武内先生
わざわざ立ち読みをして、多少の時間を潰してから内田の待つ土手へと戻った。
その甲斐あってか内田は通話を終えており、土手の斜面にぼんやりと座っていた。大きな土筆みたいだ。
「遅くない?」
と、頬を膨らます真似をする。
「悪い。ついでにジュース買ってたんだ。イチゴ・オ・レとフルーツ・オ・レ、どっちがいい?」
「どうして両方オ・レなの? ん、じゃあ、フルーツで」
「ほれ」
手渡してやり、内田の隣に腰かけた。
「あ、財布学校だ」
「いいよ。前に奢ってもらったし」
「いつ?」
「たしか、初めて会った日」
「……ああ、四月か」
内田は納得したのか、ふんふんと小さく肯く。
一〇〇円の紙パックジュースを飲むコツは、ストローを押し出すことである。そうするとゴミが出なくて大変よろしい。
甘ったるい液体で喉を潤しながら、長いこと二人して黙っていた。
激しく動いたせいか、治りきらない傷痕が疼痛を訴える。呼吸はすっかり落ち着いているのに、体の芯はまだ熱を持っている。呼吸のたびに、冷めては温まるのを繰り返す。
なんだかとんでもない使命感でここまで走ってきたけれど、過ぎてみればその正体はすっかりわからなくなっていた。無感情そうにぼけーっと、けれどもどこかすっきりしたような内田を見ていると、これが見たかったのだという気がしてくる。ちょうど台風一過のような穏やかな秋晴れだ。
「さっき電話で父さんが言ってたんだけど、黒沢くん不良なの? って」
「なんで?」
「顔に怪我してるからじゃない?」
「ああ、そうか」
子供の頃はいつもどこかを怪我していたけれど、このところはとんとない。これだけ派手なのも久しぶりだった。それこそ喧嘩でもしないと、大きくなっては怪我もできない。
「内田のお父さんって、どんな人?」
「普通の人だよ」
「あんまり似てなかったな」
内田は恥ずかしそうに視線をそらした。
「母さん似だから、私」
「でもなんとなく、内田が小学校のときに運動苦手だったっての、思い出した」
「あ、わかる? 父さんは運動音痴だよ。ずーっと本ばっかり読んでたから運動できないんだって言ってたけどね。ほら、小学校って運動会で、保護者が出場するのあったでしょ?」
「あったなあ、そんなの」
「父さんの走り覚えてるけど、あれは運動できないから本を読むようになったんだろうなって感じ。転ばなかったのが不思議なくらいだよ」
「そんなひどいのか」
「うん、ひどい」
うちの小学校はなんだったろう……。ああ、綱引きだ。自分の親が出ないから、六年間トイレ休憩だと思っていた。しかしまあ、親が出たで出たで、トイレ休憩の時間だった気はするのだが。
飲み終えた紙パックを指先でくるくると弄びながら、内田は慎重に俺との距離を測るように、顔色をうかがってくる。
「あのさ、黒沢くん」
「ん?」
「初めて会った日、覚えてないでしょ」
「公園だろう? 黒いパーカー着て」
「ううん、もっと前」
「前?」
そりゃあ同じ高校に通っているのだから、会っていないことはない。廊下ですれ違ったことは何度もあるし、千佳越しには知っている。けれども、まともに話しをしたのは、やはりあの晩だ。
小さなため息を漏らし、内田は不満げに俺を睨んでつんと唇を尖らせる。
「やっぱり覚えてない」
「いつ会った?」
「中学二年生の春というか夏というか。長居の会場前で、いつも黒沢くんの学校が荷物置いてた場所あるでしょう? あの前を通ったときに私が財布を落としたんだよ。それで、拾ってくれたのが黒沢くん」
「あー……あー? あったかなあ」
「まあ、そんなもんだよね」
肩をがっくりと落とす仕草を見せてから、内田はその場に寝転がった。土のにおいでも嗅ぐように、大きな深呼吸をする。
二度、三度と繰り返し、首をめぐらせて俺のほうを見上げてくる。
「あのね黒沢くん。私、付き合いで陸上部に入ったんだよ。別に運動は好きじゃなかったし、いつやめようかって考えながら、毎日走ってたの。足も遅かったしね。それで、ずるずるいっちゃって、秋の大会かな。二年生に混じって体操服で走ってたでしょ。遅かったけど、走ってる姿がすっごく格好良くてね、ああやって走れるようになるまでは、とりあえず続けようと思ったんだよ。そういう人が、突然『財布落としたよ』って肩叩くもんだから、私本当にびっくりして」
のそりと身体を起こして向き直る。
「黒沢くんはそういうこと、何にも知らないでしょう」
「……うん、初耳だ」
答えてから、まさかと思う。「つかぬことをお伺いしますが、その……その頃から?」
俺のぼやけた質問に、内田は難しい顔をした。それから、ぱっと眉と目を開いてころころと笑う。
「まさか! さすがにそれはないよ! 憧れというか、目標ではあったけどね」
「そうか」
一安心して、別に一安心できる状況でもないことを思い出した。
取りようによっては、二度目の告白であると言っても良いような気もする。
「なあ、内田」
「ん?」
「その、なんだな。あ、もう二ヶ月くらい前になっちゃうけど、その……告白してくれたじゃないですか」
