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走り出したら  作者: 肉団子
4章
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じっくり見てもゴリラである

 生徒指導の島田は、冬毛が生え揃ってきたのか、頬に立派な髭を蓄えていた。一見するとゴリラである。じっくり見てもゴリラである。

 実に動物的な握力で、頭を鷲掴みにすると、息がかかるほどの近さで俺の顔を検めた。

「えらい怪我をしとるなあ貴様」

「ええ、まあ……」

「保健室の先生に聞いたが、教室で遊んでいたら机から落ちたそうだな」

「えっ? はい、そうです」

 本気で驚いてから、青少年をからかって遊んでいたような女が、天使のように思えた。

「それにしてはなあ、まるでも取っ組み合いをしたみたいじゃないか? 首の引っかき傷とか」

「寝ぼけて掻く癖があるんですよ」

 言い訳としては苦しい。しかし、島田は「ほう」と顔を離した。

「今さら言われたくもないだろうがな、受験なんだぞ。ほどほどにしろ」

 俺の頭に拳を落とそうとしてから、すんでのところで手を止めて、自分の顎鬚を摩りながら職員室へ消えて行った。頭はまずいと思ったのだろう。

 火中に栗を拾ったというべきか、不幸中の幸いというべきか、気を失ったおかげで拳骨を免れたわけである。

「いや、禍転じて福となす、だな」

 自分の言葉に肯いて、移動教室へと向かう。

 一年次はこの選択授業がほとんどなかった。ホームルームのクラス単位がほとんどだった。二年、三年と進むほどに選択授業が増え、半分近くはバラけて動いている気がする。これが大学へすすむと、ホームルームさえなくなるそうだ。

 この段階に至って、ようやく俺は最高学府にありように思いを馳せたような気がした。

 それもすぐに雑踏に飲まれ、俺は数学の三年三組、数学の教室に入った。

 教科書を坦々となぞる授業は、予習が楽で良い。暇な時間に勝手にすすめておけば間違いないのだから。授業時間は寝るなり雑談するなりしていれば過ぎるのだ。

 いつもそういう調子だから、それなりに顰蹙を買う。最初っから授業なんて受ける気のない、後ろの席に座る福島を除いては。

 ソーセージみたいにプリッとした指をスケッチしながら会話していると、いつもよりも周囲の注目を集めているような気がした。

 普段もっと大声になってしまうこともあるのに、それよりもずっとである。

 不気味に思い、辺りを見渡す。遠巻きに(皆自分の席についているだけだが)こちらを見ながら、ひそひそと言葉を交わしている。普段であれば表情からも「うるさいな」と声が聞こえてきそうな顔なのだが、それほど単純でもない。

 まさしく話の種にされている感じである。

「なあ、これって」

 俺は自分の顎の絆創膏を指し示す。打ち所が悪かったのか、皮がめくれていた。「これ?」

「それ以外になんかあるか? いやない」

 福島はようやく気付いたかというふうに言った。頬杖をつくと、顔の贅肉がぐにゅっと歪んだ。

 そんな気はしていた。

 目撃者がいたこと。明らかな怪我が両者にあること。

 刺激に乏しい学校生活である。そのうえ今は受験シーズンだ。合間を縫ってする噂話に花が咲くのも、当然というものだ。

 なお面白いことに、一人はひたすらに学年トップを維持していた男。あらぬ尾鰭をつけながら、あれこれと囁き合うのは楽しかろう。

 いつまでも好奇の目で見られてたまるか。

 都合よく、その日は体育があった。十一月いっぱいはバスケットボールである。息の合ったコンビプレーでも披露し、然る後にハイタッチでもすれば、それで全てはご破算である。

 なんであれば、ハグしてやっても良い。



「――って思ってたんだけどなあ」

 翌朝の教室で俺は、止まないささめきにさらされていた。ほとんど内容はわからないのに、単語単語で噂されているのがわかってしまう。被害妄想も多分に含まれだしているのだろうが、それがより辛い。

