怒るからね
「私、遠野と付き合うことになったから」
「……それは、おめでとう」
千佳が学校に復帰した一日目、お弁当箱をつまんでランチのお誘いにやって来た。珍しいどころの話ではない。初めてのことだった。あんまり驚いたので自分のことを指差すと、千佳はひとつ肯いた。内田のほうを指差すと、二度頭を振った。
引かれ者になった気分で歩いていると、一号館の西端にある非常階段を上り詰めたところまで連れて行かれてしまった。校内図を頭に広げてみれば、特別教室の中の非常扉と通じているはずなので、使う人間はまずいない。
緊張か寒さか、あるいはその両方に端の先を震わせながら弁当を食べていると、不気味な沈黙を破って千佳は、告白されたという告白をした。
「いつ?」
「鼻血の跡をべったりつけた顔して、私の家まで来た。教えた?」
「いいや」
「じゃあ高梨か」
得心したように、ふんふんと肯く。「たまには良いことするなあ、あいつも」
目の高さの常緑樹の枝が、がさごそと揺れた。枝葉のカーテンの向こうは陰になって見えにくいが、その中に一等暗い影がある。烏だった。警戒するかのように、こちらに視線を定めている。
ぶるりと身震いして食事に戻る。
「まあだからさ、もういろいろ気を遣ってもらわなくっても大丈夫ってことを言っておこうと思ってね」
「頼まれたほどは、何にもしてないけどな。結局さ、なんであいつ、そうなったわけ?」
「さあ、知らない。恥ずかしいからって言わなかった」
「そんなんで良いのかね、君らは」
何もかもを包み隠さず話せる相手が、無条件で最高のパートナーというわけではないだろうけれども。
素っ気無い調子の声を千佳は作った。
「本当はさ、あんたのことぶん殴ろうと思ってたんだよね。私の彼氏にこの野郎っ! って。でも修ちゃんの顔もボロボロだし、喧嘩したときはまだ付き合ってなかったわけだし、どうしたものかしらね」
「殴らないでいただけると、ものすごく助かる」
「あっそう。それじゃあさ、どっちが勝ったの?」
好奇に満ちた顔で訊ねてくる。
「あえて言うなら、俺の負け」
「あっははははっ! 本当に? 修ちゃん負けたの?」
「うるさい。あと百回やれば百回俺が勝つ。千回に一回がたまたま最初にあっただけだ」
「えー?」
千佳は俺を小馬鹿にしたように、にやにやとする。
「なんだその顔はこの野郎」
「野郎じゃないし」
「細かいな、姑かおまえは」
「姑じゃない。彼女よ」
と、勝ち誇るかのように、顎を上げた。「誰かと違って、即答だったわ」
「……誰かだろ」
「そ、誰か。ということで、私が修ちゃんを許さないことがあるとすれば二つね」
「あ?」
「私の彼氏を殴った場合と、私の友達を蔑ろに場合」
千佳は俺の上腕を、こつんと叩いた。励ますつもりだったのだろうけど、打ち身になっていたそこは、ひどく痛んだ。
○
「今度修ちゃんを殴ったら、私、怒るからね」
中原千佳は自習室で遠野と向き合って勉強をしながら、話の流れでそう言った。流れとはつまり、昼休みの出来事の報告である。中原にしてみれば黒沢が顔を傷だらけにしていたのは予想外だったし、ましてや負けたと言われるとは思わなかった。
ここぞという場面では必ずドジを踏むくせに、土壇場にはやけに強い。博打を打っているようで、その実必ず勝つ方策を考えてから動く。そういう人間だ。
ましてや相手は遠野である。それこそ一方的に殴られてひどい顔をしているのだとばかり思っていた。
「やらないよ。百回やったら百回負けるから」
黒沢と同じことを言うものだから、千佳はくすくすと笑ってしまう。どう受け取ったものか、遠野は口をへの字に難しい顔をした。