意味もなく、語尾が丁寧になる。
「うん」
返事をする内田の表情からは感情が読み取れなかった。
「こんなことを言うのは申し訳ないんだけどさ……返事、もうちょっと待ってもらえないかな。自分でもどうしたいとか、どうするべきかとか、そういうの、よくわからなくてさ。ああ、いやその、待っててくれってのは返事をってだけで、なんだ、他にいい相手がいたら別にそれはそれで――」
身勝手なお願いを必死に取り繕っていると、内田はくすくすと息をもらす。
「もう長いこと待ったもの。今さらちょっと伸びたって、そんなに変わらないよ」
「……ありがとう」
千佳が聞けば、へたれだビビりだと罵るだろう。けれども、返事はできないという返事はした。他人にとっては小さな一歩だが、俺にとっては大きな一歩である。
そうしてたっぷりと時間を浪費してから、学校に戻ろうと立ち上がった。
帰りは歩くことにした。警察に咎められる要素を、少しでも減らしたいからである。
まるでこの特別な時間を惜しむように俺たちは、小さな一歩をゆっくりと重ねた。
「えー……」
HRの時間、教室に入ってきた武内は、生徒を指揮するように座れと指示すると、出席簿を見るなり、「えー」を息の限りに続けた。
「んん? えーっと……内田と黒沢、なんで五時間目欠席、六時間目遅刻になってんだ?」
クラスの視線が二分して、俺と内田に集中する。
「病院行ってました」
なるべく当然だという態度を作る。笑い声にまじって「産婦人科かぁ?」と、誰かが野次を飛ばす。マジで誰だ。声のしたほうを睨む。
「病院ねえ、どこ悪いんだ」
「頭です」
「あー……頭悪そうだなあ、おまえ。それで――」
武内は内田のほうに身体を向けた。「内田も病院なのか?」
「は、はい」
不必要な嘘を、内田までついた。サボりだと言えば良いものを。
「どこ、悪いんだ」
「たまに目つきが悪いって言われます」
「……えー、黒沢。あとで先生んとこ来なさい」
「はぁ?」
「はい号令」
「起立」
俺の抗議をかき消すように、一斉に椅子を引く音が教室に響いた。
さんざんクラスメイトにからかわれ、馬鹿にされ、逃げるように体育教官室に行くと、珍しく椅子に座るように言われた。そんなに説教が長くなるのだろうかと背筋が寒くなる。
しかも「コーヒーと紅茶、どっちが良い?」とまで質問された。何時間粘る気なのだろうか。
武内はコーヒーメーカーの前でじっとしている。汗とコーヒーの臭いが染み付いた体育教官室は、いやに寒い。暑ければ濃厚に異臭がしそうで、複雑な気持ちだった。
やがてカップを二つ持ち、武内が戻ってきた。
息を吹きかけて冷ましてから、ちびちびとコーヒーを飲む。やはりアイスコーヒーのほうが好きだ。
「あのなあ、黒沢」
「はい」
やけに真剣味を帯びた声に、俺は緊張してしまう。心臓を鷲掴みにされた心持ちのまま、結構な時間を待たされた。動いて良いのか、慎重にコーヒーカップを口に運ぶ。
「ずっと内田が悩んでたろう」
「え、あ、はい」
「そりゃまあ俺だって顧問だからな。調子悪そうだなとは思っていたし、ご両親、というかお母さんには進路相談のついでにちょっと相談されたり、してたわけだ」
「はあ」
「それがどうなってそうなったのかは知らんが……ありがとうな」
「はあ……?」
「なんだその気の抜けた返事は。よくわらかんが、おまえがおらんでも解決はしただろうけど、おまえがいなかったら、たぶんあいつはもっと思いつめてただろう」
「……そうですかね」
大して役になど立てた気はしない。けれども――かつて病院のロビーで一人きりにならないように手を繋いでいたようなことが、なんらかの形で内田にできていたのであれば、俺がいたということが、多少の救いにはなったのかもしれない。
たぶん、そばに誰かがいるということは、思うよりもずっと人の支えになる。それが心細いときならなおさらに。
そういう理屈をこねていると、「よくわからんが」と理屈を通りこして、事態を把握できる目の前の男は、ああ先生なのだなと腑に落ちる。
「ま、それだけだ。それを飲んだら帰って勉強するように」
「言われなくたってやりますよ、まったく」
念入りに息を吹きかけ、一気に飲み干す。手の甲で唇を拭って、武内先生に礼を述べ、体育上官室を後にした。
北風は冷たい。枯葉が地面に増え始めている。一日ごとに冬が近付いている。
知らぬ間に、いろんなものが変わってゆく。万物は流転すると言ったのは、いったいどこの人だったか。
空を見上げると、雲は風に流されて、形を変えて移動する。
時間という風に押し流されて、環境や関係は雲みたいに変わっていく。そのことが怖い
ぽつんと一人身動きできないでいるみたいに、俺は雲を眺めている。
荒れ狂う河川と空とを眺めながら、中州に取り残されたような気がした。
けれども――
変わることを恐れる自分のどこかには、変わりたいと願う自分もいる。たぶんそのこと自体、俺にとっては大きな変化だ。