「ハグしてねえだろ。ハイタッチしてねえだろ。コンビプレーをしてないっていうか、そもそもあいつ、見学だったしな」

「わかってるよぉ……」

 非常に情けない話である。

 体育館に出向くと、隅のほうに制服姿の遠野がいた。まさかと思っていたが、手を包帯で白くしていた。俺の手もそれなりに怪我をしていたが、まさか休むほどでもなかった。丈夫な体が恨めしいのは初めてだ。

 当てが外れてしまい、勢い普通に話しかける勇気まで挫かれた。

 それはあちらも同じようで、廊下ですれ違ってもどちらともなく視線を逸らし、「おはよう」もなければ「さいなら」もない。もとからそんなにベタベタと仲良しこよしをしていたわけでもないのに、そういう一々が、やはり仲違いをしたのだという噂を、より裏付けてしまったのである。

 最悪なのは、千佳と誠が交際を始めたという話までが関連付けられたことである。

 まったくそんな浮いた話はなかったのに、たった数日のうちに俺は寝取られた間抜けという図式になりつつある。

 直接言われるのならまだ良いが、それがひそひそと、殺し損ねたゴキブリの気配のような距離で繰り広げられるのだからたまらない。

「もうさあ、昼食おうぜって言いに行けよ」

「そうなんだけど、そうじゃないんだって……」

 そんな簡単なことさえ難しくさせているのは何なのだろう。

 まったくもって、自分の心ほど思い通りにならない物もない。明らかな正解が用意されていても、はいそうですかと選べない。

 世の中には大きな川みたいなものが流れていて、どうしたって逆らえずに、流されているだけのように思う。

 悶々とその気持ちに向かいあっていると、しかしこれは既知の感情であるような気がしてきた。

 いつ。どこで。

 答えは案外はやくに見つかった。

 高校生だった姉が彼氏を家に連れて来たことがあった。断言するがシスコンではない。しかしその男というのが、どうしようもなく嫌いなタイプの人間だった。

 嫌悪感とも喪失感ともつかない、対象さえぼやけた悪感情。

 ずっと手を繋いでいたはずの姉か妹が、ふと気付けばいなくなっていた。その手は別の男と握られている。

 いけすかない姉の彼氏に抱いたような種類の嫉妬である。

 妹のようだとも姉のようだとも思っていたが、まさか本当に家族と同じ距離に置いていたとは、自分でも驚いた。

 そうと確信したところで、そうなのかと切り替えることもできないのが、心というものの厄介なところだ。

「オレが飯、誘ってきてやろうか?」

「いや、それはなんか、負けた気がする」

「ふうん、じゃあダメだな」

「おう、ダメだ」

 教室が隣であるせいか、一日のうちに何度もすれ違う。しかしそのたびに、俺たちはわかりやすくお互いを避けてしまう。

 普段ならば殴り合おうが罵り合おうが、事が済めば忘れされるのに、どうしたことか意地ばかり張ってしまう。

 久しく派手な喧嘩をしていなかったことや、誠と喧嘩をしたのは初めてだということ、決して些事とは切り捨てられない千佳のこと。飲み込めるはずの一つ一つが折り重なり、口にさえ入らない大きさになっている。

「修ちゃん、いる?」

 俺の悩みも周囲の空気もお構いなしに、千佳が弁当箱を引っさげてやって来た。

 別に悪いことをしているわけでもないが、人目につきたくなくて、足早に教室を出た。

「八組は隣だぞ」

「八組に修ちゃんはいません」

「まったくだ」

 隣の教室へ行くのかと思えば、千佳は逆方向へ歩き出した。

「あれ?」

「気を遣ってんの。それとも、一緒が良かった?」

「……ありがと」

「ん」

 一昨日と同じ、非常階段を上り詰めた場所に落ち着いた。

 千佳はほとんどいつもと同じ調子に話し、別れ際に一言だけ、

「早く仲直りしなよ」

 と、諭すように言った。優しい微笑みに、妹か姉かと思っていた彼女が、切り離された女性になっていくようで、寂しさを覚えた。

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