ってやれよなあ」
「あくまでも感想だもの。可愛ければ言うよ」
夕食を終えて一息つき、さて受験勉強でもするかと重い腰をあげた。
階段を上ったところに母の部屋がある。襖の隙間から明かりが漏れている。畳んでくれた洗濯物でも回収しようと思ってノックする。
部屋に入った瞬間、母はぎょっ目を見開いた。
「あー、びっくりした。お父さんが来たんかと思った」
「そんなに似てないだろ。服持ってく」
畳んだ洗濯物はいつも襖の脇に置いてある。「そういやさ、今日学校で卒アルの写真撮ったんだけど――」
「あっ、あんた、証明写真」
「あ?」
「その『あ?』よ。声の出し方も、眉間に皺寄せるのも、お父さんにそっくり。一緒に住んでないのに、不思議だわあ」
母は俺の父親のことを「お父さん」と呼ぶ。昔は「修ちゃん」だったそうだが、その字を俺に使ったせいで、呼び名に困った挙句そうなったのだという。離婚したからといって戻せるものでもなかった。
「もういいよ。それで、証明写真がなに?」
「願書出すときに撮ったの、もらってないから」
「いるの?」
「そらいるよ。アルバムに入れるんだから」
「まだ作ってるの? アルバム」
「いいから持って来て」
洗濯物を箪笥にしまって、さてと部屋を見渡す。
入口の横に本棚が並び、段違いに箪笥が置かれている。制服をかけているラックが壁との隙間に挟まっており、窓を挟んだ正面に学習机。隣にはベッドが設置されており、空いた一面にはクローゼットの折戸が広がっている。中ほどの空間に、炬燵が置かれているのは冬季だけのことだ。
写真はどこにしまったっけか。部屋中をぐるぐると見渡し、記憶の引き出しを開けていく。アルバムには入れていない。特別どこかに保管した記憶もない。となれば学習机だ。探してみると、机の端に積まれた大学案内に挟まっていた。
アルバムに挟むのなら一枚で良かろう。八枚一組のシートから一つを切り出し持っていく。俺のアルバムを開いて待ち構えていた母が、いそいそとレイアウトを考える。
修学旅行の写真以来、一枚の写真も入っていなかった。
視線をめぐらせると、半開きの襖に古ぼけたアルバムの背表紙が並んでいるのが見えた。
「あれってお母さんの?」
「え? ああ、そうよ」
母はちらりと見るだけで、おざなりに返事を寄越した。
ふとした興味にかられて適当な一冊を取り出す。赤くて分厚いカバー。ペリペリと、何かを引き剥がすような抵抗を示して、どことなく色褪せた写真に映る母は、今の俺と同じ年頃だった。ページをめくるとやはり制服姿の母と、見知らぬ人々の顔が次々に現れる。
ぱらぱらとページを進めていくと、「二年三組 集合写真」と書かれた大きな写真が目に止まった。丁寧に、おそらく並び順に全員分の名前を書いた紙まで入っていた。
母を探すついでに、誰だかもわからない人々の顔を一つひとつ眺める。
俺がいた。