退院した途端、父親から安静にしなさいと言われてしまった。結局何のために入院したのかわからないほど健康体だったので、さすがに辟易とし、
「修ちゃんだって何度も事故に遭ってたけど、病院にも行かないで遊んでたじゃない」
「男の子と女の子じゃ違うだろ。それにあの子は頑丈だから」
確かに頑丈だったなと、彼のケガの遍歴を思い返してみた。そこそこ無茶をやっているくせに、骨に影響が出たのは二度だけだ。それが多いのか少ないのかは、難しいところだけど。
そんなことを考えているとアルバムを見たくなって押入れをひっくり返していると、ひっくり返りそうな慌てっぷりで母が呼びに来た。
玄関に出て自分までひっくり返りそうになった。頑丈とはほど遠いが、よっぽど上手に危険を回避しそうな遠野誠が、絆創膏とガーゼだらけの顔で、夕闇に佇んでいたのである。
「ごめん」
中原が戸惑うほど長い間、彼は頭を下げていた。謝るほどのこともない種々を、言い尽くせぬ罪悪感を、短い言葉と長いお辞儀にのせているのだ。
ああ、やっぱり頭は良いけど馬鹿だ。ずっと遠くに感じていた遠野がいくらか近付いたようで、中原はすこし嬉しくなる。
前触れなく中原に、いかにも弱気を精一杯の勇気で押さえつけているという顔を向けた。
「好きだ」
やはり言葉は短かった。そしてやはり、中原が返事をするまでの長い間、遠野はまっすぐに、彼女の目を見つめ続けていた。
嬉しいことには嬉しかったし、これで良かったとも思うが、中原はまだ自分がなぜ好意を持たれたのか納得できていなかった。
「やっぱり、教えてくれないの?」
出し抜けに言ってみた、油断してぽろっと漏らすような気がしたからだ。
「何を? 勉強?」
「そうじゃなくって……」
「ああ……。そうだな、まあ、いつかは」
照れ隠しに、遠野は自分の目を揉んだ。その手は痛々しく包帯が巻かれている。受験生の彼にとっては、なによりの重傷は右手の怪我だろう。告白に来たときはなんともないようだったが、週明けには包帯を巻き、手首を固定しているらしい。捻挫と裂傷らしい。
そういうわけで、自習とはいっても遠野は単語帳をぺらぺらとめくってばかりいる。曰く、
「今さら書かなきゃいけないこともない」
どういうペースで勉強していたのかしら。疑問に思いながらも、できる限り考えないようにして、中原は自分の勉強に気持ちを向ける。あれこれとしている間に、半月ほどで試験なのだ。
「それにしても――」
遠野は単語帳から窓へと視線を移した。つられてそちらを見る。外はもう暗くて、窓には二人の姿が映っている。机を挟んでいる以上の距離があるように見えるのは窓ガラスの仕業だろうか。
半透明の夜の街を、ぼんやりと眺めるように遠野は続けた。
「修一の奴はどうやって俺のこと……」
独り言だったのだろうか。声は次第に小さくなり、ついにため息に変わってしまった。
「修ちゃん、あれで案外気ぃつかいだからね」
「あいつが? まさか」
まさかと言いながらも、納得したような響きの声音だった。
「きっとね、家のことがあってだと思うけど。ほら、子供の頃に『他人の気持ちになりなさい』って注意されたりしたでしょ。あれを言葉通りできちゃうのよ、あいつ」
「まあ、それでいいか……自分でもわからなかったのになあ……」
見舞いにも来ずにどこにいたのかと責めると、遠野は「自分探ししてた」と答えた。ゲームセンターに行ったり、海に行ったり、山に登ったりしていたらしい。黒沢とひとしきり暴れ終えたあと、これだったのだと腑に落ちたという。
「それはそれで良いかもしれないけど、良いの? 遠野と修ちゃん、噂になってたよ」
「え?」
意外そうな顔である。噂話は台風だなあとおかしくなる。
○




