父さんより
わざわざ昼に誘った理由は、たぶんこれだ。
午後の移動教室に向かったところで、俺ははたと気がついた。遠野誠と同じ授業なのである。
神の差配か、あるいはクラス順の必然か、席は隣り合っている。
食事を終えてすぐに向かった五組の教室は、昼休みの混ぜ返したような活気と、受験前の張りつめた空気が、まったく自然に同居していた。
前後や左右で分かたれてはいない。斑模様のようである。運良く空いていた、自分の席に座り、読む気もないのに教科書を開く。
遺伝、発生、細胞……一文字たりとも読むことはなく、図解の上を目が滑っていく。
二周もしたころ、徐々に教室が静かになり、ぱらぱらと代わりの生徒が入ってきた。開けただけの教科書と出入り口とを、視線が忙しく往復する。
あ、来た。
不自然にならないように、俺は一度手元を見てから、改めて近付いてくる誠のほうへと顔を上げる。ばっちりと視線が合う。ここだ、ここしかない。
待ち望んでいた素振りはおくびにも出さない。媚も諂いもない。まったく自然に、昨日と今日で何も変わらぬふうに、俺は教室ですっ転んだだけだし、誠だって階段から落ちただけ――
「よ……」
挙げかけた右手が、机に高さで止まった。あろうことか、そっと余所見をしやがった!
まったく自然に、いつも通りの素振りで、挨拶の必要などないように、そのまま自分の席に着いた。
右手を戻すのは、大変恥ずかしい。俺は可能な限り最初からそういう行動だったと取り繕いながら、右手で頬杖をついて、窓のほうを見る。
廊下側の席に座る誠には背を向ける格好になる。
俺の苦悩など知らない第三者からすると、とても不仲に見える構図である。
どうしてこんなに上手くいかないのだ。ただ話しかけるだけのことなのに。いざそうしようとすれば、一瞬の食い違いで気力を殺がれてしまった。
気を取り直してと考えるが、そうとも思えない。治りかけた傷口が痛みを訴えている。殴られたのはおまえじゃないか。どうして喧嘩で負けたほうが気を遣わなくちゃいけないんだ。
しかしすっかり新しくなった細胞は、おまえが手荒な真似をしたんじゃないかと窘める。
どちらも偽らざる俺の本心だろう。それでも運が無かったとはいえ、気絶までさせられてこちらが折れるというのは、どうにも悔しいものがあった。
その後、不調はまったくない。けれどもひょっとすると、頭を打って馬鹿になったのではないかと思うことがある。先週、学校に自転車を置いて帰ったわけだが、今週はずっと電車通学である。毎朝毎朝、乗りもしない自転車の鍵を持ってくることを忘れている。
登下校でしか使わないから不便ではないというのがいけない。
窓側の壁をぼんやりと見つめながら、何かきっかけがないかと念じる。消しゴムを落とせ、消しゴムを。拾ってやるから。
きっと誠は誠で、同じような心境なのだろうと思うと笑えるのだが、しかし笑い事ではない。
そうだ、こちらから落とそう。チャイムが鳴る。教師が来る。起立の号令をかけたとき、頬杖を解きながらさりげなく筆箱を払うのだ。机に手を突くふりをすれば、ちょうどよく真横に弾けるだろう。
演技臭くてはいけない。頭の中で入念にイメージトレーニングをする。
予鈴が鳴った。生徒の入れ換えはほとんど完了している。
恋人を待つような心持ちで入口にじっと意識を集中させていると、ふらりと内田が現れた。内田も同じクラスだが、二つ前の席が空いていることに今さら気がついた。
沈んだ表情で視線を彷徨わせ、目が合った。
今にもこわれそうな顔。小走りに近付いてくる。豊満な胸を押しつぶすようにして、携帯電話をぎゅっと握っていた。
「どうしよう」
言葉足らずということにも気付かない。切羽詰った感じに、俺の前に立ち尽くした。
その様子に俺は、春先の公園で出会った彼女を思い出す。嫌な予感がした。
「何があったんだ」
「これ……」
携帯電話をそっと俺に差し出し、反対の手は自分をかき抱くようにさらに胸を潰す。一瞬触れた彼女の指は、ひどく冷たかった。
受信メールの画面が開かれている。差出人は「父」の一文字。
麻衣へ
本当は直接言おうと思っていたが、どうにも決心がつかなかった父さんを許してください。
たぶん麻衣も気付いていたでしょうが、父さんと母さんは別々の人生を送ることになりました。麻衣がもっと小さければ言って聞かせたでしょうし、もっと大きければ相談もできたと思います、十七歳、受験生ということを考えると、父さん達も事前に言うべきかどうか、ずっと考えていましたが、結局こういう形になってしまいました。
母さんを嫌いになったというわけではない、ということだけはわかって欲しい。そうならないために離婚を選んだと、言ってわかってもらえるでしょうか。
もちろん麻衣を捨てるつもりでもない。
早期退職を募っていたとか、千葉の伯父さんが会社を大きくすると声をかけてきたとか、母さんとの小さな諍いがあったとか、いろいろありますが、そういうことが重なって、父さん達がそういう選択をするのだということを理解してください。
勝手な話だと思うだろうけど、麻衣のお爺ちゃんが亡くなるとき、父さんは受験を控えていました。病院に行っても「大したことはない」と追い返され、末期の癌だったと聞いたのは葬儀の後でした。「余計なことを考えさせずに勉強してほしい」というのを、そっちの都合だと思ったのに、今になってその気持ちがわかります。
君の人生の障害にはなりたくない。些細な心労もかけたくはない。
そう思うせいで、麻衣が悩んでいたことは、最近になって気付きました。最初から話せば良かったのか、これで良かったのかはわかりません。ただやっぱり、いつまでかかるかわからない問題に巻き込んで時間を取らせるよりは、ずっと良いと思います。このことについて、母さんを責めないであげてください。母さんは話すべきだと言っていたのを、父さんが押し切りました。
本当に意見が食い違ったのは、この一点だけでした。
挨拶をすませてから、千葉のほうへ行きます。向こうで落ち着いたら、また住所を知らせますので。
のんびりしているようで、母さんに似てしっかり者の麻衣のことだからきっと大丈夫でしょうが、受験頑張って。
父さんより
携帯電話から顔をあげると、内田は縋るような瞳を俺に向けた。
「どうしよう……」
天井を見上げる。覚えていない、父が家を出た日を想像する。彼はどんな顔をして、幼子だった俺を置いていったのだろう。
「内田はどうしたい?」
俺は立ち上がって問いかける。内田は一瞬、考えるように足元に視線を落とし、きっと向き直る。
「会いたい」
「よし」
メールはほんの十分前に送信されている。可能性はある。
携帯電話を勝手に操作して、アドレス帳から「父」のページを開いて渡す。
「これは?」
「電話。今どこか訊いて」
「わかった」
「ええと自転車で……」
家にいるなら直接行く。車だったらもうどうしようもないが……
「ああっ! 鍵が!」
忘れていた。自転車の鍵を家に忘れていたことを、すっかり忘れていた。
「内田、自転車だったよな?」
「えっ、今日は電車だけど」
「マジか」
走って……は無理がある。まさかタクシーを拾う金はない。電車だとすれば、相当に位置を絞り込まないと……。
「ん」
考え込む俺をつついて、真横から声がした。
「え?」
隣を見ると、誠がキーホルダーに指を通してこちらに伸ばしている。
「自転車。俺のわかるだろ」
「ありがとう」
鍵を受け取って、内田の手を引いて走り出した。
入口で生物の先生とぶつかる。
「こらおまえら、授業だぞ」
「便所です!」




